’93年12月6日、私にとって2回目のフルマラソン挑戦。
スタートの号砲は鳴った。中間の22キロ地点までマーア快調。去年はここからドッと歩き出したが今回は結局26キロちかくまで走り続ける。去年時間切れで悔し涙にくれた32キロ兼城交差点を30分前に通過したときは「ヤッタ! 」と思った。ゴール時よりこのときの方が感慨が強い。ゴールまでの10キロは地獄だった。萎える自分の体と気力を叱咤し、前方に見える信号を目標に走り、そに看板を次の目標に走り、また歩きかつ必死に走った。5時間29分、13122人の完走者中8630番。
32キロ地点のアナウンスで「ただいまの通過者一万何人」と言っていたから私はラスト10キロで1500人ほどを追い越したことになる。このラスト10キロの頑張りはひとえに年頭の完走宣言の結果である。そう、社員への社長としての面子がそうさせたと思う。
今回は昨年と違いわずかに40キロ地点の自衛隊ベース門前で那覇高同期の福地さんに「重田さん!」と声を掛けられた以外沿道に応援する知人に誰も声を掛けられない孤独のランナーだった。
この鏡原の自衛隊ゲート前から空港に向かう高架道路沿いまでは最も苦しかった。ほとんど走れる余力がないのを気力だけで足を前に運んだ。奥武山公園に入ってからゴールまでの円周走コース、まだかまだかと果てしなく遠かった。コース沿いに応援の人が鈴なりに連なっているので歩きたくても歩けない。誰が見ているか判らないからだ。実際には私の知人は誰も見ていなかったのだが。
スタートの号砲は鳴った。中間の22キロ地点までマーア快調。去年はここからドッと歩き出したが今回は結局26キロちかくまで走り続ける。去年時間切れで悔し涙にくれた32キロ兼城交差点を30分前に通過したときは「ヤッタ! 」と思った。ゴール時よりこのときの方が感慨が強い。ゴールまでの10キロは地獄だった。萎える自分の体と気力を叱咤し、前方に見える信号を目標に走り、そに看板を次の目標に走り、また歩きかつ必死に走った。5時間29分、13122人の完走者中8630番。
32キロ地点のアナウンスで「ただいまの通過者一万何人」と言っていたから私はラスト10キロで1500人ほどを追い越したことになる。このラスト10キロの頑張りはひとえに年頭の完走宣言の結果である。そう、社員への社長としての面子がそうさせたと思う。
今回は昨年と違いわずかに40キロ地点の自衛隊ベース門前で那覇高同期の福地さんに「重田さん!」と声を掛けられた以外沿道に応援する知人に誰も声を掛けられない孤独のランナーだった。
この鏡原の自衛隊ゲート前から空港に向かう高架道路沿いまでは最も苦しかった。ほとんど走れる余力がないのを気力だけで足を前に運んだ。奥武山公園に入ってからゴールまでの円周走コース、まだかまだかと果てしなく遠かった。コース沿いに応援の人が鈴なりに連なっているので歩きたくても歩けない。誰が見ているか判らないからだ。実際には私の知人は誰も見ていなかったのだが。