二月二十六日からの推移、
すべてがうまく行っているかの情報がわたくしの耳にも届きます。
信じられなくて、身を抓るような気持ちでございました。
西田は有利な収拾へ事を運ぶのが自分の役割と考え、
北夫人におりた霊告を青年将校たちへ電話で伝え、
軍長老へ斡旋の依頼を試みたようでございます。
この電話が憲兵隊によってすべて盗聴されていたのでした。
実力行使の成果を実らせ刈取るために、北先生も西田も、相談に乗り、意見を伝えました。
それが死刑に該当するかどうかは別のことで、事件と全く無関係とは申しません。
・・・リンク→西田はつ 回顧 西田税 2 二・二六事件 「 あなたの立場はどうなのですか 」
昭和54年 ( 1979年 ) 2月26日
NHKで
『 戒厳指令 交信ヲ傍受セヨ 二 ・二六事件秘録 』
が、放送された。
NHKが 『 二 ・二六事件 』 を 如何にみているのか、
そして、全国民に何を如何 伝えるのかそこが肝心
・・と、期待を以て視たのである。
私が 放映画像を撮影したもの
当日の吾日記 ( 日付カレンダーは翌月 3月 )
2、26事件43年
未 認知されない悲劇
栗原さん、安藤さんの声をテレビで聴く
43年前の声が今 吾にとどく
神達が日本人でありし日の声が吾にとどく
北一輝の声も 西田夫人の声も亦 42日目
・・・1979.2.26の 吾日記
録音テープ
( 親友 ・長野に依頼した )
しかし
「 やっぱり、 正しく 評価が為されていない 」
私の期待は、はずれてしまつた。
昭和11年2月28日
幸楽に於いて安藤大尉は謂った
私は楠正成に成る
蹶起した心懐は、70年も、80年も経たねば分って貰えないだろう
・・と
事件から43年経つても猶ほ
安藤大尉の魂は、
暗雲漂う大東京の空を彷徨う ・・・・
NHK
戒厳指令
『 交信ヲ傍受セヨ 』
二 ・二六事件秘録
西田税
栗原君が首相官邸に居ると云ふので栗原君に電話を掛け、
先づ私から
「 何うした 」
と云ひますと栗原君は
「 今官邸に居ますが元気である。岡田はやつたが自分の処は非常に苦心した 」
と云ふ様な話があり、
私は
「 雪も降って寒いし、皆食べ物は如何してゐるか、夫れが心配だ 」
と云ひますと栗原君は
「 食物は聯隊の方から持つて来て呉れるから心配はない。
一遍見に来ませんか。
そうすればちゃんと中に這入れる様にします。
溜池の方から来れば言ひ付けて置く 」
との事でした。
私は
「 僕は行き度くない 」
と話して電話を切ったと思ひます。
・・・リンク→西田税 2 「 僕は行き度くない 」
栗原中尉 -- 西田はつ
「 もしもし栗原です。どうでございますか 」
「 はあ 」
「 何んでございますか ・・・・ 」
「 うふふ。ちよっと、電話では はばかりますが・・・」
「 スガナミさん、来とるんですか。何処へ・・・・」
「 はあ、さっきお電話があったんですけどね 」
「 ふうん、それは僕が迎えに行ってもいいです 」
「 遠くへですか・・・・」
「 ええ 」
「 あ、もし ×××× 」
「 あちらへは・・・・」
「 もし連絡がありましたらね、首相官邸を目標に来て下さい 」
「 そうでございますか 」
「 ええ、そしてね、合言葉はね、尊皇斬奸 」
「 はア・・・・」
「 尊皇斬奸 」
「 ああ、そうでございますか 」
「 それでね、クリハラ中尉に面会といえば大丈夫です 」
「 ああ、そうですか 」
「 首相官邸に来られて 」
「 ああ、そうでございますか 」
「 すく案内しますから、お一人でいらっしゃいますか・・・・」
「 はあ、そうです 」
「 はあ 」
「 承知しました 」
「 はあ、御願します 」
---ガチャーン
「 日にちはどうもハッキリしませんが、『 菅波の妻何ですが 』 って女の方から お電話をいただきました。
私その時、『 菅波三郎さんですか 』 ってことをね、電話の盗聴ということも考えられますから、
三朗さんって言葉は出しませんで、ただ 『 御主人と御一緒にですか 』 ってことを私は申し上げたんです。
女の方が、『 はあ、そうですが 』 っておっしゃったもんですから、私は上京なすったとばかり思って、連絡しました。
そうしましたら、そうではなかったらしゅうございますね 」 ・・・西田はつ
「 家内です。上京した家内が東京駅から・・・・。私も上京したかったんですが、御存知のとおり憲兵に貼りつかれていてね 」 ・・・菅波三郎
« 安藤大尉の演説 »
・・・・昨夜来から幸楽前に押しかけた群衆は益々その数を増し、
夜になっても帰る様子がなく、安藤大尉の話を望む声が強まってきた。
そこで大尉が玄関前に姿を現すと 一斉に群衆が万歳を叫んだ。
まさに天地が亀裂せんばかりの響きである。
大尉は静かに話し始めた。
諸氏も知っているとおり、
さきの満州事変、上海事変等で死んだ兵士は気の毒だがみな犬死だった
これは軍閥や財閥の野望の犠牲であったからである
これらの悪者は一刻も早く倒さねばならない
その目的で我々は皆さんにかわって実施したまでである
今からお願いしたいことは、
我々の心を受けて大いに後押ししてもらいたい
以上おわり
大尉が姿を消すと
群衆はやっと承知したかのように万歳を叫び徐々に帰りはじめた。
・・・リンク→幸楽での演説 「 できるぞ! やらなきゃダメだ、モットやる 」
北一輝 -- 安藤大尉
電話は2月28日午後11時50分にかけられている
--
見ていただいたビデオでは、はっきり聞こえませんが、
料亭幸楽は赤坂の昔のホテルニュージャパンがあったところ、
そこの周囲を28,000人くらいの軍隊、8,000人ほどの警察官、
東京の消防団などが取り囲んでおり、
そういう中での電話です。
また、ゴーっという音も聞こえるのです。
後で分かったのですが、これは 戦車の音です。
よく聞こえないと安藤が言っているのはそんな中の電話ということ です。
「 もしもし 」
「 はい 」
「 どなたですか・・・・」
「 キタ 」
「 えッ・・・・」
「 キタ 」
---雑音---
「 はあ 」
---雑音---
「 えッ・・・・」
「 ××だいじょうぶですか・・・・」
「 はたが騒がしすぎて、聞こえないんですがね 」
「 ×××××× 」
「 えッ・・・・」
---雑音---
「 もしもし 」
「 ×××××× 」
「 ええ、ちょっとまわりがやかましすぎて、聞こえないんですがねがね 」
「×××× 」
「 ××をですか・・・・ 」
「 ええ 」
「 ××ほぼ順調に行っております 」
・・・・・・・
「 えッ・・・・」
「 ほぼ順調にやっております」
「 ×××× 」
「 えッ・・・・」
・・・・・・
「 ×××× 」
「 カネ、カネ 」
「 ×××ですか・・・・」
「 カネ、カネ 」
「 えッ・・・・」
「 マル、マル、カネはいらんかね・・・・」
「 なに・・・・」
「 カネ 」
「 カネですか・・・・」
「 ええ 」
「 ええ、まだだいじょうぶです 」
「 だいじょうぶ。あのね 」
「 ええ 」
「 心配ないね 」
「 ええ 」
「 じゃあ 」
---ガチャーン
北一輝、西田税の強引な裁判の有力な証拠にさせられたのが電話で ある。
北一輝の判決文を読んでも十数か所に電話による激励という ことが出てくる。
青年将校たちの処刑が発表された昭和11年7月 5日の新聞には、
戒厳令下ですから軍が書かせたものですが、電 話による激励という大見出しが出ている。
電話は徹底的にマークされた。
・・・
北を取り調べた憲兵は当時の東京憲兵隊の特高課長の福本亀次という男です。
この人は中野学校を作った男です。
彼が北を調べて彼の 尋問調書が残っている。
それによると、その方は2月27日午後、
安藤に金はあるか、給与はよいかと電話をかけたことはないか
とい う一問一答の調書が残っている。
何故2月27日が出てきたのだろ う、
2月27日ならばすべて辻褄は合う、北が逮捕される前ですから。
これは明らかにでっち上げの調書だと思った。
北はこれに対し て、そんな電話は勿論かけたことがないし、
金はあるかとか給与は どうかとか、そんなことは全く知りませんと述べている。
そういう 疑問点が出てきて非常に辻褄が合わない。
その電話は2月28日の 午後11時50分にかけられている。
北はその前に逮捕されている。
福本の調書では、2月27日午後に北が安藤に電話したことになっ ている。
憲兵隊としてはそれで辻褄は合う。
・・・
2月28日午後11時50分、
憲兵司令部から 北を騙 かたって安藤に電話してきた男は
ほぼ、100%とはいえないが、98% くらいは 金子憲兵 に間違いないと思っています。
北をいかにして罪に陥れるかいろんな謀略がなされた証拠だろうと思います。
北を裁 いた裁判官に聞いても、
精々叛乱幇助罪で禁固3年くらいというの が妥当といい、北の裁判は1年延びた。
5人の裁判官の意見が割れ、また、北を死刑にすることに裁判長が反対したからである。
・・・リンク→拵えられた憲兵調書
亀川哲也 -- 栗原中尉
--
亀川哲也は、
同月二十七日午前三時頃、
陸軍歩兵中佐満井佐吉より、電話により帝国ホテルに来訪を求められ直ちに同所に赴き、
同中佐により村中孝次に対し撤退勧告を依頼せられ、
間もなく同ホテルに来着したる村中孝次と会見し、蹶起部隊がこれ以上占拠を持続するときは
却つて不利なる結果を招くべしと説明し、その撤退を勧告したる際、
同人より蹶起部隊を戒厳部隊に編入し、原位置を警備する様取計われ度旨要望せらるるや、
満井中佐と共にその実現に努力する旨約束し、
次で同日午前八時頃、北輝次郎方に西田税を訪ねて、
帝国ホテルの会合、西園寺公に対する軍部内閣の進言 及び真崎大将訪問等、
二十六日以彼が活動の結果得たる諸情報を伝へたるが、( ・・・リンク→帝国ホテルの会合 )
同月二十八日に至り、俄然情勢の変化に伴ひ身辺の危険を察知するや、
各種の証拠湮手段を講じたる上、同日午後十時頃従来の親交をたどり 東京市芝区白金今里町十八番地
久原房之助方に潜入し爾来同人の庇護の下に同家に隠避しいたるが ・・・軍法会議判決文から
「もしもし栗原ですが 」
「 あのね 」
「 うん 」
「 もしかするとね 」
「 うん 」
「 今払暁ふつぎょう ね 」
「 うん 」
「 攻撃してくるかもしれませんよ 」
「 はあ 」
「 それでね、大活動おこそうと思ってね 」
「 はあ 」
「 連絡とろうと思ったけど、連絡とれなかったんだ 」
「 はあ 」
「 とにかく、内閣はね 」
「 はあ 」
「 いったい誰・・・・、真崎でなけゃ、どうしてもいかんのかい 」
「 とにかくね---略---もうあれですな、妥協の余地はないようですね 」
「 うん 」
「 向こうもとにんく奉勅命令で来るんでしょうから 」
「 うん 」
「 そういう状況でいか・・・・」
「 うん、そうだ 」
「 はあ 」
「 それでね 」
「 はあ 」
「 君のほうの希望はだな 」
「 はあ 」
「 いったい誰だい・・・・」
「 さあ×××× 」
「 総理大臣はマザキの他に誰かあるのかい・・・・」
「 今んところありませんね 」
「 ほう 」
「 はあ 」
「 それで、まだなんとかやるけどね 」
「 マザキを代えることができないくらいなら他の者もできないですよ 」
「 うん 」
「 はあ 」
「 例えばカワイとかね 」
「 は、は、は、」
「 ヤナガワとか 」
「 ヤナガワならいいですけどね 」
「 うん 」
「 あとは駄目 」
「 そいでね 」
「 はあ 」
「 実はその、それがわかったらだな 」
「 はあ 」
「 すぐサイオンジ公もね 」
「 はあ 」
「 トクガワもね 」
「 はあ 」
「 みんな活動をはじめてね 」
「 はあ、サイオンジも来てるんですか・・・・」
「 サイオンジのところへとんで行くことになったんだ 」
「 はあ 」
「 うん 」
「 間に合わんでしょうね 」
「 うん、間に合わないと思う 」
「 もし、そういうこと××××××徹底的でしょうから 」
「 うん 」
「×××××× 」
「 うん 」
「 ま、これでお別れですな 」
「 うん、それでね 」
「 はあ 」
「 何とか、まだやるけどね 」
「 はあ 」
「 うん 」
「 ま、お達者で 」
「 うん 」
「 これが最後でござい×× 」
「 うん 」
「 それでは、皆さんによろしく言って下さい 」
「 うんうん、じゃ 」
「 それでは 」
「 はい 」
---ガチャーン
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
二月二十八日の夕方でしたかしら、
私は栗原さんと最後のお別れを言ったのですよ。
首相官邸から電話がかかってきまして
「 いろいろ長い間お世話になりましたけれども、奥さん、これが最後です 」
と おっしゃってね。
それですぐに主人にそれを話しましたら、
もう一度電話をかけてみろと言いまして、
首相官邸に電話をしましたが、もう出ませんでした。
・・・西田はつ
徳川義親侯
二十八日夜、
( 栗原中尉から ) 決別の電話が来ました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・挿入・・・
『 栗原です。・・・・長い間お世話になり御迷惑をかけましたが、これでお訣れ致します。
・・・・おばさま、史子さんにもよろしく 』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼等の心情のあわれさに動こうとした人もございました。
同日、夜半過ぎ、徳川義親侯からの電話でした。
内容の重なところは
「 ---身分一際を捨てて強行参内をしようと思う。
決起将校の代表一名を同行したい。代表者もまた自決の覚悟をねがう。
至急私の所へよこされたい--- 」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・挿入・・・
『 徳川三百年、皇威を蔑らし奉つた、その罪の深きに関らず、わが徳川一族は、寵遇を辱くし、
国民の最高位にあるは、私の恐懼措かざる処、この際一行に代り、参内し、罪を閣下に謝さんと思ふ。
蹶起将校代表者一名を同行したし。素より私は、爵位勲等を奉還する。
代表者も亦豫め自決の覚悟を願ふ。至急右代表者を私の許によこされたし・・・』 ・・・徳川義親侯爵
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しばらくの後、栗原に話が通じ、さらに協議ののちに来た答を、父が電話の前でくり返すのを聞きました。
あるいは父の書いたものよりは、彼の口調に近いかも知れません。
「 状勢は刻々に非です。お心は一同涙の出るほど有難く思いますが、
もはや事茲に至っては、如何とも出来ないと思います。
これ以上は多くの方に御迷惑をかけたくないので、
おじさんから、よろしく御ことわりをして下さい。御厚意を感謝します 」
電話については、これよりだいぶん前に、彼の方から、
「 盗聴されているかも知れません---」
と 連絡されて居り、
わたくしたちは、何処がそれをしているのか、警視庁ででもあるのか
・・と 思っていましたが、
交信を傍受し、
しかも 録音を取っていたのは戒厳司令部であったと知ったのは、
昭和五十四年二月二十六日放送の NHKの番組によってでございました。
・・・リンク→ 齋藤史の二・二六事件 2 「 二・二六事件 」
濁流だ濁流だと叫び 流れゆく末は
泥土か夜明けか知らぬ ・・齋藤史
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
令和四年 ( 2022年 ) の而今、
NHK 『 戒厳指令 交信ヲ傍受セヨ 二 ・二六事件秘録 』
は YouTube で視ることができる。
昭和11年 ( 1936年 ) 、事件から43年、
昭和54年 ( 1979年 ) から、更に43年経った令和四年 ( 2022年 )
事件から86年経つ。
「 70年も、80年も経たねば分って貰えないだろう 」
との、安藤大尉の想いは虚し。
二月二十六日北方ノ電話ニ故障ガ起キタ時、不思議ニ思ハナカツタカ
先方ヨリ掛ケテ來ルノハ話ガ出來テ、私ノ方ヨリ掛ケルノガ先方ニ通ジナイノデ、
不思議ダトハ思ヒマシタガ、
豈然盗マレテ居ルト迄ハ考ヘマセヌデシタ。
・・・西田税、第三回公判