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”朝吼夕嘆・晴走雨読”

「美ら島沖縄大使」「WeeklyBook&Reviews」「マラソン挑戦」

「第24回那覇マラソンと膝故障」

2008年12月06日 | 「マラソン挑戦」
 12月第一日曜の7日,恒例の那覇マラソンが開催されます。今年で24回目。
これまで私は半分の12回に出場、内9回は何とか6時間制限内で完走しメダルを頂いている。ここ2年は6時間半のタイムオーバーと中間通過の平和祈念堂でリタイヤ。
 実は今年夏頃から膝に違和感があり、先のブラジル・コパカガーナー海岸での1時間走で決定的に悪化させたようです。
 帰国後、階段下り歩行時に左膝に痛みを感じ、整形外科でレントゲンとMRI撮影の結果、医者から「よく、これで走っていましたね!」と言われました。結果は老化と酷使による間節軟骨磨耗の“変形性膝関節症”。関節を滑らかにするヒアルロン酸を両膝に注射。さらに左膝裏の腫れを取るため、注射一本位の水抜き治療を受け、医者からマラソン禁止を言われた時は、“70過ぎのフル完走ランナー大勢いるのに、何で私は!”と言いようのない喪失、絶望感に襲われました。それでも週末は自宅近いスポーツセンターで一時間ほどのマシン・ウォーキングトレ。
 今回の那覇マラソンはすでに申し込んでいましたので、あの高揚感忘れ難く、とにもかくにもスタート地点に立ちます。走ればズキンズキン痛みが来ますので、せめて安里三叉路辺りまでを目指します。
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「春日部大凧ハーフ・マラソンに出場しました」

2008年05月25日 | 「マラソン挑戦」

 五月連休の4日、恒例の第20回春日部大凧ハーフ・マラソンに出場、制限時間8分前の2時間52分で何とかゴール。先月の熊谷ハーフより22分も遅いのは前々日の飲酒・午前様帰宅が効いたのだろう。
 この「春日部大凧マラソン」は市町村合併により「庄和マラソン」からの名称変更したもの。そう言えば三市合併・さいたま市になり、それまで愛好していた自宅最寄りの「与野大かやマラソン」がなくなったのは残念でならない。
 五月晴れ、グライダーの離発着を眺めながらのコースの大半を占める江戸川土手10キロ弱は何時走っても快適極まりない。
 このコースは第4回目以来今回まで通算14回出場、私の出場回数の多い大会。
今回、過去の記録ベストタイムは12年前の2時間15分。年は争えないもの、年々タイムは悪くなっている。
                                              

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「泊大橋ジョギング!」

2008年05月10日 | 「マラソン挑戦」
 ほとんどの場合沖縄出張にはジョギングシャツとシューズを持参する。しかし、最近は走るのは2回に一度位。
 昼間の業務、案件終了後、夜の食事・懇親に繰り出す合間を見て、ホテルから波の上宮、泊大橋を往復する。港に出入りする船舶を眺望、時に汽笛を聞きつつ海風の中、起伏に富むこの大橋ジョギングは仕事をしばし忘れさせ、自宅の埼玉では絶対に出会わない沖縄ならではのお好みコース。
 途中、必ず何組かのジョガーに出会う。時には復路、季節外れの波の上海岸で泳ぎ、監視人に怒られ、海水ずぶ濡れパンツでホテルへ帰り、フロントの顰蹙を買いました。
 去った2月の28日、沖縄での出版パーティ日の午前中、ジョギングの帰り波の上宮沖で泳いで、関係者に呆れ返られた。
 かつては、大橋を引き返さず、そのままサチージャー岸壁下を曙町から中学、高校時代を過ごした懐かしの安謝に向い、58号線を泊、前島、とホテルまで2時間近く走ったもの。そうしたことから私は沖縄出張の際はコースに近いホテルに泊まることが多い。
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 「熊谷さくらハーフマラソン完走!!」

2008年04月13日 | 「マラソン挑戦」
 春まだ浅き去った3月23日、北関東の熊谷市のハーフマラソン。先の荒川フルマラソン完走?に調子に乗り、勇躍、無謀にも挑戦。何とか2時間30分で完走。順位は50歳以上壮年部参加者967名中の957位。何と私の後にはわずかに10名(トホホ!!)
 このコースは7年振り。駅から会場までもアプローチの悪さには他と比べ、著しい主催実行体制の段取り悪さに往生しましたが、ボランティアーの皆さんに感謝こそすれ苦情はいえません。
 それ比し、桜並木の荒川上流水域と至る所お年寄りが応援を送る沿道は心地良く快適。よく整備された瀟洒な市内の沿道コースを見ると何時もながら“奥関東”とも言われたこの地域を開いた坂東武士先人の心意気と知恵を感じたと言うは飛躍過ぎか!
 しかし、2周続けたマラソンレース、流石に脚に後遺症、とくに右膝に疼痛、階段の登り降りに違和感を覚え、時に痙攣が走る。無謀だったか!
     
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「荒川フルマラソンに挑戦」

2008年03月29日 | 「マラソン挑戦」
 「生涯初出版」「創業30周年」と繁忙一段落の3月16日の日曜、数年振りにフルマラソンに挑戦。
 今回エントリーした荒川マラソンは河川コースの上に制限7時間と東京マラソンと並んで平易なコース。これまで東京マラソンには2度抽選漏れしたが、荒川は過去2度出場し、いずれも何とか制限時間にゴールしている。
 制限6時間でコース起伏に富む“ナハ・マラソン”に比べ容易とは言え、繁忙な上に週末のマシン・ジョグ練習だけで完走出来るか不安だった。果たせるかな25キロ以降は歩いたり、走ったりの地獄。それでも何とか6時間20分でゴールにたどり着いた。
           
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「第23回ナハマラソン」

2007年12月06日 | 「マラソン挑戦」
(スタート10分前)
 この23回大会は26000人を越す過去最大参加者。内8000余人が本土からの参加者。私も性懲りもなく14回目のナハマラソン挑戦、内9回は6時間内完走メダル貰っているけど、ここ近年は21キロ中間まで。32キロ足切地点クリアしても6時間30分のゴールでメダル無し。今回も剣が峰の大会2ヶ月前に上海、ベトナム出張と続いた上に1週間前までしつこい風邪に悩まされた。
 ママヨと中間21キロの平和祈念堂まで行けたら可と参加。ゼッケンNO23709の私がスタート地点に達したのは9時のスタートから20分後。先頭は3キロ近い安里三叉路を過ぎていたという。
 結果は予想通り、歩かず走り抜けたものの中間足切地点に達したのは12時15分前。ネットで2時間45分位か。27キロ琉球ガラス村近くまで行ったもののここでリタイヤ。制限時間内の完走者は15000以上の6割。週末マシントレの私ではフルはやはり無理と思い知る。
 65歳、同行の中野CIJ会長は4時間25分、堂々たるタイム。完走当日の飛行機で帰京、1週間後の今週日曜にはホノルルマラソンに向かうとのこと!
いや、感嘆、参りました!(25キロ米須交差点近く?) 
  

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マラソン考④(この項最終)

2007年07月16日 | 「マラソン挑戦」
                 (ホノルル・カピオラニ公園で)

 伊能忠敬は六〇才を過ぎて全国を「徒歩」で測量しヨーロッパ人も驚くような精妙な日本地図を作成し、中岡慎太郎は一年に何度も死にものぐるいに東海道を「行き来し」倒幕活動に奔走し、坂本竜馬とともに凶刀に倒れた。少し時代は下り文明開化の明治、多くのヨーロッパ人が当時の日本人の持久力の凄さを記している。大森貝塚を発見したモースは日本人の人力車夫が約五〇キロ休みなく走ることを見て驚いている。フランスの青年ボーヴォワールは日本人馬手が馬と共に連日四〇キロ前後、日によっては八〇キロも走ったとその旅行記に記している。東京医学校のベルツも日本人車夫の体力の素晴らしさを書いている。                                     
 要するに近世日本人は生活のため毎日フルマラソンを走っていたようなものだ。彼らにとって「健脚」はあくまでも手段だった。生活と壮図のためその脚力を駆使したこれらの近世人は「志」乏しく、飽食のあげく肥満防止のためマラソンに興ずるわれわれを一体どんな思いで眺めているだろう。
                             
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マラソン考② 

2007年06月27日 | 「マラソン挑戦」
 マラソンは孤独で暗いスポーツだ。作家の故灰谷健次郎やシンガーソングライターの高石ともや氏達愛好家がどんなにマラソンの楽しさや明るさを強調しようがそれはゴール後の話であって苦痛に耐え、上がる息に喘ぐレースの最中は辛く、苦しいに決まってる。マラソンには他のスポーツに見られる俊敏性や躍動美、競技中の他の参加者との交歓や歓声が無くただひたすら孤独だ。迫り来る自分の体力の限界との戦いであり、その本質はストイックと克己だ。ひよっとするとマゾヒステックでさえある。
             
 四二キロに飽きた人は一〇〇キロのウルトラマラソンやより過激なスパルタンに挑戦する。はては福岡~東京千キロに挑む人が出てくる。こうなればまるで叡山の修行だ。人々はゴールで手を合わせ涙を流し、千日迴峰を果たした阿闍梨のように完走者を迎える。 
 マラソンレースのプロセスは「生」が限り無く自らを「死」に追い詰めているようなものだ。ゴールの悦びは「生還」への歓喜に他ならない。それはエクスタシーに似ている。エクスタシーは癖になるからマラソンへの挑戦は癖になるに違いないのだろう。
 近代のスポーツは多かれ少なかれ似たようなものだが、それにしても人類が本来何事かなすために与えられた機能としての「赱力」を自己目的化し「競技種目化」あるいは趣味にしているのは考えれば奇妙だ。 
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「旅先のジョギングコース」

2007年06月22日 | 「マラソン挑戦」
 ときに私は出張時ジョギング・シューズとウェアを持参する。沖縄では商談終了後紅灯街に繰り出す前に、時間を見て小1時間ジョグするときがある。
と言っても最近は3回に1度位で、後の2回は虚しく持参往復するだけのことが多くなった。6時間制限を青息吐息“やっとこさ”でクリアーする私が、したり顔に吹聴するのもおこがましいが、思いで深い旅行出張先ジョギングコースがある。
 定宿の沖縄ワシントンホテルから往復する泊大橋は別にして、まだ壮健だった義母を石川県内灘に訪ねた際、沖縄や埼玉では見ることの出来ない牧舎連なる河北農地開発道に地元為政者の知恵に感じつつ走ったのも忘れることが出来ない。

 海外ではホノルルワイキキ海岸やIT国際会議で訪れたオーストラリアはアデレード市内のトレンス湖畔を走ったのも良い思い出になっており、過年病臥に臥した時は不思議にレース本番光景よりこうした旅先のジョギングコースが思い出された。これもジョギング趣味の余得か。


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「観光イベントしてのマラソン」

2007年06月07日 | 「マラソン挑戦」
 昨今のマラソンは村興しや観光誘致イベントとしての色彩が強い。「千歳」や「与論」この春の「沖縄マラソン」もそうだろう。同じ集客誘致策ならギャンブルやアルコール・セックス絡みよりこっちの方がよほどましなことは論をまたない。
沖縄観光業界にとって年末、正月休みを控えた12月初旬は閑散期だったが、12月の第一日曜日にナハマラソン・イベントを打つようになったこの20年、この時期本土から毎年3000名近いマラソン参加者が来島、お蔭で那覇市内ホテルは潤う。
  
 もし私が暁のゴールドコーストや朝ぼらけのワイキキを気取って、たとえば平原綾香の「翼をください」、一青窈の「ハナミズキ」、サイモンの「ボクサー」ABBAの「Dancing Queen」をiチューンで聞きながら颯爽と4時間位で完走出来たら”風と音楽とマラソンと”などと銘打ってエッセイを得意気にひけらかすのだが、ストライドは伸びず、足は上がらず顎を突き出し、ガニ股でトボトボと這うように走り、あげくのはては途中リタイヤの現状では残念ながら様にならない。

 
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「マラソンと長寿」

2007年05月31日 | 「マラソン挑戦」
 マラソン・ランナーの長寿は聞いたことが無い。42,19のフルマラソンは時に死ニニイク”と揶揄されるが、本当に体にいいのか?現に私はマラソンとは言わないジョギングを初めて以来ここ20年の間に大腸腫瘍、憩室炎、頚腕症候群、左手麻痺と罹病している。
“だから言わんことではない。年甲斐もなくジョギングなんて粋がっているから、その報い”という声が聞こえて来そうだが、特に頚椎障害はジョギングの後遺症か、正直その因果関係は分からない。しかし、私はそう後悔していない。
「長生きするためにジョギングをしているのではない」とまでは言わないが、人のとの比較ではなく、元来腺病体質の私はジョギングをしていなかったら今以上に疾病がちになったと思う。他人との比較ではなく、あくまでジョギングする自分としなかった場合の相対比較。
 確信をもっていえる事はランニングは心肺・脚力機能の健全化には有効で、現実に私は中高年が患いがちな血圧、コレストロール、血糖値、体重等は常に正常値を保っている。しかし、胃腸等の消化器系や腫瘍対処方としては必ずしも有効とはいえない。

 いざとなったら自分自身そう出来るかどうかは自信はないが、”ひたすら生き長いたいという思想は卑しい“という三島由紀夫美学に共感を覚え、介護を受けながら長生するより“生きている限り出来るだけ健康で死はコロッと逝きたい”と思っている。
 ところが養護センターを営む高校同期の医師から“そんな格好いいことは健康なときにうそぶくこと!倒れてボケれば糞尿に塗れてのたうつこと。それが生きるということ!”と言われた。
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「意外!ハーフ・マラソン完走!」

2007年05月20日 | 「マラソン挑戦」
 去った連休に3年ぶりにハーフ・マラソンに挑戦、何とか完走した。と言ってもタイムは制限時間15分前の2時間45分と自分のワースト記録に近い。正直、週末のマシン・トレ以外碌な練習もしていないので途中リタイアも予想、まさか完走出来るとは思わなかった。
 レースは“春日部大凧ハーフ・マラソン”。一昨年までは17回続いた“庄和大凧マラソン“。市町村合併で”春日部大凧“になった。

 薫風薫る中、時折舞い上がるグライダーを見上げつつ江戸川堤防を走る今回のルートは私の好きなコースで、これまで過去12回出場している。ベストタイムは平成6年の第6回大会の1時間58分、時に54歳。以後タイムは年々遅くなり、一昨年は遂に頚腕症候群でドクターストップ。今回、左手麻痺障害は進んでいるものの頚腕疼痛が取れたので、不安ながら挑戦した。10キロ地点でリタイヤしてもいいとの思いで出場したら、10キロ地点でも限界感がない。ままよとゴールまで走った。流石に疲労困憊したがゴール後、何とも言えない達成・爽快感。あとは襲って来るかもしれない後遺頚腕症を見守る。
 実はこれまで縷々過去のマラソン歴を紐解いて、述べて来たのも久々のハーフ完走に高揚した結果でした。

      
 
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「社長のマラソン」

2007年05月18日 | 「マラソン挑戦」
 すでに報告したようにこれまで私は毎年12月第一日曜に開催されるナハマラソンに13回挑戦。その度、月曜朝礼で結果を社社員に“したり顔”で報告していた。さぞ、社員は心中“社長は凄い”と思っているだろうと思っていたがある宴席で、若手の社員が“社長がマラソン完走したって、それは個人的な趣味!我々に何の関係があるか”と聞こえがしに言うのを聞いた。
 私は内心“この野郎!”と“いいか、社長がマラソン走るというのは健康ということ!社長の健康は社員にとって結局、良いことなんだぞ”と言ったら、件の社員“でも、社長その那覇出張、会社の経費で行っているんでしょう!”という。
これ又“かっ”としたが、若手を相手にこんなことで反応していてはみっとともないと思い直し、翌日総務に出張旅費明細を精査させたところ“社長、ナハマラソンの12月第一日曜前後の旅費支出エビデンス無いですよ”との報告。
“そら見ろ!私の思ったとおり自腹で行ったぞ”と件の社員の発言をとっちめようと思ったが、これまた大人気ないと放っておいた。

 甚だ気分穏やかでは無かったが“まあ、そう思う社員もいるということか”。
力で押さえつけても“どうせ酒席でうそぶくだろう”し、中には“それはちょっと言い過ぎだよ”と咎める社員も中には居るかもしれないと期待し、我慢した。しかし、まあ“マラソンなんかする暇があったら我々のボーナスをもっと上げることも考えて”という思いも正直、社員にはあるだろうと思うことにした。

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那覇マラソン完走記④(この項最終)

2007年05月17日 | 「マラソン挑戦」
 結局私はこの’93年・第9回の初完走以来2000年17回まで、連続8回完走を果たすことになる。
 この間、社員の事故死、母の逝去、私自身の腫瘍摘出入院等人生の紆余曲折、週末の北浦和の社会保健センターのトレーニングマシンで、出勤前の早朝大宮の氷川神社を、あるは暮れなずむ埼京線沿いを時に涙しながら走った。

 連続出場が途切れたのは第16回2001年大会。その大きな理由はこの年、東京で行われたWUB世界大会の会長を務め時間的にも精神的にも余裕が無かったこと。その2年後の第20回大会はハーフまで、翌21回は那覇高後輩の池間嬢達と出場すれでも制限時間30分近くオーバーする6時間半でゴールしたが、その後は頚腕症候群から左手麻痺、大腸憩室炎等で入院、ドクタースットップから走れず、一種のジョギング・ロスト喪失感に襲われ、週末のマシン・ジョグで誤魔化して来た。
 結局、私は50歳以降にナハマラソン11回、沖縄マラソン1回、東京荒川2回と合計14回のフルマラソンに出場、内13回完走したことになる。ハーフと10キロ出場は50回近いと思う。
 昨年暮れの大腸憩室炎症入院時には”もうは走れないか”と一種絶望感に襲われたが、実は今月の連休ハーフに挑み、左手麻痺を庇いつつ、3時間の制限時間内で完走、自分でも奇跡かと思ったほどの達成感に襲われた。実に3年ぶりだった。この詳細紹介は次回以降に。


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故親泊那覇市長から祝福受ける! 

2007年05月15日 | 「マラソン挑戦」
 ’93年12月、私はフルマラソン初完走?
ゴール地点の貴賓席には主催者の一人である故親泊市長がいらっした。市長が上京の節は当時島袋絹子さん経営の赤坂のスナック「那覇」で良くご一緒した縁から”よー!重田さん、おめでとう!”握手、祝福されたスナップも忘れえぬ思い出。
 
 ゴールのトラックに入った時は小石につまずくだけで倒れそうなほど疲労困憊していた。ゴールインのときには下半身がクラゲになったような感じで思わず座り込みたくなったのを必死で耐えた。ゴールサポートの高校生がそんな私を見兼ねたか「大丈夫ですか」と心配そうに私の顔をのぞき込んだ。この時は涙が出そうになった。「本当にありがとう」という気持ちだったが、その時は疲れでこのお礼の言葉が出なかった。それをいまでも後悔している。那覇マラソンは結局このような多くの善意の人々の奉仕と支えで成り立っているのだと思う。私の生涯初のフルマラソン完走は終わった。感激で涙が出るかと予想したが、実際はヤレヤレという気持ちだった。
                     
 先着した高橋君は私がゴールしても六時間ぎりぎりと予想して三時頃ゴール地点に迎えに行ったが、私の姿が見えず、「社長今年も駄目だったか」と思ったらしい。制限時間30分まえの私の完走は予想外だったらしい。知らないというのは恐ろしい。昨年のスタート前は完走の気分で42キロを多少たかをくっていた。今回は冒頭にも書いたが、むしろ不安だった。昨年の途中リタイヤの挫折で怖さを知り謙虚になったのだ。      
 昨年の強制リタイヤは時の経過と共に私に悔しさと情け無さをもたらした。同時に32キロを目前に足がどうにも動かなかった苦しさは忘れられない。      
 
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朝吼夕嘆

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