'92年12月6日1時30分、もう駄目だと思ったら前方に32キロの標識が見えた。最後の死力を尽くして頑張る。しかし南無さん!時間切れ3分オーバー、残念無念。この地点で500人近くが強制リタイア。スタートから4時間33分、32、5キロ。私の初マラソン挑戦は終った。
このあとゼッケンを外しゴールを目指し歩き途中からタクシーを拾う。ゴールの競技場に着いたときは四時過ぎ高橋君に会う。その日の飛行機で東京に帰らなればならない。ホテルに帰り着替え直ぐ空港に向い、空港から応援団長の志喜屋さんにお礼と無事の報告電話をし機内へ。帰宅したのは10時半、風呂に入り就寝。翌日はなんとか出勤、朝礼に出る。本格的後遺症は翌日の水曜に襲ってきた。大腿前部に痛みが走り階段の下りに難儀した。痛みが取れたのは金曜日だった。
月曜日になって沖縄の何人かの知人から「ナマラソンに出ましたか?」という問い合せが続いた。続報も入ってきた。元沖縄IBM内藤所長は今年も駄目だったらしい。宮城琉銀東京支店長は体調不十分で17キロ地点でリタイアしたとのこと。電脳の池間課長は制限時間ギリギリで走り込んだとのこと。私の同期のジャズピアニスト、琉大教授、琉銀役員いずれも中間地点でリタイヤ。驚いたことに天田専務の28才になるご子息さんが単独参加4時間20分で完走している。聞けば学生時代マラソンが得意でラグビーでも鍛えていたとここと。
いま思うことは42余キロのフルマラソンは伊達や酔狂ではできないこと。完走するためにはもう一段の脚力と心肺力の強化が必要なこと。いまの私の力では正直歩かず走れる距離はハーフが精一杯であること。そして高橋君は別格として大して練習もせず走りきった仲村君と玉城君の若さ、それに過去二度完走を果たした志喜屋さんの底知れないパワーに改めて敬意と驚嘆を感じた。 1992年12月13日記
この時の悔しさを秘めて捲土重來、翌93年の第9回ナハマラソンへ向けて準備、挑戦、その年、遂に生涯初のフルマラソン完走を果たす。時に53歳!以下その完走記を発信します。
このあとゼッケンを外しゴールを目指し歩き途中からタクシーを拾う。ゴールの競技場に着いたときは四時過ぎ高橋君に会う。その日の飛行機で東京に帰らなればならない。ホテルに帰り着替え直ぐ空港に向い、空港から応援団長の志喜屋さんにお礼と無事の報告電話をし機内へ。帰宅したのは10時半、風呂に入り就寝。翌日はなんとか出勤、朝礼に出る。本格的後遺症は翌日の水曜に襲ってきた。大腿前部に痛みが走り階段の下りに難儀した。痛みが取れたのは金曜日だった。
月曜日になって沖縄の何人かの知人から「ナマラソンに出ましたか?」という問い合せが続いた。続報も入ってきた。元沖縄IBM内藤所長は今年も駄目だったらしい。宮城琉銀東京支店長は体調不十分で17キロ地点でリタイアしたとのこと。電脳の池間課長は制限時間ギリギリで走り込んだとのこと。私の同期のジャズピアニスト、琉大教授、琉銀役員いずれも中間地点でリタイヤ。驚いたことに天田専務の28才になるご子息さんが単独参加4時間20分で完走している。聞けば学生時代マラソンが得意でラグビーでも鍛えていたとここと。
いま思うことは42余キロのフルマラソンは伊達や酔狂ではできないこと。完走するためにはもう一段の脚力と心肺力の強化が必要なこと。いまの私の力では正直歩かず走れる距離はハーフが精一杯であること。そして高橋君は別格として大して練習もせず走りきった仲村君と玉城君の若さ、それに過去二度完走を果たした志喜屋さんの底知れないパワーに改めて敬意と驚嘆を感じた。 1992年12月13日記
この時の悔しさを秘めて捲土重來、翌93年の第9回ナハマラソンへ向けて準備、挑戦、その年、遂に生涯初のフルマラソン完走を果たす。時に53歳!以下その完走記を発信します。
人は山に魅せられ、山に登る。マラソンは、何?
この奮戦記を読ませていただきながら、且って、10キロマラソンに臨んだことを思い出した。自己に打ち勝つ。身も心も。何よりも完走したときの汗が美味しい。さわやかに。でも、重田さんのは、年齢の限界に挑んでいたのではないかと感じる。経営者としての孤独への挑戦なのか。イヤイヤ、若さへの挑戦なのでしょう。あの頃は、まだ若かったよね。マラソンだけではなく、今も全てに走り続ける重田さんにエールを!
早く次ぎを読みたいと盛り上げてくれる内容、さすがですね。
これからもワクワクする記事の掲載を楽しみにしております。