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☆鯨統一郎「タイムスリップ森鴎外」感想

2009年02月21日 21時59分48秒 | 文学
タイムスリップ森鴎外 (講談社ノベルス)NHKのテレビ番組「私の1冊 日本の100冊」で井沢元彦の「義経はここにいる」の紹介を見てから、歴史ミステリが気になっている。現代の殺人事件と絡めて歴史をたどるような物語が猛烈に読みたい。
というわけで、鯨統一郎の「タイムスリップ森鴎外」(講談社)を図書館で借りて読んでみた。すらすら読めてたのしい本だった。しかしこの、タイムスリップシリーズは続きもあるのだが、もう読まなくていいや。
森鴎外がもっと森鴎外らしいほうが良かった。
他にこういうミステリ作家でおもしろいひとがいないかを探す。
鯨統一郎と高田崇史はいくつか読んだのだが、ほかにはいないのだろうか。井沢元彦も気にはなるのだが、小説で手に入らないものが多くなっている。面白くないということなのかなあ。

マイクル・クライトンの追悼でもしようかと考えている。
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☆手塚治虫「火の鳥 鳳凰編」感想

2009年02月21日 19時45分08秒 | 漫画
火の鳥 (4) (角川文庫)手塚治虫「火の鳥 鳳凰編」。
物語を読んだあと、頭の中で整理するためにあらすじを作っているように思う。
それはこれまでの人生を振り返ってこんな人生だった、というように思うことと同じだ。最近、自分の人生を振り返させられる経験をしたのでそう思う。
で、振り返って、あらすじを作ってしまうと、そこから抜け落ちてしまうものがあるように感じる。ほんとうはそうではなかったような気がするが、そのようなあらすじにしてしまった方が分かりやすい、とか、そうしないとそのとき自分が何を考えていたかの論理がすっきりしない、とか、の理由で。
ほんとうは当時そのように考えて行動していたわけではないような気もするのだが、あとから考えてそのように仮定しないと行動に対する論理的説明ができない。他人を納得させることができない、というようなことがある。
手塚治虫の「火の鳥 鳳凰編」を読むと、いったいどんな物語だったのかのあらすじがとても語りにくい。
あらすじから抜け落ちるものだけで出来上がっているように感じる。
我王と茜丸が作品を作ろうとしている姿は手塚治虫自身がマンガを描くときにそのように考えていたのだろうな、と思ったり、我王の他人を憎む気持ちにも作者の気持ちが入っているのだろうなと考えたり、全部そんなことを考えながら読んだ。
手塚治虫は、いろいろぶち込んでいて、簡単にこんな考えの人だったとは語れないのだ。

鳳凰編では、我王が自分の子孫の姿を火の鳥に見せられる場面があるのだが、政治犯として捕まった鼻の大きな男が銃殺される場面だけは対応する場面が「火の鳥」全編で出てこないことを昔読んだ時に思ったことがある。
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