湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

就労支援PJの参加を募りつつ/「わーく」放送の画像の扱いの下準備

2008-04-19 07:32:47 | 引きこもり
*******君の支援が局面を穏当に超え、やっともとのペースに戻れそうです。しかし、よかった。(すみません。勝手に納得しています。)

4/21の見学会は養護学校の在校生の親御さんたちは、別の日に組みなおすことで、別個に企画しています。(参加人数と時間帯の関係)

次の5月の企画準備に入っていますが、ドキュメント「ニート」が夏前に入りそうです。その加減で6月企画が繰り上げするかもしれず、日程調整しています。

自閉症関連の団体と引きこもり関連(地域の個人かなあ…)は、そこに「ニート」上映を呼びかけますが、前途多難です。

職場に近いのに駅からちょっと遠いので、なかなか訪問できない高齢・障害者雇用支援機構の神奈川障害者職業センターに講師の件がらみで、お邪魔してこようと思っています。これはPJではなくて、「わーく」編集部共催型実行委かな…と。

-------------

父の通所契約が正式に決まり、来週から通所が始まる。そんな矢先、我が家は時々水を1箱単位で買っているのだが、その水の宅配便が私たちの留守の間に家に届いた。父が応対し、なんと10kg近い箱を抱えて厨房まで運んでしまった。数m平地直進も足元がふらついて危ういのに、当人は自慢げにそれを見せた。

がっかりした。障碍受容が全く出来ていない。もし箱を抱えて転倒したら、今度こそ骨折である。不注意のレベルではない。父を怒鳴りつけた。下手をすれば寝たきりのきっかけになりかねない危ない行動だったからだ。なぜ自分を守らないのか。家族を何だと思っているのかと怒鳴った。真横を向いてだんまり作戦。寝込んだら水仕事のできない母の両手の状態があるので、身辺介護は実質私ひとりになってしまう。そうすれば積み上げた活動のすべてが停止してしまう。

いやな予感がして冷蔵庫を開けた。夕食用に作り置いた惣菜とパックご飯がきれいになくなっており、オレンジが3つなくなっていた。数時間の間の出来事だった。目を盗むように食べてしまう。

続けて注意すると、「腹が減ったから食べて何が悪い」と怒って、2階の寝室まで足踏み鳴らし(?)て、階段を上がっていった。その途中も階段で1回こけているのだ。

私が交通事故の骨折で入院中、同室の左腕の骨折した高齢の患者が、糖尿病による足の壊死で両足を切断する手術を受けていた。その手術からの回復期、不自由な手足を使って、車椅子で病院を抜け出し、パフェを食べに行ったということで、強制転院となったことを思い出した。ぞっとした。

寝室のドアが音をたてて閉まった。扉を閉めたら部屋の音が聞こえない…部屋の中でころぶかも知れないというのに。

-------------

「わーく」の放送を考えるとき、私はまず4/21見学会の収録実験番組を皮切りに、音声放送の実験から始める。ところがこれでは、ご存知の通り自閉症スペクトラムの青年向けの番組とはならないのだ。意味をこめた視覚的掲示を優先すべきだからだ。現在の「わーく」放送局の局面は、パーソナルな放送表現が可能であること。これを引きこもり青年や三障碍の枠を超えた地域の関係者の有志たちをまず募りたいと思っているからだ。画像放送の部分は、例え農耕の誘いにしても写真掲示では情報量が多すぎるから、何らかのシンボル(PIC or PCSというような)を導入することになる。これをどのように織り込み、どのようにシステムに一体化していくかという点がある。単純に一方向伝達のツールと考えてはいないからだ。

この境界的デザインは社会的な非対称なニーズが横たわっているからで、ここが自閉症スペクトラムの方々の困難となっている。もつれた糸を解きほぐし、ネットワーキングの中に張りなおす作業だ。中邑賢龍・坂井聡両氏の仕事は社会の情報を自閉症者に翻訳することを行いながら、そのツールの柔軟性を意識しつつ、当事者の表現ツールをまさぐっている。

「わーく」は、こうした研究の経験を取り込みたいと考えている。そのための準備も進めておかなくてはと思う。厄介なのはシンボルは社会が意味を与えるために、多義的なこと。鶴見俊輔氏の講演だったか、遠近法の社会歴史性にふれて、アジアのフィールド調査の際遠方のひとと近くの人のマンガを掲示したとき、遠方の人物を子どもだと受け取った話があった。(講演者の記憶が薄い、失礼。)私も実は非常口の新しいシンボルが馴染めなくて、始めは「マンホールの穴があるから、足元に注意」するのかと思って、その場の環境と合わないので考えてしまったことがあった。このように、シンボルはお互いの共通理解が前提となっている。直感の中に横たわる文化、意味理解の社会歴史性ということなのだが、ここが番組作成のとき、共通語たりうるのかという点をしっかり押さえていきたいのだ。

勿論これは純粋にシンボル翻訳ということを考える必要は無い。切り分けた画像表現や文字表現との相互の協調の中に置けばいいからだ。ここは研究者と実践者としての私の禅問答に置けばいいと思っているというか、それは地元合流者は成果が出なければ現れないものと思っているからだ。

まずは「わーく」のパーソナル放送局の実現可能性を見せることが先だと考えたからだ。中邑氏には講演依頼をしたいのだが、その内容のニーズが関連団体と共有できない悩みがある。従来のコミュニケーションツールは商品化されているが高かったり、デザインが無骨で実用に即しなかったりするため、それほどに歓迎されていないからだ。

すでに紹介済みだが、以下のふたつの著書は、いずれも香川大学出身の研究者からのガイドブックだが、大雑把な意味で大変面白い書だと思う。大雑把と書いたのは、「状況」と「場面」ということについての分析が、私にはまだ共有されていないからだ。

なお坂井氏の著作は、家族・支援者の実践上の障壁について勘所を得た説明が行われているし、中邑氏の著作は「発達とツール支援」ということについて現在の研究のガイドに比重が置かれている。いずれも当事者家族を中心とした読者を意識して書かれた書となっている。支援者にとって、ヒント集的な意味合いも持っているので、ご覧あれ。中邑氏の書は現在横浜市立図書館にあり、坂井氏の著作は、県下、茅ヶ崎・厚木・大井町・横浜市立・県立保健福祉大の各図書館に在庫している。

●「発達障害の子どもの「ユニークさ」を伸ばすテクノロジー」中邑 賢龍・著

●「自閉症や知的障害をもつ人とのコミュニケーションのための10のアイデア―始点は視点を変えること」坂井 聡・著

---------------

夜間傾聴:珍しく「無し」
巡回:橋本2君(仮名)

(校正2回目済み)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする