湘南オンラインフレネ日誌

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9/10 懇話会ゲストにメールを/山田康夫氏 できなさを考える

2021-09-11 05:30:00 | 地震津波災害ボランティア

2021/09/10 

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この2年間、懇話会ゲスト候補に選んだ方に、メールを出していた。コロナに懇談中止に追い込まれた方々だ。


西日本豪雨災害障がい者関連2名

東日本大震災石巻医療1名

       研究者1名

首都圏防疫看護師1

     薬剤師会社1


今後の新規の関係では

  行政大船渡市・常総市

  元養護教員神戸市


以上9名。現在は研究者兼高齢者GH経営看護系の方がいらっしゃるが、遠方ゆえの辞退表明があるが、文通を継続している。この方をいれて、10名の方々である。


再開懇話会は、倉敷・総社両市の西日本豪雨と障がい者の被災懇談からはじめたい。


私がおびえているのは、コロナ防疫の現場で戦っている現場担当者たちと災害弱者関係者が会の対象だから、前者は懇談どころではないと、企画が空振りしそうだからだ。

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FB上に、素敵な記事に出会い、フォローさせてもらった。福留氏経由の出口康夫氏の記事だ。人の能力観の背景にあるものを、オリパラの陥穽として気付かせてくれる。長いが紹介させてもらう。


以下引用-----------


『「できること」から「できなさ」へ』出口康夫(哲学)

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福留敬氏が紹介(2021/09/03 FB)

https://www.facebook.com/100001343386403/posts/4248229118565159/?d=n

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松岡修造がパラリンピック中継で「Can doCan do!」「Can doの精神が大切!」とCan doを追求することこそが人間の生きる意味のような感じで叫んでいた。


なんでも「Can doがカン ドーを呼ぶ」というオヤジギャグがウケてCan doの伝道師のように振る舞っているらしいが、彼の暑苦しいキャラクターとあいまって不快に感じた。


前から思っていたことだが、パラリンピックの選手を見て感動し、勇気を受け取るひとは健常者にも障害者にも多いだろう。だが、すべての障害者が無条件に感動し、勇気を得られるのだろうか?


パラリンピックのアスリート達は本人の努力もさることながら、環境や条件などが揃って晴れの舞台に立っている。

彼らが自分の能力の限界に挑戦すること、その精神は尊いことであって社会はその権利を最大限尊重し、その環境の担保に努めなくてはならない。


でも、障害者のなかにはそのようなチャレンジすら難しいひとも多いのではないだろうか。アスリートを賞賛するのは良いが「できる」を追求することばかりを礼賛することは「できなさ」に甘んじることを否定することになりはしないだろうか。


価値観の逆張りをしているように受け取られるかも知れないが違う。


僕の「友達」に成人して障害を持つ息子をピアニストにしようと尽力している男が居た。

息子が自分から「自分に出来るピアノ」を追求して弾くことは素晴らしい。

でも、息子とも会ったことがある僕には彼が息子に様々な課題を与え、息子をピアノに縛りつけようとしているように見えた時期があった。息子も自分の障害認識を受け入れられず、作業所に通う障害者の一人ではなく「障害者のピアニスト」を目指したいという葛藤のなかで苦しんでいるようにも見えた。


スポーツも同じかも知れないが、音楽は内なる欲求や衝動があって初めてやるべきものだ。「職業ピアニスト」という価値が「障害者の自立」という価値に置き換わるような重さでピアノを弾かせるということは、彼の人生からピアノを弾く喜びを奪うことにならないか。


僕は、先ず父親が、ピアノなんか弾けなくても良いと、ありのまま障害を持つ息子を受け入れるべきだと感じ、何度もそれを伝えたが、今はブロックされている。


パラリンピック選手達のように肉体的なCan doを追求出来なくても、障害者が障害のあるまま受け入れらるのが真の共生社会だ。

小池知事はパラリンピックを見せることに「教育的な価値がある」と言ったが、本当に共生社会に向けての「知ることからはじめる第一歩」であるならば、普通の作業所、さらには、もっと重い障害者施設の生活を見学することで、障害者がどのように「できなさ」と向き合いながら生きているか、をこそ見せるべきだと思う。


高校の同期で僕は生徒指揮者、彼はトランペットという付き合いだった友人が今は哲学者となって、「Can do」ではなく「できなさ」に人間の本質を見る観点を論じているので紹介したい。


共生社会を考えるうえでもとても素晴らしいエッセイだと感じたので文字起こししました。


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『「できること」から「できなさ」へ』


哲学者 出口康夫


 人間とは何だろうか。それを失えば人が人でなくなる、人の本質とは何か。ほかの多くの重要な問題と同じように、これらの問いにも唯一の正しい答えはありえない。でも僕らの社会では、ヨーロッパで長年伝えられてきた一つの答えが幅を効かせている。

それは人間を様々な能力ないしはできることの束と捉え、その中から一つを選んで、それを人間の本質とするという考えだ。

 確かに僕らはいろいろなことができる。言葉を話すこともできるし、算数の問題を解くこともできる。他人の気持ちも分かるし、走ることや飛行機に乗って空を飛ぶこともできる。

これらたくさんのできることのうち、ある人は、言葉や数を操る能力、つまり考える力としての知性を重視して、そこに人間の本質を見た。それに対して、人間の本質は、むしろ他人に心を寄せる共感力や感受性にあると考えた人もいた。

 もちろん、できることはすばらしい。それを伸ばすことも大切だ。外国語を使えるようになると世界の人と話ができ、人生の幅が広がる。科学者が知性を発揮して薬を開発したことで、病に苦しむ多くの人を救うことができた。みんなの共感力がさらに高まれば、もっと人に優しい社会を築くこともできるだろう。そう考えて、人々は人間のできることを育み、磨き上げる場をつくった。それが、皆さんの通っている学校だ。

 しかし、本当にできることを失えば人は人でなくなるのだろうか。例えば算数ができないからといって人間失格にはならない。言葉をしゃべれない人、走れない人もいれば、他人の気持ちをよむのが苦手な人もいる。でもみんな人間であることに変わりはない。そう考えると、できることが人間の本質であると簡単に言い切れない。では、できることに代わる別の答えはないのだろうか。

 人々の苦しみを前にただオロオロするばかりで大したこともできない「デクノボー」になりたいと願った宮沢賢治を思い起こそう。彼はできることの正反対、できないことに人間の本質を見ていたのではないか。


 僕らはできることだけでなく、様々なできなさをも抱えている。なかでも一番大きな出来なさは、一人では何もできないことだろう。例えば空気や食べ物がなければ、僕らは一日たりとも生きていけない。思えば、大古から続く地球上の、無数の生き物の営みがあったからこそ、大気は今の状態を保てている。日々の飲食物は人類文明の遺産でもあるし、道路や交通網といったインフラのおかげで僕らの手元に届いている。無数の人々、生物、無生物の支えがなければ、僕らは生きていけないのだ。

 逆に言えば、生きている関り、僕らはこれら無数のものたちによって支えられていることになる。

できなさは支えられていることの裏返しでもあるのだ。人は人である限り、できなさと支えられて在ることから逃れることができない。もし僕らがそれらを失なったら (神になるのか超人になるのかは分からないが)人間でなくなることは確かだろう。すると、できなさこそが人の本質なのではないか。僕はそう考えている。

 繰り返すが「人間とは何か」には唯一の正解はない。大切なのは、一つの答えにとらわれず、多様な答えに心を開くことだ。では、できることではなく、できなさにも目を向けて学校を見直したら何が見えてくるだろうか。

 誰にも得意不得意はある。算数は苦手でも体育は得意という人もいれば、実は全部苦手という人もいるはずだ。学校は、そのようなできなさを抱えている君に対してやさしい場になっているだろうか。できることを伸ばすためにみんなにできることの競争を強いて、少数のできる君には優越感を、多数のできない君には劣等感を植え付けてはいないだろうか。その結果、大人になっても自分がどれだけできるかをいつも気にして、自分よりできる人に嫉妬の目を向け、できない人につらく当たる、そのような人間になっていないだろうか。

 そうだとしたら、できることだけでなく、できないことにも目を向け、自分や他人のできなさを受け入れ、だからこそ共に支えあって生きているのだという気持ちを新たにする。そのような場が学校にもっと開かれることを、賢治とともに僕も願っている。

-----------ここまで

(校正1回目済み)


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