目に見えぬ「何か」に救われる経験は誰にもあるのではないだろうか。ワシの場合、それはピンチの時に現われることが多い。
たとえば、あと数時間のうちに原稿を仕上げなければならないというシチュエーションがあるとしよう。しかしどう考えても間に合わない。ヤバイなと思いつつ原稿に取り組んでいる。
そんな時、その「何か」が登場するのだ。登場するといったって、「どーも、どーも」などと愛想良く現われるのではない。そもそも目に見えない「何か」なのだから。まあ、いうなれば「何か」さんはワシの仕事上のサポートをしてくれるのである。
具体的にいえば、こんなことだ。ある作曲家について書こうとする時、そのための資料が家のどこに埋まっているのかサッパリわからない。さてさて困ったなと部屋を見渡す。
すると、ある場所が浮かんで見えるというか光っているように見えるのだ。導かれるようにそこを探すと目的の資料がちゃんと出てくる。この時の「何か」さんはまるで「はなさかじいさん」に出てくるシロ。そしてワシは「じいさん」(笑)
ところがそうやって見つけた資料には作品名や人名などのインデックスがない場合がある。またそういう時に限って外国語で書かれていたりするから始末が悪い。お目当てのページがすぐに見つからないからだ。またもや焦り始めるワシ。
そんな時、また「何か」さんが登場する。ここで登場する「何か」さんは別の手段でワシを導いてくれる。さて、どうしようかと考えながら資料を開くと、たいていそのページに探している情報が出ているのだ。この場合の「何か」さんはワシの手を通じて目的のページに導いてくれたというわけだ。
単なる偶然? まあ、そうかもしれない。でもそのパターンで何度ピンチを切り抜けてきたことか…。
たとえば、あと数時間のうちに原稿を仕上げなければならないというシチュエーションがあるとしよう。しかしどう考えても間に合わない。ヤバイなと思いつつ原稿に取り組んでいる。
そんな時、その「何か」が登場するのだ。登場するといったって、「どーも、どーも」などと愛想良く現われるのではない。そもそも目に見えない「何か」なのだから。まあ、いうなれば「何か」さんはワシの仕事上のサポートをしてくれるのである。
具体的にいえば、こんなことだ。ある作曲家について書こうとする時、そのための資料が家のどこに埋まっているのかサッパリわからない。さてさて困ったなと部屋を見渡す。
すると、ある場所が浮かんで見えるというか光っているように見えるのだ。導かれるようにそこを探すと目的の資料がちゃんと出てくる。この時の「何か」さんはまるで「はなさかじいさん」に出てくるシロ。そしてワシは「じいさん」(笑)
ところがそうやって見つけた資料には作品名や人名などのインデックスがない場合がある。またそういう時に限って外国語で書かれていたりするから始末が悪い。お目当てのページがすぐに見つからないからだ。またもや焦り始めるワシ。
そんな時、また「何か」さんが登場する。ここで登場する「何か」さんは別の手段でワシを導いてくれる。さて、どうしようかと考えながら資料を開くと、たいていそのページに探している情報が出ているのだ。この場合の「何か」さんはワシの手を通じて目的のページに導いてくれたというわけだ。
単なる偶然? まあ、そうかもしれない。でもそのパターンで何度ピンチを切り抜けてきたことか…。