遭難

2014年4月16日(水)
遭難

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午前二時過ぎに目が覚めたら社会派日本映画もどきの夢を見ており、それはなんとコントラストの強いモノクロ映像だった。自分がこんな格調高い夢も見るのかと目が覚めた瞬間に驚いた。

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夢の中ではまだ学生をしていて山岳部員ということになっている。福島の学生たちと合同登山をしていたが途中で下山せざるを得ない事態が出来し、そのおかげで危うく遭難事故を逃れたのだった。

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ある夜、学生アパートを一人の若者が訪ねてきて
「あの遭難事故で生き残られた方ですか」
と聞くので、そうだと答える。
「でしたらお話を聞かせていただけますか」
「ええ、いいですよ、お上がりください。そうだ、このアパートにあの日いっしょにいた仲間がいるんですが、彼もここに連れてきましょう」
「ええ、ぜひお願いします」

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廊下の向かいにある友人の部屋のドアをたたく。
「どうぞ」
という声が聞こえたのでドアを開けると、机の上に電気スタンドをともして勉強している背中が見える。芦川いづみ演じる友人の恋人が部屋を訪れていたので
「例の遭難事件のことで話を聞きたいという人が訪ねてきているんだ」
と耳元でささやくと
「ああ、福島の山中さんは有名な人だったから」
と言う。

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友人を伴って自分の部屋に戻ると、ドアの立て付けが悪く、蝶番(ちょうつがい)ごとガバッと外れてしまったので木工用ボンドで応急処置をした。これは大家に言ってちゃんと修理させなきゃだめだなと、いつも通りのドタバタへと脱線する事態が出来し、社会派の夢から下山して目が覚めた。

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車輪の発明

2014年4月15日(火)
車輪の発明

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教育学部出身者には「車輪を再発明する(reinventing the wheel = 既にある物をいちから作ろうとする者をからかって言う喩え)」ことが好きな者が多く、まわりの人からはくどい、しつこい、いじわる、同じことばかり言っているなどと揶揄されやすい。

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教育学部出身者はくどくて、しつこくて、いじわるで、同じことのくりかえしにすぎない話にも、少しずつ違いがあったり、ほんの少しだけ進歩があったりすることを楽しみながら付き合う忍耐力と許容力があり、歳をとるにつれ教育学部出身者同士で結婚したことをありがたく思うことも多い。

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車輪をいちから発明するなど徒労と言えば徒労なのだけれど、世の中のほとんどは既に発明されたものの寄せ集めでできているので、人生とはそもそもくどくて、しつこくて、いじわるで、同じことのくりかえしにすぎないではないかとも思う。

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人生とはくどくて、しつこくて、いじわるで、同じことのくりかえしにすぎないなどという、誰もが気づいていることをわざわざ言葉に出して言いたくなるのは教育学部出身だからであり、実は車輪を再発明させることこそがほんとうの教育なのである。くどいけど。

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ラジオと手仕事

2014年4月14日(月)
ラジオと手仕事

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いつもお世話になっている近所の診療所は、待合室の天井スピーカーから BGM に AM ラジオ放送が流されており、たいがい平日の午前中に行くので TBS ラジオ「大沢悠里のゆうゆうワイド」を聴くことになる。

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小さな診療所なので、待合室も、受付も、調剤室も、診察室も繋がっているため音が筒抜けで、先生の声と毒蝮三太夫の声が混ざり合ったりしており、医者と患者の会話に商店街から中継される笑い声が重なって聞こえたりする。

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年齢のせいかどうかはわからないけれど、最近は AM ラジオが聞こえる仕事場が好もしく思えてきたので、週初めの朝はラジオをつけ、小さな診療所にいるような気分で仕事をしてみた。

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ラジオをつけながらできる仕事というのは、体力と言葉によらない感性の領分になるので、ラジオを聞いていてもちゃんと手が動けば差し支えないし、余計な考え事をしなくて済むのがかえって気持ち良い。

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瓦職人だった祖父はラジオが好きで、薄暗い作業場の隅にあぐらをかき、トランジスタラジオから流れる話し声や歌を聴きながら、夜明けから日暮れまで、一日中だまって生乾きの瓦を磨いていた。

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どうしてもラジオの音が気になって集中できないことが差し障りになる仕事というのもあり、そういう時は仕方なしにラジオをとめるが、音が消えた瞬間に訪れる寂しさを感じる年齢になったのか、歳をとったらラジオを聴きながらできるような手仕事を人生の友とするのもいいものだなと思ったりする。

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ロボット

2014年4月14日(月)
ロボット

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電車に乗って買い物に出たら、目当ての店が閉まっていたので、駅の反対側に行き、数十メートルの距離に隣接して営業する二つの大型スーパーに行ってみた。

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どちらもコンビニチェーンを展開する大企業なので、コンビニをそのまま大型化したような店づくりになっており、ロボットのように無表情な人間の店員が、パックされた商品を運んだり並べたりしている。

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客を近くに検知すると
「らっしゃいまっせーっ」
と声を出すよう教育されているらしいが、来店に感謝しているふうではない。客と進行方向が鉢合わせするときは
「らっしゃいまっせーっ(仕事のじゃまだ、どけ、こら)」
という意味になるようで、客を押し分け、買い物の邪魔をしながら歩き回っている。

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必要最低限の数だけロボット人間を配置し働かせて人件費を切り詰めているせいか、静かな店内ではどの商品も人間らしさを削った分だけ値段が安い。その悲しく安い商品を棚から選んで、買い物カゴに移している客もまたロボットのように悲しげで寡黙である。

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必要最低限の買い物を終え、うすら寒いブラックボックスを脱出し、ロボット人間化される前に帰途につき
「わざわざあの店に行くこともないね」
と話しながら、人間らしい遠回りをして地下鉄で帰ってきた。

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カレー南蛮百連発:043 北区西ヶ原の栄亀庵

2014年4月12日(土)
カレー南蛮百連発:043 北区西ヶ原の栄亀庵

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東京都北区西ケ原4丁目にある栄亀庵(えいきあん)に、いちど入ってみたいと思っていた。小学生時代に何度か前を通ったことがあり、中華料理の喜楽の方は母親に連れられて入ったことがあるが、こちらの蕎麦屋の暖簾はくぐっていない。

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堂々とした店構えの蕎麦屋なのだけれど、入ってみたら驚くほどこぢんまりした店内で、四人がけのテーブル三つと、身体のちいさな人が三人掛けできる小さなカウンターになっていた。適度に年季の入った店内には先客が一人いて蕎麦のセットメニューを食べていた。

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店内で食べさせるというより出前が忙しそうな店で、かつて東京外国語大学があった頃はさぞや忙しかったことだろうと思う。壁を見たら郷里静岡県清水の町を写した写真があってびっくりしたが、清水の町というより茶畑と富士山を写したのだろう。

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厨房のご夫婦に見える二人はまだ若く、奥さんが蕎麦を作って亭主が出前をするらしい。若い人がつくるせいか、やはりカレー南蛮も黄色くてどろっとした今風の東京カレー南蛮だった。

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迎え酒と迎え塩

2014年4月12日(土)
迎え酒と迎え塩

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いやなことを忘れる一番の方法は忙しくして自分を忙殺することである。忙しくしているといやなことを思いだすいとまがないので、反復による記憶定着がおこりにくい。忙しくすることで忘れ上手になるわけだ。

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心の忙しさがいやな記憶を生むのだから、さらに忙しくすることで記憶が定着するいとまを与えないという方法であり、酒で二日酔いを忘れる迎え酒に似ている。もしくは上手な塩抜きの秘密が真水でなく薄い塩水を使う迎え塩であることにも似ているかもしれない。

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自分がまたいやなことを思いだして後ろ向き思考になっていることに気づいたら、いやな記憶への迎え酒や迎え塩を思い浮かべて、いやだけれどやらなくてはいけない仕事を見繕ってやってみることにしている。

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いやなことを忘れられて、しかも溜め込んでいた嫌な仕事も片付いてしまうという一石二鳥の方法であり、電機回路やホメオスタシス——生命が平衡状態と定常状態を保とうとする生得の働き——における正帰還や負帰還というフィードバックに近いのではないかと思う。

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「ジャムパンの男」実践編

2014年4月11日(金)
「ジャムパンの男」実践編

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ここ数日暴飲暴食が続いたせいか昼食時になっても食欲がない。近所のコンビニへ買い物に出たら、パン棚に昔ながらのジャムパンがあるのを見つけたので買ってきた。

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ジャムパンの男」と題して司馬遼太郎の随筆に関する日記を書いてから、一度それをやってみたいと思っていた。「男がジャムパンを食べている。ぱくっと食べた断面を眺めながらもぐもぐ噛んで、反対の手に持った牛乳をゴクリと飲み、またジャムパンを食べて断面を眺め…ということを繰り返すのだけれど、あんなにおいしそうなジャムパンの話を読んだことがない」(2014年4月4日の日記より)。

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最近は目新しさばかり狙って、傷みやすく日持ちのしないパンが多いのだけれど、ビニール包装されたジャムパンは意外に賞味期限が長い。賞味期限の長さに対する根強いニーズもあって、こういう昔ながらのパンが生き残っているのだろうとも思う。


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随筆にあるようにぱくっとひとくち食べたらひどくぼそぼそしており、司馬遼太郎の「ジャムパンの男」を真似しようと思わなくても、ひとくち食べるごとに流し込むための牛乳が欠かせない。

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考えてみれば昔の菓子パンというのは、こんな風にぼそぼそしたやつを食べる機会が多かったことを思い出した。司馬遼太郎に出てきたジャムパンの男も、ジャムパンを飲み込むため牛乳を飲まずにいられなかったのかもしれなくて、どうしてこんなにぼそぼそしてるんだろうと、ひとくち囓るごとに断面を眺めていたのかもしれない。きっとそうだ。

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手帳とワカメ

2014年4月8日(火)
手帳とワカメ

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新宿しょんべん横丁にある鰻の寝床のようなめし屋はご飯がおいしい。炊きあがったご飯をちゃんと木のお櫃に移してから、ふんわりどんぶりに盛って客に振る舞っているからで、これはおいしいわけだと眺めていたら、お櫃の底に使用開始日が墨書されていた。あのお店が今もあるかはわからない。

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のんびり使っていた MOLESKINE の手帳が使い終わる。最初のページには大滝秀治さんの訃報がメモしてあって、日付は2012年10月5日になっている。一冊使い終わるのに1年半もかかったことになる。感心するのは作りががしっかりしていることで、一年半乱暴に持ち歩いて開いたり閉じたりしても製本に緩みがない。

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手書きで早書きするとつづめて書くために文章が乾いて縮んで理研の「ふえるわかめちゃん」のようになる。「ふえるわかめちゃん」はフレーク状なので、水でふやかして戻してももとのワカメのかたちには戻らない。文章も手書き早書きしたものはフレーク状なので、ふやかしてつないで整えると、引き写したものでも自然に自分流の文章になる。コピペ防止に役に立つ。

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コピペ防止になるだけでなく、書いたことがしっかり記憶の中に留まって都合がよく、手書き早書き要約メモというのは炊きたてご飯をいったんお櫃の中に移し替えてする蒸気抜きのようなものかもしれない。もうすぐ新しい MOLESKINE にメモの続きが移るので使用開始日を墨書する。

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方向の誤り方

2014年4月7日(月)
方向の誤り方

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方向を定めるときにまず基準となる自分の位置は主観によって見当をつけることが多いので、ランドマークなど客観的な情報を集めて迅速に修正しないと、ずっと方角を誤ったままになってしまう。そして誤ったまま主観に拘泥しやすい頑固者でいると、人から「方向音痴」などと笑われたりする。

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黒船来航は1853(嘉永六)年で、太平洋岸久里浜に到着した四隻の船団は、砂浜ではなく接岸可能な江戸湾浦賀まで幕府によって曳航された。黒船がやって来たことを一番早く見つけた者たちには、異様な船影が太平洋の遙か彼方からやって来たように見えただろう。

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嘉永の黒船というと、黒い煙をもくもく上げながら一路太平洋を越えてやって来る姿をイメージしてしまうが、アメリカ合衆国東インド艦隊の船団は大西洋からインド洋を経由して日本にやって来た。

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1860(万延元)年、日米修好通商条約の批准書交換のため渡米した咸臨丸が太平洋を横断して行ったため、嘉永の黒船もまた太平洋を横断してやって来たという主観的な思い込みから逃れ難いのかもしれない。ということで自分の中の黒船来航の方角を大西洋・インド洋経由、反時計回りに修正した。

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昨年だったか、赤羽から荒川方向に散歩したら荒川放水路記念碑を見つけ、これは静岡県磐田市生まれの土木技術者青山 士(あおやま・あきら、1878−1963)が荒川放水路建設に携わった仲間の労をねぎらったもので、そこには自身の名が刻まれていないという。

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幕末・明治の日本人が船で太平洋を渡って渡米しても、まだ米国に鉄道網がない時代には、ワシントンに行こうと思ったらサンフランシスコからまた船に乗ってパナマまで行き、大陸が細くくびれた区間を汽車に揺られて横断し、さらに船に乗りかえて大西洋を行くことになったという。パナマ運河完成は1914(大正三)年まで待たなければならない。

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パナマ運河があるとなしではたいへんな違いがあるわけで、その運河建設に日本人として携わった青山 士は、日本海軍からパナマ運河攻撃計画立案のため情報提供を求められても拒否したといい、そういう良心の人だったらしい。というわけで咸臨丸以降、太平洋を横断しての日本人渡米ルートも、パナマ運河ができるまでの期間は遠回りに矢印を引き直し、記憶をただしておかなくてはいけないと本を読んでいて思った。

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西郷と月照と月性

2014年4月6日(日)
西郷と月照と月性

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未明に目が覚めたので青空文庫で服部之総(しそう)「志士と経済」を読み、梅田雲浜(うんぴん)のことなどを調べるうちに、京都成就院の僧月照を抱いて錦江湾に入水した西郷隆盛の話を読んだ。月照は死んで西郷は生き残る。

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郷里静岡県清水、清水銀座の和菓子店「庵原屋」の壁には

男児立志出郷関 だんじこころざしをたててごうかんをいず
学若無成死不還 がくもしなるなくんばまたかえらず
埋骨豈期墳墓地 ほねをうずむるになんぞきせんふんぼのち
人間到処有青山 じんかんいたるところせいざんあり

いう漢詩が掲げられており、店に行くたびに読んで覚えたものだが、こちらの作者は月性で月照ではない。ともに尊皇攘夷派の僧侶で、どちらも 1858 年に亡くなっているので非常に紛らわしい。

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非常に紛らわしいので、西郷と入水したのが「じんかんいたるところせいざんあり」の月性だったのかなどと一瞬思ってしまう。紛らわしいのは誰でも同じのようで、Wikipedia で月照を引くと「月性とは別人」、月性を引くと「月照とは別人」と書かれている。

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世話の焼ける客

2014年4月5日(土)
世話の焼ける客

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最寄り駅ひとつとなりの駅前に、以前から気になっている大衆食堂があり、昼時に通りかかったので暖簾をくぐってみたら、七十近い男性と女性ふたりの三人がカウンターの中で料理を作ったり客の相手をしたりしていた。昼の第一陣が立ち去るところで、五人連れの若者が勘定をしていた。

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勘定を済ませた者から外に出て、残った二人のうち一人が突然素っ頓狂な声を出し
「財布忘れてきましたっ!」
と言う。言葉の響きで発達障害のある若者なのだなと思う。おじさんが
「ああ、いいよいいよ、帰るときに持って来てくれれば」
と言ったら、連れの若者が千円札をもう一枚出して立て替えている。立て替えてもらうということがわかりにくいらしく、おばちゃんが
「こっちの人から千円もらって三百円おつりを渡したから、あなたはあとでこの人に七百円払ってね」
と何度も言い方を変えて説明し、やっと納得して若者たちは出ていった。

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他の客たちが何事かと驚いているかもしれないと気にしたらしく、おばちゃんが
「可愛いからいいんだけどね、こみ入った話になっちゃうと世話が焼けてね」
と笑いながら言う。五人が食べ終えた食器の上にはそれぞれにバナナの皮が乗っており、食後のサービスとして一本ずつバナナをつけたらしい。心優しいおじちゃんおばちゃん達なのだ。

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おばちゃんと目が合ったので
「カレーライスお願いします」
と言ってみた。しばらくしたらカレーを温めていた別のおばちゃんが
「カレーのお客さん、福神漬けつけますか?」
と聞くので
「はい、つけてください」
と答えた。子どもの頃はカレーに福神漬けがつきものだったけれど、最近は残す人が多いのでいちいち確かめるのかもしれない。

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カレーが来たら、やはり家庭風の甘口で、福神漬けをつけてもらって良かったと思う。福神漬けで塩分を補いながら食べ終え、お釣りのないように支払おうとして 100 円玉 5 枚取り出しておばちゃんの手にのせたら 1 枚が 1 円玉だった。百円玉が 1 枚足りず、仕方ないので千円札を取り出して渡したら、小銭を返してくれながらおばちゃんが自分の頬を指さし、
「ここにご飯がついてるよ」
と言う。慌てて右手の甲で左の頬を拭ったら黄色いご飯粒がついてきたのでぺろっと食べた。そうしたらもう一人のおばちゃんが
「はい、これを使って」
とポケットティッシュを差し出してくれたので、一枚いただいて頬と手の甲を拭った。

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すっかり世話の焼ける客になってしまったなと思いながら、勘定を終えティッシュを使い終えたら、おじちゃんが
「はい」
と言いながら目の前にバナナを一本置いてくれた。

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ジャムパンの男

2014年4月4日(金)
ジャムパンの男

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山手線内回りに乗っていたら年齢七十代前半くらいの男性が乗ってきた。顔が七十代なのに全身が妙に若々しく、どうしてだろうと見ていたら服装や仕草が若々しいのだ。

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だぶっとしたブルゾンを羽織ってカーゴパンツをはき、短めの裾下にソックスと革靴。黒い大きなバッグを右肩に掛け、左手にこうもり傘を持ち、せかせかと歩く姿は白髪の悪童である。

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空席を探すわけでもなくドア脇に立ち、外を眺めながらビニール包装を破いてジャムパンを食べ始めた。なぜジャムパンとわかったかというと、かぶりついた直後に赤い断面がちらっと見えたからだ。

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司馬遼太郎が若い頃書いた随筆に、ジャムパンを食べる男の話があった。確かベテラン記者の昼食風景だったのではないかと思う。食に関する名文だと感動したが、どこにあったか見つけられない。『司馬遼太郎が考えたこと』は分厚い文庫本で 15 巻もあるのだ。

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男がジャムパンを食べている。ぱくっと食べた断面を眺めながらもぐもぐ噛んで、反対の手に持った牛乳をゴクリと飲み、またジャムパンを食べて断面を眺め…ということを繰り返すのだけれど、あんなにおいしそうなジャムパンの話を読んだことがない。

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ジャムパンというのは日露戦争当時、銀座木村屋が軍に納めていた杏ジャム入りビスケットのジャムを、あんパンの餡がわりにして作ったもので、大正時代に国産化されたイチゴを使ったジャムパンが登場したのが昭和十年頃、ごく一般的になったのは昭和二十年代後半になってからだ。

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司馬遼太郎は『梟の城』で直木賞をもらった昭和三十五年頃に産経新聞を退社しているが、入社は昭和二十三年なので、外回り記者をしていた頃はまだジャムパンが流行りのハイカラ食品だったわけだ。

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そんなことを思い出しながらじろじろ見ていたら、ジャムパンを食べ終えた白髪の悪童は、次の駅に着くのが待ちきれないかのように、大股でこつこつ音を立てながら前の車両に歩いて行ってしまった。

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空瓶

2014年4月3日(木)
空瓶

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2014年4月3日未明、津波警報発令と防災アプリから通知があったが、NHK や気象庁などはアクセス集中で負荷が高いのか読み込みにくく、Twitter のキーワード検索が一番頼りになる。雑な情報こそが、首が絞まった瓶の口をもすり抜けて伝播力を持つ。

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瓶といえば、官によらない歴史家だった服部之総(はっとり・しそう 1901-1956)の書いたものが、青空文庫でボランティアたちによって小瓶に入れられ、本棚に並んでいるのを知って嬉しい。

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書庫の五十音順最初に「空瓶」があったので手始めの一冊としてダウンロードして読んでみた。底本は『黒船前後・志士と経済他十六篇』岩波文庫。古書でも安く買えるが、未明の寝たまま電子読書ができるのでありがたい。

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 安政元年正月の第一回会見の大広間で「誰がよけい馬鹿な顔をなしうるか競争しているようだった」幕府の役人たちも、第二回会見のときは、もはや充分な親しみと敬意と、さらにその外交手腕にたいする相当の驚きの念とをもって叙述されている。なかんずく「老全権」筒井肥前守は、すっかり「オブローモフ」の気にいった。「この老人を見たら誰れでも自分の祖父さんに持ちたいと思うであろう。……彼の話しぶりは、瓶から瓶へ液体を静かに移すようであった」。(「空瓶」より)

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これは 1853(嘉永六)年、プチャーチン提督に随行して日本に来航した作家イワン・ゴンチャロフ(1812-1891)が書いた手記で、紀行『フリゲート艦パルラダ号』におさめられた「日本渡航記」。それを平岡雅英が訳出したものをもとにして書かれており、「オブローモフ」はゴンチャロフが書いた長編小説の主人公だ。

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 ある日、露艦の水兵がウオトカの空罎を日本人にくれたというので、通詞の森山栄之助があわてて飛んできた。
「それでどうかしたんですか?」
「罎を取戻すように命じて頂きたいので。でないと貰った者に不幸が起るのです」
「では海の中へ棄てたらいいでしょう」
「いいえ、こちらへ持って来ますから、あなたの方でお棄てになって下さい」(「空瓶」より)

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とても通商条約どころではなさそうに思われたという幕末の生き生きとした人物素描をいま読むことができる。素晴らしい。

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梶井基次郎の交尾

2014年4月2日(水)
梶井基次郎の交尾

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開高健が書いたものはたいがい贔屓してしまうけれど、ひとつ思いつくまま短いのを挙げれば『ずばり東京』所収「これが深夜喫茶だ」が身を焦がすように好きだ。

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その開高健が敬愛した作家が梶井基次郎だと聞いて身を焦がすように妬ましいが、ちゃんと読んだことがない。

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井伏鱒二が書いたものはたいがい贔屓してしまうけれど、ひとつ思いつくまま短いのを挙げれば 『鯉』で、高校時代に読んで「こりゃすごいや」と感動した。

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なぜ井伏鱒二を読んだのかというと、太宰治が敬愛した先生だと知って身が焦げたからだ。

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その井伏鱒二が梶井基次郎『交尾』(昭和六年)を読んで「神わざの小説」と驚嘆したというのを読んで、またまた身が焦げたので読んでみた。

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 彼らは抱き合っている。柔らかく噛み合っている。前肢でお互いに突張り合いをしている。見ているうちに私はだんだん彼らの所作に惹き入れられていた。私は今彼らが噛み合っている気味の悪い噛み方や、今彼らが突っ張っている前肢の――それで人の胸を突っ張るときの可愛い力やを思い出した。どこまでも指を滑り込ませる温かい腹の柔毛(にこげ)――今一方の奴はそれを揃えた後肢で踏んづけているのである。こんなに可愛い、不思議な、艶めかしい猫の有様を私はまだ見たことがなかった。しばらくすると彼らはお互いにきつく抱き合ったまま少しも動かなくなってしまった。(梶井基次郎『交尾』より

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題名の通り、白猫や河鹿や瑠璃の身を焦がすような求愛と交尾が切れ味のよい彫刻刀で彫られた版画になっていて、丹念に「地」を彫ることで「図」としての自分が読者に見えてしまうという助平な仕掛けになっている。

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こういうのは好きだなあと思う焦げ方が寺田寅彦へのそれに似ている。文学から入って科学へ抜ける刃の入れ方と宙への逃し方の巧みさが似ているのだろう。

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寺田寅彦や宮沢賢治と一括りにしておいてそれぞれの理系度合いを云々するより、彫刻刀と版木と地と図の扱いの共通点を面白がる方がいい。愛の成就の精妙さに憑かれる梶井基次郎のように、文学は世界への求愛と交尾なのだろう。

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