電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
豆の味
2014年4月24日(木)
豆の味
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子どもの頃、豆を一緒に炊き込んだご飯が嫌いだった。母親は逆にそういうご飯が大好きな人で、息子への嫌がらせのようによく炊いたり蒸したりした。外食のときは豆だけよけて食べたが、家では残すと叱られるので豆だけ先に拾って食べ、掃除が終わって米だけになったご飯を晴れ晴れとした気分で食べた。
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それがいつの間にか好きで食べるようになったのは酒飲みになったからで、いまでは「亡き母親が好きだったのを思い出したから」などという理由をつけて、和菓子屋や米屋で売られている赤飯を買って帰る。好き嫌い克服のきっかけが飲酒だった証拠に、嫌いを克服したものを食べながら酒を飲むのが好きだ。
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「昔はお赤飯のくせにもち米を使っていなかったり、あずきの色ではなく着色料を使っていたりして、ひどいお赤飯もあったけれど、最近はスーパーのお赤飯でも、しっかりしたものが食べられるね」
二〇〇三年十月の日記を加筆訂正していたら、二〇〇五年に他界した母が入院中の病院で話した言葉が書かれていた。
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子どもの頃、赤飯はあずきで作るものだと思っていたが、赤飯はささぎ(ささげ)で作るものであるという話を大人になって聞いた。あずきは豆の中央から裂けるように煮崩れるので、切腹のようで縁起が悪く、煮崩れによって食味が損なわれるため、ささぎを使うのだという。
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郷里静岡県清水の叔父を訪ねたら、叔母が庭の畑でえんどう豆を収穫しており、 豆ご飯にするとおいしいからあげるという。ご飯に入れて炊き込めばいいんだよねと言ったら、炊き込むと煮崩れるから塩ゆでした物を取り置いて炊き立てご飯に混ぜろと言うので、「えーっ」と言葉に出さずに思った。
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小学校の家庭科で粉吹芋(こふきいも)を作らされ、単なるじゃがいもの塩ゆでが、水気をとばしながら粉を吹かせると、驚くほどしゃれた味になることを知った。茹でたじゃがいもがこんなにうまいものかと感動したが、子どもなのでこれでいっぱいやりたいと思うにはまだ至らない。
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赤飯も、えんどうの豆ご飯も、豆が煮崩れて粉吹豆(こふきまめ)状態になったものをうまいと感じ、えんどう豆やそら豆の塩ゆでも、柔らかくて多少はだけたものが好きだ。煮豆だって多少煮崩れていないとおいしいと思えないし、とうぜん赤飯だって切腹したあずきの方がうまいと思う。
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そういう言わばだらしのない食味を愛するのも、好き嫌い克服のきっかけが飲酒だったからで、だらしのない習慣には、だらしのない食味が似合う。だらしないの語源がしだらないを経て自堕落に通じるというのも食味的に充分うなずける説である。
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