奈良に着いたときは、日が暮れていた。
松浦邁少尉は週番勤務中であった。 ( マツウラツグル )
士官学校を八月に卒業して、二カ月間の見習士官を経て十月に任官した、
ホヤホヤの新品少尉である松浦は、予想以上に元気であった。
『 五・一五事件 』 で おきざりにされて、精神的苦痛に悩んだ、候補生時代の暗い影は、
すでに消えていた。
私は和歌山で大岸大尉に会ったこと、大阪で中村義明と三人で田崎仁義博士を訪問したことなど、
こまごまと話した。
「 大岸さんは、中村義明は転向者と、ただひとこといっただけだったが、
貴様、中村という男を知っているのか 」
「 よく知っています 」
松浦が話をしてくれたのは、次のようであった。
中村はかつて浜松楽器の労働者争議を指導した若き共産党の闘士として、
活躍した経験の持主である。
三・一五事件 ( 昭和三年三月十五日、新生共産党の全国いっせい大検挙 ) のとき
検挙されて入獄し、獄中で渥美勝の 『 桃太郎主義 』 や 遠藤友四郎の 『 天皇信仰 』 などによって、
百八十度の転向をして出獄した。
そのころ、立憲養正会の里見岸雄は、盛んに天皇の科学的研究を唱道していた。
その講演会が、大阪で開かれた。
松浦は、たまたま先輩の鶴見重文中尉 ( 陸士四十期、後平井と改姓 ) と共に聴講した。
里見岸雄の講演内容に対して、堂々批判の一矢いっしをむくいたものがいた。
天皇を科学的に分析する態度に同調し得ない、という中村義明であった。
その中村の批判に全く同感の意を表したのが田崎仁義博士であった。
そのことがきっかけとなって田崎と中村との親交がはじまり、
当然のようにこれを通じて松浦と中村、田崎との交流がはじまった。
それがやがて大岸、中村のコンビに発展するのであるが、
私が大岸を訪ねた、その一日前に中村の反吐事件を誘発し、その交流が強化されたというわけだ。
「 そうですか。 義明が反吐を吐きましたか、よかったですね 」
松浦は愉快そうに笑った。
「 週番中の宿題みたいな気持ちで、ちょっと書いてみたんですが、読んで見てくれませんか、
つまらないものですが・・・」
松浦は、部厚い原稿を出した。
私は、その原稿を四つ折りにして、上衣の内ポケットにしまい込んだ。
本人のいうように、どうせ、つまらないものと思いながら・・・・。
松浦少尉と別れて、東京行きの汽車に乗ったのは、夜もだいぶ更けてからであった。
旅の疲れが一度に出て、私は、いつの間にか寝てしまった。
沼津で眼が覚めた。
いままで忘れていた松浦の原稿を、フト思い出した。
私は睡眠不足の重い頭で読んでみた。
『 現下青年将校の往くべき道 』 の 表題で書きつづられている文章を一枚、二枚と読んでいくうちに、
私の眠気は一ぺんにふっ飛んだ。言々句々、まさに珠玉の文章であった。
一気に読み終わった。二度、三度倦うむことなく読み返した。
これが、新品少尉のものした文章であろうか、と 疑ったほどの大文章であった。
東京でも、絶賛を惜しまなかった。
このままに埋もれさすのは惜しいというので、印刷に付すことにした。
香田中尉の斡旋で、まず 五百部が刷られた。
全国の各聯隊はもちろん、朝鮮、満洲の守備隊に至るまで配付した影響は大きかった。
この 『 現下青年将校の往くべき道 』 が、啓蒙の上に大きな役割を果たしたことは、
いうまでもない。 ・・・大蔵栄一 著 二・二六事件への挽歌 「 松浦少尉、警世の大一文 」 から
松浦邁 (つぐる)
目次
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『 現下靑年将校の往くべき道 』
松浦邁 ・ 異聞
松浦中尉はそのころ鶴見中尉と同じ奈良の三十八聯隊にいて、
いわば和歌山勢といったところだった。
彼は前に述べたように、
『 日本改造方案大綱 』をめぐっての東京と和歌山の確執を解くべく一役買って上京したこともある。
もともと彼は五 ・一五事件の士官候補生とは士官学校時代からの同志だが、
なにかのはずみで、この事件に参加しなかった。
それを彼は討入りにはぐれた赤穂浪士のように負い目に感じていた。
少佐になってからも、折にふれてそういった心境を私にもらしていた。
しかし彼が見習士官時代に聯隊長からの課題作業として綴った 『 青年将校の行くべき道 』 の一文は、すぐれた作品だった。
私たちは満洲事変中、満洲でそれの印刷したものを受取ったが、
凱旋の途次 新京で会った菅波大尉も、これを激賞して
「 誰が書いたのだろう、大岸さんではないかと思っているがね 」 と いっていた。
彼はしかし 二・二六事件にも連累しなかった。
終戦のころは戦地で得た病気がもとで現役を退き東京にいたが、
いよいよ日本の敗戦が決定的となったとき、
「 僕は 五 ・一五でも二・二六でも なにもしなかった。 こんどこそ僕の番です 」
と いって、倒れんとする大厦を支える一木たらんとして、
懸命の奔走をつづけたのだった。 ・・・末松太平著 私の昭和史 から