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日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

節分あれこれ

2018年02月03日 | 社会 政治
 
 節分は立春、立夏、立秋、立冬の前日、なぜか春の節分は賑わう。子どものころには鰯と菜園で採れた大豆を炒る、それにひいらぎ(柊)を準備していたように思う。暮れると家中の戸や窓を開け豆を撒いた。有名人による豆まきの映像が映る。その大豆、値上がりで納豆や豆腐の値上が決まっている。原因の一つに円安がある、節分は祝えるだろうか。

 ここ何年かは節分として格別なことはしなくなった我家。炒り豆は、歳と歯を考え相応に食べることにしている。その豆は頼まれ注文の恵方巻について来るものと、新聞販売店からのそれぞれ一袋で十分に間に合う。いただいたものを粗末にしない無駄にしない、そんな殊勝なことを言って済ませている。

 広告の恵方巻、巻いた両端から具材が荒々しくのぞいている。その具材は高価な演出がされていて、見た目は豪華豪快で春の訪れを祝うには確かにふさわしい作り方だが巻きずしとは違う。高校時代にすし屋で桜の季節バイトをした。店主は指で巻きずしの両端を、切り落としたかのように整えて仕上げていた。それを思うと、恵方巻は豪快ではあるが、その作りは手荒いといえる。

 節分の夜、人目につかず炒り豆を紙に包み辻に置くと願いが叶う、そんな言い伝えを子どもの時に聞かされいた。幾つもの包みが置かれている辻を目てきた。我家の前は裏通りの小さな四つ角になっていて、数は少なくなってきたが毎年幾つかの包みが置かれる。今夜はどんな願いの包みが辻に託されるだろうか。明日の夜明けが楽しみだ。
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