もう一つの 昭和・私の記憶

『 昭和・私の記憶 』 の、続編
吾生涯を物語る

男のロマン 大東京 二・二六事件 一人歩き (一)

2015年10月18日 | 男のロマン 1975

男のロマン 大東京
二・二六事件  一人歩き
序 
自我はダイヤの原石

一、昭和四五年一一月二五日(水)  三島由紀夫の死



昭和45年(1970年
)11月25日(水)
「三島由紀夫、市ヶ谷台上にて、クーデッタを促し、壮烈なる割腹自殺 !! 」
リンク→男一匹 命をかけて 三島由紀夫の死 雷の衝撃

これが私の人生の始まりだった
(註・高1、二学期水曜日・授業後のホームルーム、担任より知らされた)
自分が何の知るところなくも、時は流れている
16才だった私は、介錯付の割腹に驚愕した
それは、身震いする程の感動であった
厚き想いが込上げてくる、私は涙ぐんでいたかも知れない
( 註・ことの本質は異なるも、あの 「 恥ずかしながら、帰って参りました 」
と、横井正一兵長のグァムから帰還時

私は胸が厚くなった  しかし、とうていこの比ではなかった、)
私の受けた衝撃は、それはもう凄まじいもの
重々しい雰囲気の中での重苦しい気持ち
それは、血を見たとき、心臓が脈打つ音を聞く・・・に、似た 興奮であった
然し、私の何が、こうも衝撃を受けたのか
この時私は分からなかったのである
その衝撃が 私にとって如何程のものか、判らなかった
私の潜在意識の何が喚起されたか、はっきりとは気付かなかった
とはいえ、一大衝撃を受けた事は確かである
そしてそれは、私の意識の奥深く刻み込まれた
是まで私は、「吾は日本人」という認識を有していなかった
三島由紀夫の割腹という行為そのものは、まさに武士道なるもの
然し
私が受けた衝撃は
あの重々しい雰囲気は
あの重苦しい気持ちは
そして、あの興奮は
大時代的武士道とは異なるものと
不確かではあるが、そう感じたのである
確かにそれは、16才の私の潜在意識を喚起させたものであった
然し、それは未だ漠然としたもので核心にまでは至らなかったのである
「機は未だ熟してしなかった」 ということであらう

二、昭和四九年一月 二・二六との出逢い



昭和49年1月21日(月)
会社の帰り、先輩に伴い大阪梅田の旭屋書店に
先輩につられた訳ではないが、書棚に目を遣っていた 
そして、居並ぶ書籍の中から、なにげなしに目にとまったのが
「天皇制の歴史心理」
それは、偶然の如くか 必然なりしか
私は 「天皇」 と出遭ったのである
「天は、自分にこの本を読ませようとしている」

最初の一歩を踏み出した私
以降、勢いづいて止まらない
    ( リンク→ 私の DNA )

「天皇とは日本人の意志の統合である」
「大御心は一視同仁にあらせられ、名もなき民の赤心と通ずるもの
」 
「赤心の赤子たる日本人」 
「日本人の赤心は必ずや天に通ずるもの」 云々、と

真の日本人というものが、如何なるものかを 分っていなかった私
而して 
私の潜在意識は、目覚めたのである
「是だ」
「私は驚いた、自分が求めていたものが そこに有る」
「自分が求めていたのはこれだ、私は歓喜した」
「自分を見つけたのだ」 
「自分とはこういう人間なのだ」

19才
「自分は日本人である」 という潜在意識の核心を はっきりと自確したのである
それは、「己の自我なるものがダイヤの原石である」 と

天皇から始まった、私の自我の追究は、さらに
日本人とは如何 に続く
この追究が、二・二六事件の蹶起将校との運命的な出逢いとなったのである
それは、逢うべくして逢った
「蹶起の青年将校こそ、至誠の日本人である」 そう確信したのである
これにより 私は鑑を得たのである
真に天命であらうか
昭和45年11月25日の三島由紀夫の自決 の意義はここにあったのである
(註・割腹は武士道への憧れに、武士への憧れになってゆく・・・私も武士に成りたいと)
日本人としての最高の価値は、日本の為に殉死することである
殉ずる事が最高の美である
そこに男のロマンがある
「日本人であると言う意志」
「日本人であるが故に自分は存在する」
「日本人である自分こそ、自分が最後に護るべきものである」
そう想う自分を、私は誇りに思ったのである
そして

「自分はだれよりも誇り貴き男」 と、展開してゆく
(註・昨年、三菱グループ爆破事件があったが、あれ等は日本人の行う革命とは言えない、
 日本的な方法ではない、日本人なら剣を執って、ただ斬れ !! 、斬ったら自刃せよ )
私にとって
二・二六の神達こそ、唯一絶対の日本人である
純真無垢なる日本人である
そして、英雄であった
日本人の原石たる私が、二・二六の神達に憧るるは当然のこと

而して
神達に恋い焦がれた私は
嘗て、神達の存した東京へと、その想いは募っていく

そして
38年前の男のロマンを求め
神達の面影を求め、東京へ

第一部
男のロマン

一、歴史との出逢い 昭和49年11月23日(土)
  二・二六事件慰霊像

二、尊皇討奸 昭和49年11月25日(月)
桜田門 → 警視庁 → 山王ホテル → 首相官邸 → 国会議事堂 → 三宅坂台上 → 皇居外苑

第一部
男のロマン

昭和49年11月23日(土)

一、歴史との出逢い 昭和49年11月23日(土)
  二・二六事件慰霊像

私は、再び訪れた・・・

・・・・三ケ月前の8月7日のこと・・・・
東京駅・丸の内南出口からタクシーに乗った

「渋谷区役所へ」
「シブヤ・・・」
このタクシー、大丈夫かな・・ 
「NHKホールの前」
そう云いかえすと、タクシーは出発したのである






タクシーはNHKホール前交叉点に着いた
目の前に大勢の若者が居て、それは、祭りの如く賑やかであった
然し、肝心要の渋谷区役所が判らない
道路向にパラソルの露店をみつけた
斯の売り子に尋ねてみようと、わざわざ道路をわたったのである
「渋谷区役所は何処ですか」
「後ろですよ」
「後ろ ?」
なんと私は、渋谷区役所を背負っていたのである
私の脳裡には、目的の位置はしっかり焼付いている
渋谷区役所の隣りが渋谷公会堂、更に渋谷税務署と続く
渋谷公会堂での、コンサートに由り 大勢の若者が集まっていたのである
・・
目的地は直ぐそこ哉、気が逸る
そして

「ああ・・・あった」
一人 声無き歓声を上げた私
「神達と逢いたい」 との、夢が現実のものと成りし瞬間である
やっと、辿り着きし
二・二六事件慰霊像
神達の処刑場跡地に建立されし、慰霊像
昭和49(1974年)年8月7日(水)
二十才の私 昭和維新の神達と 初めて直接接点を持ったのである
言い替えらば
歴史との、記念すべき感動の 出逢いであった

・・・・・私は再び訪れた
渋谷区宇田川町の渋谷税務署の北西隅の極狭い一角に存る
旧陸軍刑務所内の、二十二士の処刑場跡に昭和40年2月26日に建立されたものである
昭和49年11月23日(土)
曇天の雲は低く垂下り、空は今にも泣き出しそうな
晩秋の東京は肌寒く、人影も少ない
偶に通りかかる人々は慰霊像には、全く関心を示さない・・しかし、私は無関心な彼等と違う
斯の私は只一人、感慨の中に浸っていたのである
「此の位置で、此処で、神達は殺された・・・」
「この哀しみ、忘れてはならない」
神達(蹶起将校)は、「天皇は現人神であり、至誠至純は神に通ずるもの」 と、信念していた
然し、天皇に忠誠を誓い、天皇の御為に、この日本国を本来の姿にしようと蹶起したるに
その神達(蹶起将校)の真意は、雲の上までに通じなかったのである
天皇の御為にと、その純真、恋闕なる天皇観の基に蹶起した
されど、天皇の名よる裁判によって処刑されたのである
「皆、聞いてくれ 殺されたら、血だらけのまま陛下の元へ集まろう・・・」
と、香田大尉の叫び声が聞こえる
神達(蹶起将校)
こそ、その忠誠心が至純な日本人ではないか
なれど
「天皇陛下万歳」 は、神達の最期の絶叫は、届かなかったのである
この哀しさ、この悲運
ああ天は・・
「国体を護らんとして逆徒となる  万斛の恨  涙も涸れぬ  ああ天は」・・・安藤輝三
万斛の恨み・・・悲痛なひびきが私の胸をうつ



昭和維新から 三十八年
時は流れた
観音像をとり巻く空気は変った
今や、神達を知る者はいない
淋しそうな観音像の顔に神達の想いを偲ぶ

「かの子等は あをぐもの涯にゆきにけり 涯なるくにをひねもすおもふ」

・・・同じく一年後に処刑された、西田税の詩である
NHKの建物を透して、観音像の眺つめる先は 青雲の涯 なのであろうか
大東京の空は低く垂下り、私に肌寒く重苦しくのしかかってくる
私の内なる空も亦、今にも泣き出しそうな
・・・
「来年、又、来ます」・・・そう誓った

次頁 男のロマン 大東京 二・二六事件 一人歩き (二) に 続く


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