あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和・私の記憶 『 西田税との出逢い 』

2023年02月22日 04時39分31秒 | 昭和 ・ 私の記憶

   
出逢い
私の
二 ・二六事件との確かな出逢いは、
昭和49年 ( 1974年 )
2月12日、東海林吉郎著 『 
二 ・二六と下級兵士 』 
2月14日、山岡明著 『 二・二六事件と下士官兵 』  から始まり、
続いて、昭和49年 ( 1974年 ) 3月4日、
河野司編 『 
二 ・二六事件  獄中手記遺書 』 より、二十二士を知る。
 
西田税 
斯の写真との出遭いは衝撃であった
これぞ 日本人
私の理想とする、日本人の面構え
それは真まさに、『 国士 』
・・・と、
私は 斯の写真に
私のDNAの中に存する、
『 国士 』 への憧憬をみた
・・・一つの写真との出遭い 

さらに、昭和49年 ( 1974年 ) 4月2日、
『 現代日本思想体系 超国家主義 』 で
『 西田税  夢眼私論 』 と出逢った。
それは、衝撃的なものであった。

無眼私論
青年将校運動の指導者 西田税が、大正11年 ( 1922年 ) 春、

21歳の青年期、病床で記した感想録である。
「 西田税の乃公自作の真理 」 は、
52年後の 昭和49年 ( 1974年 )4月、
19歳の私に届いた。

「 吾意 得たり 」
これが、私の実感であった。
そして、19歳の私は
「 祖父の想い 」 として、これをを継承しようと誓った。
 ・・・リンク→ 祖父 の 遺伝子 

翌年の昭和50年 ( 1975年 ) 8月9日、
西田税自伝 『 戦雲を麾く 』 を知る。
茲で私は、西田税を
心懐の中心とし
たのである。
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先覚者 ・青年将校運動のリーダー達

それぞれの

西田税との出逢い



大蔵栄一
革新の気秘めて、桜会出席 
大正の末期から昭和の初頭にかけて、世の中は大動乱の胎動を始めていた。
経済的には政友会、民政党と政権が替わるごとに 金輸出禁止政策から金解禁政策へと、
ネコの目のように変わった。

大恐慌は国民に上に重くのしかかった。
かてて加えて 天候の異状は大冷害となって、東北地方の農民をいよいよ窮地に追い込んだ。
未曾有の農業恐慌が起こる。
政界では疑獄 ( 汚職 ) の続出で、貧官汚吏の高官どもが私欲をほしいままにした。
大正七年のロシア革命の成功は、日本にも もとより無縁ではなく、
この思想は不景気、恐慌の下にあえぐ国民の間にも浸透していく。
外交問題では 昭和五年のロンドン軍縮条約のごとく英米の圧迫によってわが海軍艦艇の保有量の制限を強いられ、
数量の削減、制限を受けざるを得なくなった。
国民は不安の声をあげ、怨嗟えんさの叫びは大きくウズを巻き始めた。
この海軍軍縮の条約締結は統帥権干犯の事実ありとして、
時の総理大臣浜口雄幸が東京駅頭で十九歳の青年佐郷屋留雄により襲撃されるという不祥事件をひき起すにいたる。
・・・・世の中は大きく揺れはじめていた。

私が初めて 『 桜会 』 ( 橋本欣五郎中佐らを中心とした軍内の革新団体 ) に出席したのは、
昭和六年五月ごろであった。
最初だれに誘われて行ったのか、今では全く記憶にない。
約五十名が偕行社に集まっていた。
参謀肩章を吊った佐官連中や、陸軍省あたりの中堅将校と思われる 『 天保銭 』 ( 陸大出 ) のお歴々が、
キラ星の如く並んだありさまは、私には偉観であった。
橋本欣五郎中佐 ( 陸士二十三期 ) 樋口季一郎中佐 ( 陸士二十一期 ) など数人によって、
内外時局の緊迫せる状況や、国内革新の必要であることなど、かわるがわる熱弁がふるわれた。
私が菅波三郎中尉に再会したのも、この日である。
菅波は熊本幼年学校の同期生で、このとき鹿児島の四十五聯隊から麻布の三聯隊に転任してきたばかり、
陸士卒業以来六年ぶりであった。
それからは、菅波と私はしげしげと会った。
菅波三郎中尉
北・西田・村中との出会い
この菅波に紹介されて会ったのが西田税 ( 陸士三十四期 ) である。
当時、西田は代々木山谷に居を構えていた。
大正十二年、私が士官候補生として羅南の七十三聯隊に飛ばされたころ、
西田は同じ羅南の騎兵二十七聯隊の新品少尉であった。
熊幼の同期生である親泊朝省 ( 終戦時、家族とともに自刃 ) が騎兵の士官候補生であったので、
私は親泊を通して、西田のことは時々聞いて知っていた。
一度たずねてみたいと思っていたが、士官候補生生活が一か月目には胸膜炎で入院、
その後自宅療養を命ぜられた郷里に返されたので、
ついに会う機会を得ないままこの日に至ったのであるが、菅波の紹介で初めて会ったというわけだ。
村中孝次中尉 
菅波の家で、私は同期生の村中孝次中尉とも会った。
村中とは陸士の本科では同中隊であったし、私が戸山学校で一般学生であったとき、彼は長期学生であった。
小男であるが からだはがっちりしていた。
剣術、体操ともに抜群であるとは、だれもが思えぬような静かなやさ男であった。
彼は旭川二十六聯隊から士官学校予科の区隊長に転任してきていた。
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・・・挿入・・・
観兵の予行と校長宮殿下の訓示と午前中あり。
午後、用弁外出。
直ちに井本、菅波等六名と共に日本改造の闘将北一輝を千駄ヶ谷に訪ねる。
彼の軍隊観を質さんが為
簡素な応接室の椅子の上に安座せし彼は隻眼の小丈夫。
『 日本の現在を如何に見ますか 』
と 反問を発したる後、
宗教、科学、哲学より悪に対する最後まで戦闘精神を説きて我等を酔はしむ。
其の熱と夫その力。
酒脱、豪放、識見、一々敬せざるを得ず。
『 諸君は我日本を改造進展せしむるに最も重大なる責任を有する位置に在ることを光栄とし、
今後大いに努力し給へ 』 。
・・村中孝次  大正十四年 (1925年) 七月二十二日の日記

『 国体論及純正社会主義 』 北一輝著
北は ここで  社会を日本の国体と合一させようとする論を試み
その諸言で  「 破邪は顕正に克つ 」 という日蓮的な言葉を使っている
「 吾人の挙は一に破邪顕正を以て表現すべし、
破邪は 即 顕正なり、
破邪顕正は常に不二一体にして事物の表裏なく、
国体破壊の元凶を誅戮して大義自ら明らかに、大義確立して、民心漸く正に帰す。
是れをこれ維新というべく、少なくとも維新の第一歩にして 且 其の根本なり、
討奸と維新と豈二ならんや 」 ・・・獄中手記 『 続丹心録 』
・・と、
元老、重臣らの中の天皇の大御心を妨げる元凶を取除くことが、
「 破邪顕正 」 で 昭和維新に通ずることである。
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北一輝
西田税につれられて、北一輝とも会った。
貴公子然とした風丰ふうぼうから感ぜられる威圧感に、彼独特のものがあった。
「 北さんと相対すると、いつも威圧されるんだ。死んだ方の目だけ睨みつけて話をすると大丈夫だ 」
と、あとで西田から教わったことがある。それほど北の威圧は強烈であった。
彼の左眼は義眼であった。
『 隻眼せきがんの反逆児 』 とか、『 独眼竜の魔王 』 とかいわれるゆえんである。
昭和初期の大衆作家 林不忘は、北が学んだ佐渡中学の校長の子息である。
北家をしばしば訪問しているうち、北のニヒリスト的魔性の一面にヒントを得て書き上げたのが、
『 丹下佐膳 』 であるといわれている。
そのころ北一輝は大久保百人町に住んでいた。
私も大久保に住んでいたので、日曜日にはよくたずねて、『 日本改造法案大綱  』 の疑問点を無遠慮にぶつけたものだ。
「 北さんはいつも法華経を上げているようですが、日蓮宗でしょうか 」
私の質問は子供じみていた。
「 日蓮は、オレの友達だよ 」
北の答えは、簡明直截ちょくせつであった。
私らがこんな答えをするとキザっぽく聞こえるが、北一輝の場合は、気宇壮大に思えるから不思議なのである。
北の言説と青年将校
また、北はいったことがある。
「 幸徳 ( 秋水 ) は、わたしの本 ( 『 国体論及び純正社会主義 』 ) を読み違えてあんなことをしでかしてしまった。
あのとき ( 大逆事件 ) 、私は死刑のグループに入れられていた。
だが明治天皇は、多すぎると仰せられて、お許しにならなかった、
次々に死刑の人数が削られていって、わたしは何回目かに死刑からはずされていた。
それからわたしは、仏間に明治天皇の肖像画を掲げて毎日拝んでいる 」
そういえば、北の仏間には西郷隆盛と明治天皇の大きな額が掲げられてあって、私は何回か拝んだことがある。
 北一輝の祭壇
そのころは北一輝の 『 国体論及び純正社会主義 』 という本は、どこを探しても見当たらない幻の本であった。
もちろん北の家にも、西田の家にもなかった。
ただ西田の家に筆写した大部のものが一時おいてあったのみで、
私は、大いそぎで走り読みすることができた程度で、熟読玩味がんみするわけにはいかなかった。
したがって大半の青年将校は、この 『 国体論及び純正社会主義 』 には眼を通したことも、手に持ったこともなかったはずだ。
大体、北一輝の思想を青年将校たちは深く掘り下げて研究しておらず、
したがって充分咀嚼そしゃくしていなかった---と 指摘する論者 ( 例えば 『 北一輝 』 の著者 長谷川義記 ) がいるが、
私も全くその通りだと思っている。
『 国体論及び純正社会主義 』 を私が読んで得た知識は、皇室に対して不敬の言辞の多いことと、
北のとなえる国体論は天皇機関説には違いないが、西洋流天皇機関説ではなく、
天皇中心の有機体的天皇機関説であることを理解する程度であった。
「 あのころは若くて、すべてがけんか腰だったからなァ-- 」
この言葉は、皇室に対する不敬の言辞と思われる点をあげて、私がつめよったときの北の返答であった。
北が 『 国体論及び純正社会主義 』 を書いた二十三歳のころと、
私がつめよった四十七、八歳のころとでは、北一輝の思想は基本的には変化はなかったけれども、
天皇に対する信仰の度合いは濃度を大きく増していたのだろう、と私は信じていた。
・・・大蔵栄一著 二 ・二六事件への挽歌 から ・・・( 昭和49年 ( 1974年 ) 2月25 日・・・大蔵栄一と  私の出逢い )

 
末松太平
天剣党以来
西田税とのつきあいは、大学寮に彼を訪ねたときからである。
大正十四年の十月に、
青森の五聯隊での六ヵ月の隊付を終えると、私は士官学校本科に入校するため、また東京に舞戻ってきた。
そのとき、まだ少尉だった大岸頼好が、東京に行ったらこんな人を訪ねてはどうか、
と 筆をとって巻紙のはしに、さらさらと書き流してくれた人名のなかに、西田や北一輝があった。
しかし入校早々、すぐにも訪ねなければ、とまでは思っていなかった。
が、入校後間もない土曜日の夕食後、
青森で別れたばかりの亀居見習士官がひょっこり学校にやってきたのがきっかけで、
まず西田税訪問が急に実現することになった。
亀居見習士官は士官学校本科を卒業する前に航空兵科を志願していたので、
そのための身体検査に出願するよう通知をうけ、検査地の所沢に行くついでに立ち寄ったのである。
「五十二が廃止になり、知らぬ五聯隊にやられて面白くないので航空を志願しておいたが、
大岸さんや貴様らと過ごしているうち考えが変った。身体検査は合格するにきまっているが、志願はとり消しだ。」
こういった亀居見習士官にとっては、いまはむしろ所沢に行くほうがついでで、
目的は私らを誘って西田税を訪ねるほうだった。
大岸頼好 
「 大岸さんが貴様らを誘って西田さんを訪問してはどうかといっていたが、明日は別に予定はないだろう。」
明日は日曜で外出ができる。別に予定などあるはずはない。
どうせいつかは訪ねてみようと思っていたことである。
こういった亀居見習士官の誘いは私にとっては、いいついでであった。
翌日、約束の場所で落合って西田税を訪問した。
同じ聯隊からきていた同期生の草地候補生も一緒だった。
訪ねた場所はその頃西田税が寝起きしていた大学寮である。
健康上の理由で朝鮮羅南の騎兵聯隊から 広島の騎兵五聯隊に転任した西田は、
結局は健康上軍務に耐えられぬという口実で少尉で予備になり、大学寮にきていたのである。
・・・中略・・・
案内を乞うと、声に応じて長身の西田税が和服の着流しで姿を現した。
「大岸は元気ですか。」
招じいられた部屋での西田の第一声はこれで、変哲もなかったが、
つづいての、

「 このままでは日本は亡びますよ。」
は、このときの私たちには、いささか奇矯だった。
天壌無窮の皇運のみをたたきこまれているだけに、このままでは----の前提条件はあるにしても、
日本が亡びるということには不穏のひびきを感じないわけにはいかなかった。
当時の世間一般の風潮からいえば必ずしも奇矯なことではなく、
私たちと同年輩のもののなかには、もっと過激なことをいうものもいたにちがいないが、
武窓にとじこめられた教育をうけている私たちには刺激の強いものだった。
こう受取られる傾向が、その後、北、西田の思想が国体に背反している危険なものと軍当局ににらまれ、
二・二六事件で難くせつけられることにもなるわけである。
そういった私たちの反応を、同じ軍人であっただけに内幕は知りすぎているから、
はじめから計算にいれているかのように西田は、亡国に瀕しているという日本の現状を語りつづけた。

この最初の訪問のあと、私はもう一度 「 日本亡国論 」 をききたいと思ったので、
次の日曜日にまた大学寮に行った。
この時は草地が気乗りしないふうだったので、予科以来の親友森本赳夫を
「 面白い男がいるよ 」 と いって連れて行った。
が 同じ鳥取県人というせいもあるまいが、森本のほうが私より西田に熱をあげた。
その後間もなく 西田税に連れられて森本と一緒に北一輝を訪問したが、
こんども北一輝に
「 君は孫逸仙に似ている 」
といわれたせいもあったのか、また 森本のほうが北一輝に熱をあげた。
このはじめての北一輝訪問の際は、
朴烈・文子事件の最中で、この事件の中心人物、馬場園という人も同席していた。
北一輝は、
「警視庁がいま躍起になって探している馬場園君です。
大変な猛者のように思っているらしいが、このとおりの優男の紳士ですよ。」
と 私たちに紹介した。
そのあとで、
「 軍人が軍人勅諭を読み誤って、政治に没交渉だったのがかえってよかった。
 おかげで腐敗した政治に染まらなかった。 
いまの日本を救いうるものは、まだ腐敗していないこの軍人だけです。しかも若いあなたがたです。」
と、キラリと隻眼を光らしていった。
それは意外なことばだった。
いまの自衛隊そっくりに無用の長物視されていた軍人が、
日本を救う唯一の存在であり、特に若いわれわれがその最適格者だといわれたからである。
・・・末松太平著  私の昭和史  天剣党以来 から
末松太平著  私の昭和史・・・( 昭和49年 ( 1974年 ) 9月7日・・・末松太平 と 私の 出逢い )

 
菅波三郎
永遠の同志 西田税  菅波三郎

西田税の名を初めて聞いたのは、大正十二年の晩春。
私が、東京・牛込の市ヶ谷台上、陸軍士官学校予科二年を卒業して、
士官候補生の隊付勤務に就いた時のことである。
私は、鹿児島歩兵第四十五連隊付、当時満州駐剳で遼陽に在り。
同期の親友、親泊朝省は騎兵第二十七聯隊附として、北鮮の羅南に在った。
或日、彼より来信に、
「 貴様に是非紹介したい人物がいる。同じ将校団の西田税という新品少尉。
中々の優れた革新の士だ 」 と書いてあった。
それから、時が流れた。
隊付半年の勤務を終えて、大正十二年十月一日 ( 関東大震災直後 ) 陸士本科に入り、
再び市ヶ谷台上の人となった。
大正十四年五月初夏、
ふとしたことから私は、北一輝著 「 日本改造法案大綱  」 を入手して、
爾来 不退転の革新運動に身を投じたのであるが、
同年七月二十日頃、日曜日、著者北一輝氏を訪ねて初対面、親しく謦咳に接した。
三日後に陸士本科卒業、鹿児島に帰隊して、十月、陸軍少尉に任官。
その年 ( 大正十四年 )の暮、
年末休暇を利用して単身上京、大学寮 に初めて西田税を訪う。
西田は既に現役を辞して大学寮の学監であった。
・・・リンク
西田税と大学寮 1 『 大学寮 』 
 西田税と大学寮 2 『 青年将校運動発祥の地 』 

西田さんに初めて会った時は、丁度大学寮が閉鎖になる間際だった。一寸険悪な空気だった。
満川亀太郎さんが現れて 「 今後どうするか 」 と 西田さんに問う。
愛煙家の西田さんは大机の抽出を開いて、バットの箱が一杯つまっている中から新しいのを一個つまみ出し、
一服して、
「 決心は前に申した通り。とにかく私はここを去る 」
と 吐きすてるように言った。
間もなく、長居は無用と思ったか 「 出よう 」 と ぶっきらぼうに私を促がして、トットと歩き出す。
導かれた神田の喫茶店はケチな薄暗い店、カレーライスとコーヒーの一杯をおごって貰って、
めざすは千駄谷九〇二番地の北一輝邸。
こんもりと庭樹に囲まれた、物静かなたたずまい。
中古の二階建の洋館で、あとで満川さんに聞いた話だが、
当時 「 虎大尽 」 ( 南洋で虎狩りをしたとかで ) と 異名を取った山本雄三郎の別邸を
「 北一輝氏は国宝的人物だから 」
 と いう
永井柳太郎 ( 当時の民政党の代議士。元文相永井道雄の実父 )
 
の 口ききでタダで借りた家だったんだそうな。
招じられた応接間にカーテンは無く、ソファは上質だが、ガランとしている。
貧乏暮し。 だが、悠々たる雰囲気だった。
その日、三人 ( 北 四十二歳、西田 二十四歳、そして私 二十一歳 ) で 会談した数時間は、まことに貴重なものであった。
帰り際に
「 私を頼るな。私は、いつ斃れるかも分らない。 私は君の魂に火を点ずる役割を持ったのかも知れぬ。
 しかし一度火が点いたら、ひとりで燃えなくちゃ・・・・」
北氏 西田さんと北邸を辞したのは、夜十時に近かったろうか。
大正十四年の年の暮。師走の空は寒い。
・・・須山幸雄著  西田税 二 ・二六への軌跡 ・・・( 昭和57年 ( 1992年 )  ・・・この本 と 私の出逢い )


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