あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

江藤五郎中尉の死

2021年02月22日 14時19分57秒 | 大蔵榮一

江藤五郎中尉 無罪、
江藤は私の監房のまえにきて立ちすくんだまま、しばらく立ち去りかねていたが、
看守にうながされて、私の目の前から消えて行ってしまった。
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江藤中尉の自殺的戦死
想像した楽しい再会の日は江藤五郎の場合、ついにおとずれることなく、
このときの別れが永遠の決別になり、江藤は大陸に帰らぬ客となってしまったのだ。

江藤は無罪で釈放されたものの、
彼を待っていたものは、停職という行政処分であった。
代々木原頭で大量に銃殺された同志のことを思うと、
停職中の江藤は怏々 おうおう として楽しまなかったらしい。
やがて日支事変が勃発するやただちに復職を命ぜられ、
原隊である丸亀の第十二聯隊に復帰し、
そのまま呉淞 ウースン の敵前上陸を敢行して、まっ先に悲壮な戦死をとげた。

昭和十六年夏のことであった。
私が刑を終わって出獄したのが昭和十四年四月二十九日であったから、
出獄して二年目ということになる。
そのとき私は、神戸の同成貿易株式会社に関係していた。
これは、ひと口でいうと陸軍省防衛課と隠密裡に連絡を持った。
諜報機関としての性格を兼ねた商社であった。
・・・略・・・
ある日、新入社員がはいってきた。
その社員の姓名を、私はいま忘れているが、その男の郷里は丸亀であった。
「 君、兵役の経験は・・・・?」
私は丸亀ときいてなつかしかったので、早速質問してみた。
「 第十二聯隊の軍曹でした 」
「 戦争の経験は・・・・?」
「 呉淞に敵前上陸をして、中支を転戦して参りました 」
「 十二聯隊には江藤五郎中尉がいたはずだが、君、知らんかね 」
「 私と同じ大隊でしたから、江藤中尉殿のことはよく知っています 」
「 呉淞で戦死したそうだが、そのときの様子を知ってたらきかせてくれんか 」
「 中尉殿は、私の眼の前で戦死されましたのでよく知っています。
あれは、呉淞に上陸した直後でした。
大隊長は聯隊本部に行って留守、われわれは敵陣地を前に遮蔽物を利用して、
伏せたまま攻撃命令の下るのを待っていました。
そのとき、突然 江藤中尉殿が、何を思ったか ただひとり抜刀して、
敵陣地めがけて突進していったんです・・・・」
「 ・・・・」
「 全く アッという間の出来事でした。
正面に陣取っていた敵の機関銃がいっせいに火をふいたと思った瞬間、
中尉殿の全身はたちまち蜂の巣のように機関銃弾を受けて、その場にばったり倒れて即死しました。
死体はすぐ くぼ地に引き込みましたが、その顔は、むしろ笑っているような顔でした。
そこに大隊長が帰ってきて、江藤中尉殿の死体をみるや、
『 このバカ者が、何と早まったことをしてくれたんだッ、おまえはバカだッ、バカだッ 』
と叫びながら、死体にとりすがるようにしてワッと泣き崩れました 」
私はこの話をきいて、
衛戍刑務所で私の前から消え去っていった江藤の、涙ぐんだ悲しそうな顔を思い出していた。
「 江藤中尉殿の死は、まったく自殺としか思えませんでした 」
と、彼は話を結んだ。
「 そうだったのか・・・・」
私は、感慨無量であった。
熱血漢江藤五郎は鹿児島の産で、熊本幼年学校の第二十八期生であるから、
私より六年後輩である。
彼の死は、だれの目にも自殺と思われたほど悲壮であったらしい。
私もまた彼の死は自殺であったと思う。

江藤にまつわる思い出はつきない。
昭和十年六月、戸山学校在学中、長岡幹事の
「 ここにがんぜないひとりの子供がいる、命令、殺してこいッ 」
という問題に対して、
「 ハイッ、殺しません 」 
と、平然とうそぶいたときの人を食った江藤の顔。
・・・
此処に頑是ない子供がいる 「 命令、殺して来い 」 
私が林銑十郎陸軍大臣と一騎打ちをするから誰かついてこい、といったとき、
ノコノコついてきて 大臣官邸でスヤスヤと居眠りをした無邪気な顔、
・・・林銑十郎陸軍大臣 「 皇道派の方が正しいと思っている 」 

刑務所で別れるときの悲しそうな顔。
江藤のいろいろの顔が走馬灯の如く、私の目の底に浮かんだ。
私は隊長と同じように
「 江藤の馬鹿野郎ッ・・・・」
と 大声を出してさけびたかった。


大蔵栄一 著 
二・二六事件への挽歌  から


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