goo blog サービス終了のお知らせ 

”朝吼夕嘆・晴走雨読”

「美ら島沖縄大使」「WeeklyBook&Reviews」「マラソン挑戦」

那覇マラソン完走記 ② 

2007年05月14日 | 「マラソン挑戦」
’93年12月6日、私にとって2回目のフルマラソン挑戦。
スタートの号砲は鳴った。中間の22キロ地点までマーア快調。去年はここからドッと歩き出したが今回は結局26キロちかくまで走り続ける。去年時間切れで悔し涙にくれた32キロ兼城交差点を30分前に通過したときは「ヤッタ! 」と思った。ゴール時よりこのときの方が感慨が強い。ゴールまでの10キロは地獄だった。萎える自分の体と気力を叱咤し、前方に見える信号を目標に走り、そに看板を次の目標に走り、また歩きかつ必死に走った。5時間29分、13122人の完走者中8630番。
 32キロ地点のアナウンスで「ただいまの通過者一万何人」と言っていたから私はラスト10キロで1500人ほどを追い越したことになる。このラスト10キロの頑張りはひとえに年頭の完走宣言の結果である。そう、社員への社長としての面子がそうさせたと思う。    
                         
 今回は昨年と違いわずかに40キロ地点の自衛隊ベース門前で那覇高同期の福地さんに「重田さん!」と声を掛けられた以外沿道に応援する知人に誰も声を掛けられない孤独のランナーだった。            
 この鏡原の自衛隊ゲート前から空港に向かう高架道路沿いまでは最も苦しかった。ほとんど走れる余力がないのを気力だけで足を前に運んだ。奥武山公園に入ってからゴールまでの円周走コース、まだかまだかと果てしなく遠かった。コース沿いに応援の人が鈴なりに連なっているので歩きたくても歩けない。誰が見ているか判らないからだ。実際には私の知人は誰も見ていなかったのだが。  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

那覇マラソン完走記①

2007年05月13日 | 「マラソン挑戦」
 93年12月5 日午前9時前、那覇市奥武山競技場で私は不安な気持でスタートの合図待った。完走する自信はなかった。昨年の経験から30キロ過ぎに襲って来る予測出来ない肉体の限界と異変を恐れた。御存知のとうり私は今年の年頭挨拶で「フルマラソン完走」を宣言した。
 これは私にこの一年ずうとプレッシャーを与え続け、密かに悔いた。プレッシャーから逃れるように休日とウイークデイほぼ一日ひたすらジョグをこなし、一日一回八階まで階段を登った。10キロ、ハーフの関東地域の大会にはこの一年毎月出た。そのほとんどはビリに近い順位で一向にフルマラソン完走の自信は生まれなかった。
雨の日も風の日も、多少風邪を引き体調が悪くても、得意の時も失意の時もひたすら自分にノルマを課し、時は11時過ぎの深夜まで走った。それはあたかも自分の体を苛んでいるようで家人もホトホト呆れていた。すべては年頭宣言のなせるわざだった。
 大会前日の土曜に那覇入りした高橋君と私の二人は、私の知己である沖縄県東京事務所の与義課長の運転で翌日のコースを下見した。寒風に暮れなずむ35キロ過ぎの兼城から小緑の渋滞する登り坂を見たとき、私は「これはとても無理だ」と感じた。高橋君から「社長! 今年は随分弱気ですね」と笑われたぐらいだ。       
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沖縄タイムス「オフイスの窓から」②

2007年05月12日 | 「マラソン挑戦」
 社内の月曜朝礼の後、マラソンに挑戦した経験をもつ社員が「社長、あんなこと言いて大丈夫ですか。フルマラソンは大変ですよ」と心配顔に話し掛けてきた。私は心中密かに後悔した。それでもは宣言した手前、帰宅後は自宅近くの暮れなずむ中山道を、ウィークエンドは大宮氷川神社の境内を走った。このころの練習量は毎月高々100キロ前後。

 こうして私は1993年12月、奥武山のスタートラインに不安な気持ちで並んだ。果たせるかな三〇キロを過ぎからゴールまでこの世のものと思えない苦しみを味わった。タイムは5時間26分。ゴールした時はやれやれほっとしたという気分だったが、次第にアヒルの自分が白鳥になったような気になった。私の初マラソン挑戦は自分のメンツと見栄のためのようなものだから動機はきわめて不純だった。

 その後、昨年まで四年連続で制限時間をクリヤーしているが、30キロ以降どうしても歩いているから厳密な意味で「完走」とは言えない。毎年、名嘉地の坂を走り抜き、なんとか五時間を切るのが目標だが未だ果たしていない。サブスリーランナーの社員にはいつも「社長、週末だけの練習では無理ですよ。夜の接待を減らさなければ駄目ですよ」と笑われている。それでも五時間以内を悲願に今年も南部路に挑む。  沖縄タイムス「オフイスの窓から」98年12月2日 



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沖縄タイムス「オフイスの窓から」①

2007年05月11日 | 「マラソン挑戦」
"93年12月、ついに私は生涯初めてのフルマラソン完走を果たす。丁度その年、主催者の沖縄タイムスから連載エッセイ「オフイスの窓」の執筆を依頼され、その際に初マラソン記を書いた。以下2回に亘ってご紹介する。

 ”毎年十二月第一日曜日は恒例の那覇マラソンの日だ。
五〇を前にして私は一時間ほどの朝の通勤電車で立っているのがつらくなり、足の衰えを感じ始めていた。「これはいかん」と週末家の近くを走り始めたのがそもそもジョギングの始まりだった。私の小学から大学までの同期に「千年も生きたい」などと言いながら夜毎、酒を飲みつつピアノを弾くことを生業にしている男がいる。
 この男、初回から那覇マラソンに出場している。ライブハウス「寓話」のオーナー屋良文雄である。ヒイジャー顔の彼が前夜遅くまで酒を飲んで出場することを知った時には強い驚きと羨ましさを感じた。そんな私が本気でフルマラソンいに挑戦する気になったのは九二年に襲って来たバブル崩壊不況だ。それまで一〇年以上右肩上がりの一本調子で成長してきた我社の業績が一転下がり始め、苦しい縮小バランス経営を強いられた。九三年、私は全社員向けの年頭挨拶でマラソンの怖さも知らず「不況を乗切る心身鍛練のため年末の那覇マラソンを完走する」とぶち上げた。これはいつもの私の悪い癖で多分に弾みで言ったことだった。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

汗と涙の初マラソン挑戦記⑦(最終項)

2007年05月11日 | 「マラソン挑戦」
'92年12月6日1時30分、もう駄目だと思ったら前方に32キロの標識が見えた。最後の死力を尽くして頑張る。しかし南無さん!時間切れ3分オーバー、残念無念。この地点で500人近くが強制リタイア。スタートから4時間33分、32、5キロ。私の初マラソン挑戦は終った。                          
 このあとゼッケンを外しゴールを目指し歩き途中からタクシーを拾う。ゴールの競技場に着いたときは四時過ぎ高橋君に会う。その日の飛行機で東京に帰らなればならない。ホテルに帰り着替え直ぐ空港に向い、空港から応援団長の志喜屋さんにお礼と無事の報告電話をし機内へ。帰宅したのは10時半、風呂に入り就寝。翌日はなんとか出勤、朝礼に出る。本格的後遺症は翌日の水曜に襲ってきた。大腿前部に痛みが走り階段の下りに難儀した。痛みが取れたのは金曜日だった。       
 月曜日になって沖縄の何人かの知人から「ナマラソンに出ましたか?」という問い合せが続いた。続報も入ってきた。元沖縄IBM内藤所長は今年も駄目だったらしい。宮城琉銀東京支店長は体調不十分で17キロ地点でリタイアしたとのこと。電脳の池間課長は制限時間ギリギリで走り込んだとのこと。私の同期のジャズピアニスト、琉大教授、琉銀役員いずれも中間地点でリタイヤ。驚いたことに天田専務の28才になるご子息さんが単独参加4時間20分で完走している。聞けば学生時代マラソンが得意でラグビーでも鍛えていたとここと。
 いま思うことは42余キロのフルマラソンは伊達や酔狂ではできないこと。完走するためにはもう一段の脚力と心肺力の強化が必要なこと。いまの私の力では正直歩かず走れる距離はハーフが精一杯であること。そして高橋君は別格として大して練習もせず走りきった仲村君と玉城君の若さ、それに過去二度完走を果たした志喜屋さんの底知れないパワーに改めて敬意と驚嘆を感じた。                  1992年12月13日記
 この時の悔しさを秘めて捲土重來、翌93年の第9回ナハマラソンへ向けて準備、挑戦、その年、遂に生涯初のフルマラソン完走を果たす。時に53歳!以下その完走記を発信します。 
                                        

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 汗と涙の初マラソン挑戦記⑥

2007年05月10日 | 「マラソン挑戦」
 やおら気を取り直しまた走る。行けるとこまで行こうと気を取り直し走り始める。とにかく皆が待っている35キロを目指す。しかし気持ちに体がついて行かない両膝が痛み息苦しい。これは練習で経験したことのないことだ。そこで3分歩き5分走ることにした。
 それはやがて5分歩き5分走りになりついで10分から15分歩きになった。
このころ盛んに急救車のサイレンが鳴り行き来する。2人が道端に倒れているのを見掛けた。1人の若い女性は「苦しい苦しい」と叫び声を上げ介抱されていた。この大会一九人が急救車で運ばれ一人が重体とのことだった。25キロ余の「ひめゆりの塔」に達する 中学の時の修学旅行、高校卒業時の自転車ツーア、観光バスで何度か来たあの「ひめゆりの塔」についに走って来た。格別の感慨がよぎる。Tシャツは汗と沿道のシャワーでグッショリ、靴も靴下も水を飲んで重い。
 糸満市内に至りまたも「重田社長!」と沿道から声を掛けられる。驚いたことに「電脳」の佐和田部長だ。先方も驚きの表情だ。この人は糸満にお住まいか。走り来られ手にした袋からヤクルトを2本くださる。歩いているわけにはいかない。急に元気が出るとともにいささかの見栄もあって気持ち颯爽と走り出す。しかしそれも部長の姿が遠のくと再び歩き始めるまもなく第二の足切り点の32キロ。時刻は1時30分前。沿道の「あと500Mガンガレ!」という声に奮起し疲れた体を励まし必死に走るが標識点はなかなか見えない。脇を走る人の「本当に500Mかな」という声に全く同感だ。「あの野郎、嘘言いやがって」と自分の不甲斐なさは棚に上げ、さきほどの沿道の善意の応援者を恨む始末だった。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

汗と涙の初マラソン挑戦記⑤

2007年05月10日 | 「マラソン挑戦」
 15キロ過ぎると市街区から両側に黍畑の農道になり豚牛舎の臭いが微風に乗って延々と続く。この臭いはマラソンマニアの県外参加者には有名な話とのこと。やおら突然「社長!社長!」と沿道から声を掛けられた。見ると㈱ちゅうこんの宮里部長だ。きっと参加している社員の応援に来たのだろう。手を上げて応える。              
 19キロから21キロにかけて40M以上のアップのこのコース最大の登り坂に達した。ここは本社の階段で鍛えた成果の見せどころと自分に言い聞かせ頑張る。坂を登り切るとあと1キロで中間地点の平和記念公園だ。時計を見る。正午前だ。12時までに着かないと足切に会う。とにかく必死に頑張る。前方に塔が見え公園に入る。大変な応援人だ。宮城さんが来ているはづだが見えない。         
 中間点22キロ、間に合った。11時55分。私の同期のほとんどが目標にしているハーフ地点だ。5分も走った後方でボーンボーンという花火の音が聞こえる。あとで聞いたところではここで1000人ほど足切りされたという。それにしてもハーフに3時間近くかかっている。時間内完走は無理かとの思いがかすめる。 出発のとき「社長頑張って下さい」といった本社の浅田、沼沢、多和田、田中さん達の顔が次々浮かぶ。どうしょうか。ついで「社長、決して無理しないで下さい」との天田専務の声を思い出した。これを機についに歩き出した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「’92年、汗と涙の初マラソン挑戦記④」

2007年05月09日 | 「マラソン挑戦」
 「社長!社長!」と呼びながらセーター姿の久高さんが私に併走しながら「大丈夫ですか、山城さんも志喜屋さんも来ています」という。急に元気が出て「やあ!」と答える。すぐ山城さんが「社長!社長!」と大きな目をより大きく見開いて右手にバナナを左手にドリンクを差し出してきた。昨日バナナを頼んだのをキチット守ってくれたのだ。しかし食欲はない。ドリンクだけをもらう。私より五Mほど先を走る玉城くんの写真を撮った志喜屋さんが走り戻り「社長!ポーズ、ポーズ」という。それに応え帽子を掲げる。
    
 「もう一枚撮りましょうか」という声に「35キロで」と答えると「大丈夫ですか」再度聞いてきた。私は「大丈夫!」と答えて走り去ったが結果は大丈夫ではなかった。しかしこの10キロから15キロは長かった。それにしても山城さんからもらったドリンクはよく冷えて美味しかった。全身にしみわたり精気が蘇った。あれはきっと直前までアイスボックス等で冷やしていたのだろう。走りながら興奮した三人を思い出して可笑しかった。
 あれはきっと15キロまで来た私が意外だったに違いない。             
     
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「'92年の汗と涙の初マラソン挑戦記③」   

2007年05月07日 | 「マラソン挑戦」
'92年12月6日6時に起床。7時前に朝食をとり8時過ぎに競技場入口で高橋君と落ち合い軽くストレッチ。午前9時、空港近くの奥武山競技場をスタート。北海道から鹿児島までの県外3千人を含め1万5千の参加者。このため号砲がなっても私の前は全く動かない。ゲートを潜ったのはなんと9時12分。このとき先頭はすでに4キロ手前の安里三叉路に達していた。まるでラッユアワーのように押し合いへし合うように国道58号線わが社の手前を右折沖縄タイムス前から国際通りに向こう。ペースは遅いと思ったがとても追い抜くスペースはない。与儀公園から市民会館前に小太鼓を鳴らした小母さんたちの力強い応援。沖縄ならではの風景だ。

 10キロ手前気温はすでに二四度早くも汗が流れる。しかし適度の風があり走りやすい。スローペースのためか息も弾まずこの調子ならなんとかいけると思う。南部農林高を過ぎた10キロ地点沢山の応援人が集まっている。時計を見たら10時過ぎ、遅い。実はこの時点でよほどペースを上げないと制限時間内の完走はむつかい状況になっていたのだ。15キロには志喜屋、山城さん、それにひょっとすると久高さん達が応援待機のはず。しかし延々走れども走れども15キロも応援陣も見えない。標識を見失ったか思う。来ていないかと思い始めた矢先一五キロの標識が前方に見えた。左側にいるはずの3人に発見されやすいように路側に寄っていく。       
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

’92年、汗と涙の初マラソン挑戦記②

2007年05月05日 | 「マラソン挑戦」
 92年12月5日土曜日ナハへ。
宿泊の那覇市ホテルへ着くとすぐ我社ただ一人のサブ3ランナー高橋君へ連絡をとり六時半翌日に備え那覇市久茂地の「じゃらせん」で決起会。出席は出場予定の社員・高橋、仲村、玉城三君と私に応援の志喜屋、山城、宮城の三嬢に山内君の八人。社内エントリー人数はは10人近くだったが出場は結局四人。
 このメンバーに「日本アドバンス」とプリントしたTシャツを配る。この席上仲村、玉城両君は練習不足とかということでいかにも自信なさげ。私はといえば気分はもう完走。盛んに気焔を上げた。事実この時は六時間もあれば何とかなるだろうと思った。
 しかしこの10数時間後私は自分の甘さを嫌というほど思い知らされることになる。      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

汗と涙の初マラソン挑戦記①

2007年05月04日 | 「マラソン挑戦」
 「42,192キロのフルマラソンを走り切る!」
生来鈍足の私にとってこのことは、長い間あたかも月に行くようなほとんど願い叶わぬ夢のような話だった。当時の私にとって、それこそ「42192」=”死に行く”程の無謀、難事。反面強い憧憬といってもいい。
 しかし、近年のマラソンブーム到来とともに、私の周辺でもフルマラソン完走の話が頻々と耳に入ってきた。それまで私は何度かジョギングに挑戦し、その都度挫折していた。 

 脚力の衰えを一段と感じ始めていた50歳を前に、改めてマラソンに挑戦ようと思った直接のきっかけは今から15年前の’92年の一月社員である高橋、上江田の両君が朝礼で千葉10キロマリンマラソンに出場完走したのを聞いた時だ。
「よし、こんどこそ!」とさっそく自宅の近くを走ってみた。しかし、やはりというべきか、当然というべきか300メート走れない。すぐ息が上がり足がもつれるのだ。「これは容易ではない」と思い、それから一年、週末の三~五キロのジョギングと一日一回本社八階までの階段登りを実行した。一年後六四キロあった体重が五九まで下がり、久し振りに会う人に「どこか悪いのではないか」といわれるほどになった。その結果この年一月、千葉マリンマラソン10キロを完走できた。
 これで気を良くし無謀にも年末のナハマラソンに挑戦する気になった。               
 
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「3年ぶり・10キロマラソンレース」

2007年02月04日 | 「マラソン挑戦」
 2月4日の日曜日、第19回ナハマラソンと荒川タートルハーフマラソン以来3年ぶりにレース大会に出場した。
 3年前の頚椎傷害から左手の麻痺・障害に続き、大腸憩室炎症等による入院加療が続いたため、医者からは激しいフルマラソンは禁じられているため埼玉県みさと10キロレースに留めた。この日はかって出場した青梅30キロレースと同一日。

 参加コースはともすれば体が押し流されそうな寒風荒ぶ江戸川縁。参加者は首都圏各県はもとより遠く宮城、岩手、奈良から総勢1600余人。私のエントリーした10キロ50歳以上の部は115名。久々のレースで完走を危ぶんだが、結果は9時半スタート、最後尾車に追われながら10時40分の1時間10分でゴール。順位は50歳以上の部で100位前後。今の体調ではまあこんなものか。前を走る小母さんを追い越せないばかりか、ゴール1キロ前では姿が見え無くなるほどに引き離された。後々の後遺症が気になるが、久々の大会雰囲気はやはり爽快。

 ただ、最寄の駅から徒歩20分以上の会場、通常なら無料送迎バスがあるはずがこの大会には無く、市中巡回有料バス利用とのこと。タクシー利用にも駅前待てど暮らせど無し。お陰でスタート正式エントリー手続き間に合わず、飛び込み参加となった。帰りのバス中でも、大廻りさせられた参加者の中からサービスの悪さに不満の声が挙がった。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「私のフルマラソン記」

2006年07月27日 | 「マラソン挑戦」
 私は1992年第8回から18回まで連続10回、毎年12月第一日曜に開催される「ナハマラソン」に出場し、内8回は完走メダルを貰った。
 第8回は兼城陸橋32キロ地点の制限時間4時間に5分間に合わず脚切り。昨年の18回は32キロ地点を制限時間内にクリアーしたものの残りの10キロに1時間半かかりゴールの奥武山グランドに到着したのは6時間半かかった。最後の10キロはほとんど歩いたようなものだが制限時間なしのホノルルマラソンなら立派な完走だ。なにしろ途中でへたり込んだり、落伍者用の車に拾われずとにかくゴールまでたどりついたのだから。その詳細は追って「ナハマラソン追悼記」で。

 フルはこのナハ以外に「沖縄マラソン」1回、東京都荒川河川敷で行われる「荒川マラソン」2回と合計これまで21回挑戦している。30キロ、ハーフ、10マイル、10キロは数え切れない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「越谷元旦10キロマラソン」

2006年01月02日 | 「マラソン挑戦」
 以前は元旦になると表記の10キロマラソンを走っていた。記録を調べると92年から99年まで7年連続で出場している。
 京浜東北線南浦和で武蔵野線に乗換え、南越谷駅から越谷市役所まで徒歩で行く。大晦日の夜更かしで大方寝過し、人影の見えない元旦早朝の町並みをトレーニング・スタイルで駅に向う自分の姿に一人悦に入っていた様はナルチズムの極致だった。元旦の10時スタートだから我家の元旦お節料理はこのレース終了、帰宅後だからほとんどお昼過ぎ、家人も承知の習慣になっていた。手元の完走証を見ると全て50分台でゴールしている。
 頚腕症候群を患ったのが止めたか理由だったか。ナハマラソンの疲れも癒されぬ連夜の年末忘年会を縫って元旦に向けて練習するのは健康にもいい。症候群も治まった来年こそ復活チャレンジするか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第21回「ナハ・マラソン」

2005年12月05日 | 「マラソン挑戦」
 32キロ4時間半の制限時間をギリギリ飛び込んでクリア。後10キロ、ひたすら歩き続け6時間40分でゴール(?)。両膝サポートの不恰好スタイルだったが、心配した膝の痛みもなくとにもかくにも走れた。これなら来年週2回もジョグすれば再び6時間では走れるかも。
 27キロ地点で「社長、社長!」叫びつつ手を振る女性。なんと当社OB社員。ミカンとスポーツ飲料の差入れ。天女にも見えた。ありがとう!玉寄さん。

 生憎の小雨と強風だったが高気温より完走率高く、4人中3人が制限時間内。後輩の池間さん、見事6時間クリア、おめでとう!
今回、完走自信なく前夜有志数人、ささやかに激励受ける。メンバーの後輩の具志さんが
スタート間もない国際通りで撮ってくれたSHOT、今回の唯一の証拠。

 完走終了後、痛恨衝撃の極みは今回出場エントリー、完走を期して練習重ねていた高校の同期A君が、大会前夜仕上げのサウナで心筋梗塞急逝の報に接したことだった。無茶はできないという思いとA君のご冥福を衷心よりお祈りします。
 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝吼夕嘆

http://blog.goo.ne.jp/admin/showimagedetail/?iid=6d292ae01e91fce8c4f000e010f17835&type=1&return=%2Fadmin%2Fimgmanage%2F%3Flimit%3D12%26type%3D1%26order%3Ddesc%26did%3D%26window%3Doff%26img_year%3D0%26img_month%3D0%26offset%3D12