2017/11/19 記
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20年ぶりに、高校時代の友人とすれ違った。場所も私の家の近所、相手が私の目の前でタクシーから下車して、お互いに気が付いたというところだった。開口一番驚く話が飛び出した。私の恩師の訃報だった。白血病だという。すでに1か月が過ぎていた。たしか92才だったと思う。友人とは学年が違うので、彼は直接教わってはいなかったが、部活の顧問だった。教員を退職され、家業の保険代理店職に転身されていた。その関係で、昨年までお付き合いが続いていた。面倒見のいい方だった。
私は同窓会を苦手としていたので、同窓生の消息は、もっぱら恩師経由で受け取っていた。今、弔意をしたためた紙メールの校正格闘中である。私の字は異様に汚いので、身の縮む思いで書いている。またひとり現世のつながりが消えた。
彼は我が家の近所に仕事上の訪問先があって、偶然訪ねてきたので、出会いは実に奇遇だった。
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そんな出来事があって、当時私が考えていた問いのことを反芻している。進学校だったので、大学受験から逆算した授業プログラムがあり、家での予習復習は当たり前の前提であって、そこからはずれた発想は授業から排除されていた。私自身、昔から自分が抱える条件から、知をその根幹末梢の反復から自分の学習を組み立てていた。それを全否定され、一律の鍛錬プログラムの中に入れられた為、激しい煩悶を繰り返していた。
恩師の授業はそのはみ出す思考を、有効性の原理から、まずは利用価値の高いものから受け入れていくと考えるべきではないかとたしなめた。私はそれを「論の再構築こそ知の習得」と反発。その対立は、爺ぃになっても変わらなかった。
当時、受験という必要性から日常鍛錬が学習という論が一般的だが、私はそのものを全否定はしなかったが、公理を認める論拠を仮想の論理体系としない発想というか、墜落中の説教のようなすくみすら覚えない先方の感覚が信じられなかった。やがてそれは、浅い「知識の価値」論議に引き回されていくことになる。私の脱線の例でいえば、古典表現のなかに流れる時間への私の違和感は、古典の時間が共感に収斂する反復であり、個人や社会が時間経過を発展に置く発想そのものが実は近代(資本主義)のものだという気付きがあって、その社会観過渡期の葛藤を知りたいと問うことが課題としてあった。無論、教室では完璧に空転した。科学の言う「現実ひとつ」の確信はなにが根拠であるのかというような問いを私のメモ帳に書きためていた。
これらのことは、高校の枠からはみだしていた。やがてそれらは、私にとって受験教育の懐疑へとつながり、それらは大学の専攻のなかで取り上げられるというような先験的な物言いとなってもいいから、ともあれ教員から応答が欲しかった。私は中学生のころから社会活動に参加していたので、やがてはみだしの行き先はフリースクール的な活動への関心として高まり、教育運動に入って行くのだが、いわゆる受験教育批判のような形で類型化して批判を下す論にも満足できなかった。ただ「社会的不平等から教育機会の均等の議論」の延長ではすくいきれない、教育の質の問題を同時に私は取り上げてきた。
この問いかけは、論語やコーランの反復暗唱型学習への違和感につながり、いわゆる資格取得というスタビライザに守られて不問の体制が出来上がっていることの気づきにつながった。貧困に基づいた社会的不平等がゆえの「読み・書き・(四則)計算」取得の困難という課題の「読み・書き・(四則)計算」論の延長は、知識そのものを無批判に受け入れてしまう。この貧困論からの空転は数年前から、再燃しているが、子どもの貧困という形で問われている課題は、社会背景から議論するだけでは過つという、ステージの差異を意識するようになった。
ゆとり世代の批判と同じくして、フリースクールやプラグマチックな学習批判は、受験教育批判とテンションを保つ形で行われてきた自由教育活動不順は、その前時代の高校全入運動などの貧困と機会均等を求める発想の回帰のような形で進行した。創造性とか知のネットワーキングは、それ自体が階級・階層性を持った課題であると割り切られてしまったような時代の
空疎感の中に私はある。
これらのことは、考えてみれば恩師のビジネスライクな発想との齟齬から顕在化してきたように思う。私がフリースクールを作ってみたり、学習困難児の指導や、識字学級・夜間中学への参加は、生活知を含む知をを膨らませていくことへのこだわりがあったのだと思う。
最後まで分かり合えませんでしたね、**先生。
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朝は寒かった。母の風邪は一応治ったようだが、早朝から母の咳込みが聞こえるので、熟睡はしていないだろう。花かつおを大量に使っただしを取り、豆腐と細切りネギをのせた「あんかけうどん」を食べさせ好評だった。母は麩が嫌いなので、短冊切りシイタケを乗せた。
こういう静穏な時間をいつまで保てるだろうか。お茶をだしつつ考えた。
夜間傾聴:なし
(校正2回目済み)
p.s. 昨日、北村さんのことを書きすぎたかなと思いつつ、でも「観客操作」は、やめましょうよと言いたかったのです。
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20年ぶりに、高校時代の友人とすれ違った。場所も私の家の近所、相手が私の目の前でタクシーから下車して、お互いに気が付いたというところだった。開口一番驚く話が飛び出した。私の恩師の訃報だった。白血病だという。すでに1か月が過ぎていた。たしか92才だったと思う。友人とは学年が違うので、彼は直接教わってはいなかったが、部活の顧問だった。教員を退職され、家業の保険代理店職に転身されていた。その関係で、昨年までお付き合いが続いていた。面倒見のいい方だった。
私は同窓会を苦手としていたので、同窓生の消息は、もっぱら恩師経由で受け取っていた。今、弔意をしたためた紙メールの校正格闘中である。私の字は異様に汚いので、身の縮む思いで書いている。またひとり現世のつながりが消えた。
彼は我が家の近所に仕事上の訪問先があって、偶然訪ねてきたので、出会いは実に奇遇だった。
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そんな出来事があって、当時私が考えていた問いのことを反芻している。進学校だったので、大学受験から逆算した授業プログラムがあり、家での予習復習は当たり前の前提であって、そこからはずれた発想は授業から排除されていた。私自身、昔から自分が抱える条件から、知をその根幹末梢の反復から自分の学習を組み立てていた。それを全否定され、一律の鍛錬プログラムの中に入れられた為、激しい煩悶を繰り返していた。
恩師の授業はそのはみ出す思考を、有効性の原理から、まずは利用価値の高いものから受け入れていくと考えるべきではないかとたしなめた。私はそれを「論の再構築こそ知の習得」と反発。その対立は、爺ぃになっても変わらなかった。
当時、受験という必要性から日常鍛錬が学習という論が一般的だが、私はそのものを全否定はしなかったが、公理を認める論拠を仮想の論理体系としない発想というか、墜落中の説教のようなすくみすら覚えない先方の感覚が信じられなかった。やがてそれは、浅い「知識の価値」論議に引き回されていくことになる。私の脱線の例でいえば、古典表現のなかに流れる時間への私の違和感は、古典の時間が共感に収斂する反復であり、個人や社会が時間経過を発展に置く発想そのものが実は近代(資本主義)のものだという気付きがあって、その社会観過渡期の葛藤を知りたいと問うことが課題としてあった。無論、教室では完璧に空転した。科学の言う「現実ひとつ」の確信はなにが根拠であるのかというような問いを私のメモ帳に書きためていた。
これらのことは、高校の枠からはみだしていた。やがてそれらは、私にとって受験教育の懐疑へとつながり、それらは大学の専攻のなかで取り上げられるというような先験的な物言いとなってもいいから、ともあれ教員から応答が欲しかった。私は中学生のころから社会活動に参加していたので、やがてはみだしの行き先はフリースクール的な活動への関心として高まり、教育運動に入って行くのだが、いわゆる受験教育批判のような形で類型化して批判を下す論にも満足できなかった。ただ「社会的不平等から教育機会の均等の議論」の延長ではすくいきれない、教育の質の問題を同時に私は取り上げてきた。
この問いかけは、論語やコーランの反復暗唱型学習への違和感につながり、いわゆる資格取得というスタビライザに守られて不問の体制が出来上がっていることの気づきにつながった。貧困に基づいた社会的不平等がゆえの「読み・書き・(四則)計算」取得の困難という課題の「読み・書き・(四則)計算」論の延長は、知識そのものを無批判に受け入れてしまう。この貧困論からの空転は数年前から、再燃しているが、子どもの貧困という形で問われている課題は、社会背景から議論するだけでは過つという、ステージの差異を意識するようになった。
ゆとり世代の批判と同じくして、フリースクールやプラグマチックな学習批判は、受験教育批判とテンションを保つ形で行われてきた自由教育活動不順は、その前時代の高校全入運動などの貧困と機会均等を求める発想の回帰のような形で進行した。創造性とか知のネットワーキングは、それ自体が階級・階層性を持った課題であると割り切られてしまったような時代の
空疎感の中に私はある。
これらのことは、考えてみれば恩師のビジネスライクな発想との齟齬から顕在化してきたように思う。私がフリースクールを作ってみたり、学習困難児の指導や、識字学級・夜間中学への参加は、生活知を含む知をを膨らませていくことへのこだわりがあったのだと思う。
最後まで分かり合えませんでしたね、**先生。
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朝は寒かった。母の風邪は一応治ったようだが、早朝から母の咳込みが聞こえるので、熟睡はしていないだろう。花かつおを大量に使っただしを取り、豆腐と細切りネギをのせた「あんかけうどん」を食べさせ好評だった。母は麩が嫌いなので、短冊切りシイタケを乗せた。
こういう静穏な時間をいつまで保てるだろうか。お茶をだしつつ考えた。
夜間傾聴:なし
(校正2回目済み)
p.s. 昨日、北村さんのことを書きすぎたかなと思いつつ、でも「観客操作」は、やめましょうよと言いたかったのです。