2021/09/11 記
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母を浜見平の@@さんに任せて、真鶴に行ってきた。真鶴町の在宅治療者支援活動で、「買い物代行」や「ゴミ出し」をボランティア活動を立ち上げたと聞いたからだ。
ふたつの価値を感じる。ひとつは防疫環境下の災害ボランティア活動は立ち上がり例が少ないからだ。もうひとつは、在宅避難者の仲介支援「御用聞き支援」につながる活動だからだ。
土曜日なので、調査は行政などに頼れず、知り合いの民生委員さんと、動物愛護や環境問題を取り組んでいる高齢者施設職員の方を訪ねた。後者の方は、コロナのことがあるので、施設2階と窓下の変則対話となった。ふたりとも噂はきいているが、当人との面識は無いとのことで、月曜までに調べてメールをくれることになった。また民生委員さんは、熱海の豪雨土砂崩れ関係の支援情報もくれることになり、期待している。
時間があまり取れず、他の真鶴情報はきけなかった。母の留守番はセーフ。帰宅すると、ふたりで出前寿司を食べていた。全く…。
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地域自治会から、母宛の自主配達封書による後期高齢者向けのお茶がおくられてきた。封筒に「粗品『に なります』」と印刷されていた。
「いやだねぇ、この言い回し。」
と母が言った。発言者には「仲介だけで関与せず」というあしらいを感じた。
「言葉が『ささる』」
もそうだ。マンガの「身体に突き刺さる」ショック画の連想からうまれたのだろうが、外力の受け身表現。
以前からの「心に響く」は淘汰されてしまった。「響く」のは、我が身に湧きあがること。いわば他動詞と自動詞の差。
この自己漂白というか、「私への『ご褒美』」や「私を『褒めてあげたい』」の得体の知れない化け物から「ご褒美」や「褒められる」薄気味悪さ。これらは一貫して「発言に伴う責任所在」回避・迷彩化につながっている。単なる流行語使用で、済ませる事態ではない。「〜のようなぁ」につながる「判断回避」の不確かな対人関係を維持する言葉だ。
母が感じた違和感は、流行語の聞きなれなさではなく、「に なります」と書いた方の薄気味悪さなのだ。
「やんちゃ」は、「未熟な子どものいたずら自己主張」の意味だが、「反社会ぶり」にずらされ、命を縮めるまでにいじめられた側は、「やんちゃな」相手だったなら、「やんちゃで殺されてはかなわない」。なおさらに嫌な語感になる。やめてほしい言葉だ。無責任な言葉がひろがり、さらには、言葉の破壊がおこなわれるのは、看過できない。
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(校正2回目済み)