はっさくママレードを作る

2009-02-13 00:00:51 | あじ
田舎の方から、小山のような「八朔」が届いた。大豊作だったそうで、それでも一本の木の何分の一かである。ちょっと困った。



それで、大量消費の手段として、ママレードを作ることにする。といっても、作ったことがないので、とりあえず『少量の試作品』を作り、試行錯誤的に改良を加え、その後、本格的製品をつくることする。

実際、今、これを書いている数日前に『試作品』は完成(?)しているので、反省や改良点などを加えながら、レシピを書いていきたい。


まず、インターネットで、何種類かのレシピを調べてみるが、困ったことに、『超簡単』か『超複雑』か、どちらかである。真実は、その中間にあるわけだ。『超簡単』派は、素材を切り刻んで鍋で煮込んで、たいてい失敗して口が曲がるほど苦い製品を作る。「まあ、シロウトはこんなものですね」という結論になる。それなら、最初からやめた方がいい。

一方、『超複雑』路線は、あれこれ素材ごとの重量をはかって、つねに同じ味を追求する。グラニュー糖を大量に投入するのだが、ずいぶん高くつく。完成品を瓶詰めした後、殺菌のため、瓶ごと蒸したりする。やり過ぎだ。

結局、『超複雑』レシピをいくつか読み、『共通のポイント』を守りながら『手抜き工作』をすることにする。ただし、初めて作るので、悩むことも多い。完成品から逆算することができないからだ。では、さっそくダンボールから八朔を取り出すことにする。

1.八朔の選び方
 まず、外皮のきれいなものがいい。外皮を食べるのだから、傷んでいる部分を削るから。次に大きさだが、大き過ぎると面倒である。あとで細く切る段階で、皮が大きいと湾曲率が大きく、きれいに厚さをそろえにくいから。また非常に小さい玉の場合も内側の白い皮が少なく、後で困ることになる。まあ、普通サイズかやや小さい玉がいい。

 そして、外皮を洗う。農薬をかけてなくても屋外の空気は汚い。事実、手でゴシゴシとこすると、表面がヌメヌメしている(内側からの糖分?)。本当は、この一番外側が一番苦いので、スポンジとかで軽くこするのも一策である(苦味がまったくないと、まずいが)。

 『試作』ということで、4つの八朔だけでつくることにしたのだが、これが意外に『大問題』だった。ママレードは、原料に対して、意外に大量に製品ができる。自信のない人は、2個にした方がいいかもしれない。



2.外皮の下準備
 まず、四つ切りにして、外側と果実の部分を分離する。おおざっぱにやった方がいい。内側は白い皮(便宜上、内皮と呼ぶ)に包まれている。次に外側をさらに二分割(つまり八つ切り)にしてから、ナイフ(包丁の方が使いやすい)で外皮の厚さを整える。この時に最初に爪で果実をはずす時に、白皮を外皮に残さないように器用に薄むきした人は後悔する。ナイフが使いにくい。(白皮は捨てないこと。捨てていいのは、緑のへただけだ。)

 次に、外皮の傷を削り落し、幅2~3ミリ程度に千切りして、ボールに張った水につける(細切りした方が苦味が抜けやすい)。

 ここで、本格派の場合は、一晩、水にさらすことになる。きょうの作業はすべて終了である。苦味を抜くためだ。

 といっても、そんな暇じゃない。本格派は、「一晩の水漬け」「2回の茹でこぼし」という作業なのだが、そこをアレンジして、「2回の揉みしごき」と「3回の茹でこぼし」という方法に変える。この作業には、鍋を二つ使ったほうが効率がいい。一つ目の鍋で茹でた後、沸騰した二つ目の鍋に入れ、最初の鍋で湯を沸かして、三度目の茹でこぼしに使う。鍋の素材は銅かほうろうかステンレス。アルミはダメ。



3.果実の分離とペクチン液抽出準備
 次に(というか手があいたら同時進行で)、果実を薄皮から分離する。結構時間がかかる。協力者がいると、時間短縮ができる作業だが、協力者は、すかざずつまみ食いを始めるはずだ。ここでは意外にぺティナイフの出番がある。別のボールに果実を入れておく。

 薄皮は果実を分離したあと、一絞りして、若干の果汁を作るのだが、八朔は実離れがいいので、絞ってもジュースが取れない。果実の一部をつぶしておく。最後に使う。

 次に、薄皮に果実が残らないように流水で洗う。ペクチンの原料であるが、困ったことに果実と薄皮は、調理上、仲が悪い。果実の酸味がペクチン液の大敵だからだ。種もペクチンを多く出すので別にする。

 この段階で、『茹でた千切り外皮』『白皮の山』『薄皮の山』『果実のむき身』『種』『果汁』の6種類になる。



4.ペクチン液の製作
 ペクチン液は貴重である。入れ過ぎると苦くなるとも言うが、八朔の場合、ペクチン液がやや少ないように思える。『白皮』と『薄皮』と『種』が原料。二回茹でこぼしたが、一回でいいと思う。茹でこぼしたあと、鍋にひたひたに張った水で煮ることになるが、水は、それより少し多いほうがいい。最後に水分不足になるとまずいから。

 最初に強火で煮て、沸騰したら弱火で煮込む。30分ほどして、ずるずるになるまでじっと我慢する。そうしたら、ざるで液を漉し、もう一回沸騰させる。これでペクチン液が完成する。残ったものは燃えるゴミである。あやまってペクチン液を捨てて、ゴミだけを手元に残した人は、気の利いたスーパーにペクチンを買いにいくしかないが、それの方がうまくいったりするかもしれない(満足度は激減する)。



5.すべて投入、最終段階
 ここから最終段階である。外皮と果実とペクチン液と若干の果汁が残っていれば正解。すべての総量に対して、25%~35%の砂糖を用意する。実際は40~50%と書いてある例が多いが、生活習慣病に直行だ。グラニュー糖は高いから、ヨーグルトのおまけとか普通の上白糖でいい。最初は強火で、以下、弱火。

 そして、砂糖以外のすべてを鍋で煮込むのだが、しばらくして不安に襲われる。

 きんぴらごぼうみたいな状態になるからだ。きんぴらママレード?。粘り気なし。



 ところが、用意した砂糖の1/3を投入すると、事態は急変。数秒後に、どこかの原発みたいに、一気にメルトダウンする。ほっ・・

 10分後に砂糖1/3、さらに10分後に残りの砂糖を加えるのだが、このあたりで味見すると、猛烈に甘いので、ひるんでしまうのだが、それはフェイクなのだ。あまり気にしないこと。まだ、砂糖が外皮にしみこんでいないからだ。しょうがないわけ。

 そして、最後に果汁を加え、3秒経ったら、火を止める。八朔4個で約1キロのママレードができる。ここまで3時間かかったが、慣れれば2時間強でできるかな。



6.完成後の注意
 もっとも重要なことは、すぐに口にして、「まずい、にがい、あまい」とか言って、捨てないこと。

 室温まで冷めたら、ビンかタッパにつめて、2日間、冷蔵庫で冷やす。甘みや苦みが全体に溶け合う期間が必要。つまり、金曜日にこれを読んで、土曜日に八朔を買ってきて、夜中に作業しても月曜の夕食になってしまう。夜に甘いものを食べると体に悪いから、火曜日の朝食で、パンに塗って食べるのが常道だが、お勧めは「ヨーグルトにトッピング」である。ママレードは発がんを抑えるという説があるし、ヨーグルトのビフィジス菌は、ピロリ菌を退治する。



7.注意事項
 調理上、特にあぶないところはないが、外皮は硬くてツルツルしているので、切る時に注意すること。右手の小指を切り落してしまった、とかのクレームは、お断り。何度も茹でこぼすので、とってのついた鍋が、とっても便利。

 その他、苦くて顔が曲がったままになってしまったとか、あまりの旨さにやみつきになって、将来、糖尿病になったとか、すべてノークレーム。



ところで、ママレードばかり食べるわけにはいかないので、八朔サワーとか飲んでいるのだが、出張先で車で移動中、同乗の人に、「いい匂いしてますね。体臭?」と、言われてしまった。

甘く、かつ苦いといえば、ハードボイルド系だ。フィリップ・マーロウ。くれぐれも、私立探偵ごっこはしないこと。

監視された少年?

2009-02-12 00:00:39 | 市民A
西日本のある駅で、寒風の吹くプラット・フォームにいた。それも夜の10時頃。まったく情けない展開だ。



立っていると吹き飛ばされそうなので、マフラーを巻きなおし、コートの裾ができるだけ風でまくれないように気をつけ、駅のベンチに座ろうとすると、驚くことにベンチに手製の座布団が敷かれている。

さらに、文字が書かれている。




きみのこと いつもどこかで みているよ!! 少年を守る母の会

椅子に座っていいのか、迷ってしまう。

なにしろ、私は(みかけ上)少年ではないし、母もいない。しかも、『少年を守る母の会』が、少年にこの言葉を伝えようにも、座布団にオジサンが座っていたら、メッセージは読めないじゃないか。だいたい、どういう母親たちが作ったのかはわからないが、自分のこどもの顔を思い浮かべながら夜なべして縫ったのに、見知らぬオジサンが座っちゃ、悪いかなって・・

と言っても、寒い2月のホームのベンチに、座布団は魅力的だ。少年が近づいたら、席を替わることにして失敬。

なんだか、大日本少年兵の母の会みたいな感じだ。


が、少し考えると、「こどもの生命を心配して、無事に家に帰還すること」を祈っているのではないだろう、と思えてきた。

おそらく、親の目の届かないところで、大中小の犯罪行為に加担したり首謀したりしないように、ということだろう。

「監視カメラ」機能。

この駅のある町に、不良少年がタムロすることが多いのだろう。

新宿歌舞伎町の裏手にある短時間型ホテルに、南米系の女性と一緒に行こうとすると、電柱に張り紙があるようなものだ。

「おとうさん、家にエイズを持ち込まないで!!」


やがて、体が芯まで冷えた頃、快速電車が到着、あっという間に深夜の高松駅に滑り込んだのだが、「どこかで見られている」ようなので、おとなしくビジネスホテルのベッドに直行。



そして、夢の中で少年兵になり、高知県桂浜海岸から上陸したアメリカ兵が、本州までこないように、瀬戸大橋の破壊に成功するが、他にも2本も橋があることに気付き、本四架橋プロジェクトの軍事的戦略ミスの愚かさを嘆いたのだった。

元永定正 まがり道いろいろ

2009-02-11 00:00:16 | 美術館・博物館・工芸品
元永定正展(~2月22日)が、新宿の損保ジャパン東郷青児美術館で開かれている。副題「いろ いきてる!」



元永定正氏は1922年、三重県上野市(現伊賀市)の生まれ。当初は漫画家を志していたが洋画に転向、1955年に前衛美術グループ「具体美術協会」に参加、戦後の日本美術界におけるアヴァンギャルドの旗手として活躍し、鮮やかな色彩と流動的なスタイルを確立。その後も独自の抽象絵画芸術を展開、既成概念にとらわれることなく多彩な技法・表現方法を取り入れた自由で斬新な作品を発表し続け、日本の現代美術を代表する作家として現在も第一線で活躍中。今回は、約60点を展示し、元永定正氏の画業を紹介。

ということになっているが、まず、ご年齢が86歳という計算になる。大高齢である。どうも、美術の世界には、ピカソ、シャガール、葛飾北斎など高齢画家というジャンルがある。グランマ・モーゼスなんかは75才で画家になって101歳まで活躍した。一方、モジリアーニとかゴッホのように短命画家もいる。佐伯祐三も短い。絵画というのは、描けば描くだけ発展していく分野かもしれない。ただ、モジリアーニがもっと生きていれば、もっと分野を広げただろうとは思うが、ゴッホや佐伯祐三のような完成型の画家がどうなるのか、よくわからない。



そして、元永定正氏の現在に至る人生は、さまざまな苦難に満ちた道があったようだ。

まず、彼は伊賀上野という微妙な土地で生まれる。古くは、城造りの名人から家康の懐刀に転進した藤堂高虎の城下町だ。また伊賀忍者の根拠地。さらに、日本文学に燦然と輝く文学者である松尾芭蕉のふるさとである。ようするに、歴史を持ち、文化程度の高い町だ。尋常小学校から商業学校へ進んだ彼は、国鉄に勤めながらも漫画家になることを目指していた。

が、時は日本が戦争に向かっていたころ。年齢的には徴兵年齢の彼は、軍隊にいくのではなく、国鉄退社後、軍需工場に勤務先を変える。この時、戦場に取られて死んでいれば、画家どころか漫画家を志しただけの男一名、ここに眠る、ということになったはずだ。

そして、戦争は終わり、新たに見つけた職場が地元の郵便局。偶然にも、郵便局長が画家だった。ここから彼の画家人生が始まる。そして、絵の具を垂らして描くという独特の作風を身につけ、その頃、世界中に拡がっていたアヴァンギャルド運動に参加。この間、郵便局をやめ、定職を転々と変えていて、新聞拡張員なども行っていたようだ。




そして、渡米。ニューヨークでの生活が始まるのだが、大問題が発生。

流れる絵の具が手に入らない。


具体的にはよくわからないが、流れる絵の具というのは、「水彩画用の絵の具」だったのではないだろうか。チューブからネチョネチョと絞り出して、油で溶かして使う「油絵の具」はどうやっても、ダラっとは流れない。あるいは、借りたアパートの大家に絵の具垂れ流しを禁止されたのだろうか。結果、新しい技法を開発する必要に迫られる。メジャーに行ったら、打撃フォームを変え、セコくヒットを狙う選手みたいだ。そこでグラフィックデザイン系の技法をつかう(スプレーとかブラシとかの道具やグラジュエーション技法とか)。




そして、帰国後は様々な技法をミックスさせ、抽象と具象の間で自由に造形を行う。流れる色彩もあれば微妙なグラジュエーションもある。絵本の世界ではとっくに大家である。


絵でも描いてみようかな。

不況にミソでカツ

2009-02-10 00:00:53 | あじ
不況の時こそ、新しいチャンスが生まれるのだが、今、「味噌」がブームになっている。味噌といっても、名古屋特産の八丁味噌である。普通の味噌と異なるのは、原料が、大豆と食塩と水だけであること。蒸した大豆を味噌玉にし、それを豆麹にして水と食塩で仕込み、そして二夏二冬以上天然醸造させる。永く仕込み置くため、色も濃く固くなる。普通の味噌は、白味噌で1~3ヶ月、赤味噌で3~6ヶ月程度の醸造期間と言われるのに対し、遥かに長期間である。

これは、原料の仕入れから製品の販売までの期間、つまり資金滞留期間が長いことを意味し、自己資本比率とか手元現金とかが厚くなければとても作れないわけである。「名古屋経済学」については詳しくないのだが、ある意味このあたりが、「名古屋のミソ味」が全国化しなかった理由のひとつだろうか。

ところが、名古屋企業が外に出てこないのを逆手にとって、東京方面で妙な味噌カツが繁殖を始めた。

味噌カツというのは、おおざっぱに言うと、トンカツに普通のトンカツソースではなく、味噌カツソースをかけたもので、名古屋でトンカツを頼むと、ソースが二種類あったり、味噌カツソースの場合、50円とか100円とか余計に取られる場合がある。ただし、関東人が一緒だと、名古屋人は味噌カツを頼むことはないようだ。

ところが、関東の新製品は、トンカツ+味噌ソースだけでなく、さらに飯が一緒になって丼仕立てになった。せっかちな江戸っ子は、おかずと飯と別に食べる時間がもったいないと、丼文化を作ったのだが、これに味噌が加わった。

まず、東京中心にチェーンを展開する「小諸そば」。

ミニ味噌ヒレカツ丼セット。飯の上にキャベツの千切り。そしてヒレカツをのせて味噌ソースをかける。つまり、最近ブームになっているソースカツどんのソースをトンカツソースから味噌ソースに換えたメニューである。

味は予想の範囲内である。かなり「近い」味と思うが、ヒレカツにかけられたソースの量が少ないような気がする。本物の八丁味噌なのだろうか。仕込から完成まで2年もかかるので、そんなことはないだろうとは思うが、ある程度、熟成期間をかけているように思った。セットに蕎麦がついている。


次に、全国展開で急成長中のとんかつチェーン「かつや」。

こちらは、冬季限定で、「味噌カツ丼」。普通の溶き卵ベースのカツ丼。

これが、驚きのメニューだった。

溶き卵に味噌が含まれている。というか、辛口の味噌の味そのもの。しかもツユダクでご飯にかかっているため、丼の中は、ぐじゃぐじゃである。ご飯に味噌汁をかけて、猫に食わせる「ネコマンマ」状である。見苦しいが旨い。

クセになりそうな味である。おそらく、10回位たべて、突然嫌いになるのだろうか。とりあえず、もう一回は食べるだろう。


ところで、名古屋と言えば、都内で妙なポスターを見かけた。



名古屋開府400年祭」

意味不明である。

どうも、名古屋城が完成して2010年が400年目らしい。普通は、築城400年記念というようだが、清洲城を移転し、清洲の住民ごと、この地に連れてきたそうだ。

早々とホームページができていて、これが面白い。名古屋以外の人が見ることを予感していないような油断した作りである。その中の「みんなで作る、なごや自慢400」という自己満足的な投票コーナーがあって、その中に「全国のなごや」というコーナーがある。ある程度まとまったら、ランキングが公開されるようだ。

今後、ちょっと楽しみなホームページである。

世界天文年

2009-02-09 00:00:20 | 市民A
d8dcc422.jpg少し前に、テント村があった日比谷公園には日比谷公会堂の他にも日比谷図書館がある。先日、「世界天文年2009」の特集が行われていた。

なぜ2009年が天文年かというと、400年前に、イタリアの科学者兼数学者であるガリレオ・ガリレイが望遠鏡で宇宙を観察したからである。


こどもの頃に読んだ本では、ガリレオは当時のカソリックの教えである天動説に反対し、地動説を唱え、宗教裁判で有罪になり、「それでも地球は回っている」と言ったことになっている。

さらに、ピサの斜塔から、同じ大きさの木のボールと鉄のボールを落として、落下スピードが同じことを示す。

また、木星の衛星4個を発見。土星の輪も発見。

実は、それらが順不同で、順番というか因果関係というかよくわかっていない。


さらに、地動説をガリレオ以前に唱えたコペルニクスは死刑になった?ような気がするが、ガリレオはコペルニクスの弟子だったのだろうか。(プラトンとアリストテレスみたいに)


しかも、そういう大袈裟な話ではなく、もっとつまらない謎を感じていた。名前である。ガリレオ・ガリレイって普通あり得ない名前ではないだろうか。姓と名がほぼ同じだ。ジョンソン&ジョンソンみたいだ。さらに、普通はガリレイではなくガリレオと呼ばれるが、それは苗字ではなく名前ではないだろうか。


その上、新たな疑問があった。

d8dcc422.jpg何年か前のミニブームの時に、あるおもちゃを入手。

ガリレオ温度計である。

なぜ、これがガリレオ温度計と呼ばれるのだろうか。ガリレオの発明??

これらをちょっと整理してみようと思ったわけだ。

1.まず、コペルニクス。
  まず、死刑になっていない。そうならないように、自著の発表が自分の死後になるように画策。1473年生まれで1543年に70歳で没。北条早雲あたりと同年代。実際に死刑になったのは、少し後の時代のジョルダーノ・ブルーノ。1600年にローマ教会が火炙りにする。同じ頃、日本では石田三成が国家反逆罪で死刑になり、また、キリスト教徒が火炙りにされていた。ガリレオは1564年生まれで1642年に没。シェークスピアと同じ年の生まれである(1564年をヒトゴロシと覚えるはず)。

2.次に、天体観測。
  ガリレオが天体を観察してから400年のカウントが始まるのが1609年だが、実際には、ガリレオはこの年、オランダ人が発明した望遠鏡を入手し、自分で改造して天体を観ることにした。ガリレオが発明したものではない。そういえば、日本にも同じころオランダ人が望遠鏡を持ち込んでいた。当時は主に航海用だったはずだ。だから、北極星とか恒星を見ていた。ガリレオは惑星である金星、火星、木星、土星、及び太陽、月を見ていた。イギリス人はレースのカーテンの後ろから隣の家を覗いていた。

主に、木星の衛星と太陽の黒点の観察から、地動説を割り出したようだ。天体が、地球と太陽と月だけなら天動説も説明が簡単だが、第三、第四、第五の天体が絡むと、地動説の方が合理的なのだろう。

3.ピサの斜塔の実験。
  これはウソらしい。同様の実験は行っているが、彼がピサの大学へ入学し、教授になっていたことからの伝説なのだろう。ニュートンのリンゴや、分野は違うがウイリアム・テルのリンゴ話と同じだ。ちなみに、ガリレオは17歳でピサ大学医学部に入学。教授になったのは25歳である。

  ピサの斜塔は、倒れかかっているけれど、塔のベランダに手すりがないのが有名である。前々から、手すりのないベランダに鉄のボールを持って立つのは危険だなあと思っていた。

4.次にガリレオ裁判
  2回行われている。一回目が1616年。シェークピアが亡くなった年。その時は、「地動説」という説があることを紹介するならいいが、地動説そのものを唱えることは禁止されている。サッカーのイエローカードみたいなもの。

  二回目が1633年。あれだけ注意したのにとローマ教会が怒る。大相撲の大麻力士のような話だ。地動説を言いふらしているとして、終身刑が言い渡されるが、即時、軟禁処分となる。しかし、なぜか同年中に軟禁もなしくずしになり、フィレンチェ以外ならどこに行ってもよくなる。33年前にはジョルダーノ・ブルーノが火炙りになっているのだから、ずいぶん形式的になっている。ここのところの事情はよくわからない。

5.ガリレオ温度計
  これは、望遠鏡と同じで、自分が発明したのではなく、そういう温度計があるということを、見つけ出したようだ。つまりガリレオの発見した温度計。温度に対する密度変化が大きい液体がミソだそうだ。素人は、浮かんだうきの方に目が行ってしまう。

6.名前の秘密。
  どうしてもわからなかったのが、ガリレオ・ガリレイを苗字ではなく、名前の方でガリレオと呼ぶこと。また、名前が苗字に似すぎている。鈴木鈴子みたいな名前である。

コペルニクスはニコラウス・コペルニクスで。こちらもニコラスではじまり、ニクスで終わる。

では、また。

フォトシティさがみはら

2009-02-08 00:00:47 | 美術館・博物館・工芸品
さがみはら写真賞(さがみはらしゃしんしょう)は、相模原市総合写真祭フォトシティさがみはら実行委員会が主催する写真賞。



正式名称は、相模原市総合写真祭「フォトシティさがみはら」さがみはら写真賞。2001年から毎年開催されている「フォトシティさがみはら」で選考され、既発表の写真集や写真展を対象とした「プロの部」と一般公募の「アマの部」がある。

新宿のニコンサロンで、プロの部の入賞作品が公開されている(~2月16日)。

<さがみはら写真賞>には、中野正貴 『MY LOST AMERICA』(連作)が選ばれる。1950年代生まれの中野氏にとって、海外の文化といえば、アメリカだった。1980年代からアメリカの都市の表情を撮り続けてきた連作で、崩壊前のWTCも被写体になっている。個人的には、登場するモデルの顔つきや目つきは、アメリカ人そのものの「不安と虚栄」の混じり合った怖さがあり、ちょっと嫌だなあと感じるところもあるが、そういうアメリカ人の素顔を写した、と考えるべきなのだろうか。

<さがみはら写真新人奨励賞>の一人目は、元木みゆき『息の結び目』。ちょっと変わった構図が多い。人間と自然との折り合いみたいな題材が多いようだ。「生と死」。「生」は生活で「死」は自然。

二人目の<さがみはら写真新人奨励賞>は、朝海陽子『Sight』。室内で映画(DVD?)を見る人たちを被写体にしている。一人暮らしの男女、家族、・・。映画を見る人を写した連作であるが、残念ながら、私の言葉では、説明は不可能である。

<さがみはら写真アジア賞>は、Lans Brahmantyo 『Soul Odyssey』。すごく雰囲気がある。モノクロで、深い陰影をつけるのが特徴で、アジアの荒野、宗教、貧困。こんなものがテーマになっているようだ。格調を落とさないのがいい。


ところで、このニコンサロン新宿だが、新宿エルタワー28階なのだが、少し下の階が新宿職安である。エレベーターに一緒に乗っていても、ちょっと雰囲気が違うのを感じてしまう。アメリカ人のような目つきの人が多い。


さて、話はまったく変わるが、相模原市は市町村合併の結果、政令指定都市になる。とはいっても、都会もあれば、思いきり自然たっぷりの場所もある。例えば、広大な河原。休日は、遠方からバーベキュー客が集まる。

しかし、平日には、まったく考えられない未組織グループが遊んでいるそうだ。おもに高齢者と聞くが、集まってきて、河原で釣りをするだけではなく、マージャンや将棋で遊んでいるようだ。縁台将棋ならぬ河原将棋。ほぼ、毎日顔を出す人がいる、という話で、それは知人の父親だそうだ。困ったことに80歳を過ぎて、毎日、軽自動車で往復2時間運転しているそうだ。ドライブと河原遊びが趣味ということだ。

知人に言わせると、「趣味」は重要だが、「ドライブ」は危険だということだそうだ。運転も歳とともに荒っぽくなり、時々、ぶつけたり、ペダルを踏み間違えたり、逆走したりするそうだ。先日は、運転しながら、自分がどこにいるのかわからなくなる運転徘徊をしてしまったそうだ。

父親の免許を取り上げる方法に悩んでいるようだ。

75歳以上の高齢者マークだけではなく、家族の同意書も必要ではないだろうか。そうなれば、更新の時に、家族がハンコを押さなければ免許は失効することになる。

当面は、最後の女流棋士?

2009-02-07 00:00:10 | しょうぎ
毎日新聞より。

将棋:渡辺弥生さん、初の東大卒女流プロ棋士に

東大卒で将棋の女流プロ棋士を目指していた、渡辺弥生(みお)さん(29)が、4月1日付でプロデビューすることになった。渡辺さんは2月1日、08年度後期女流育成会で3連勝。今期対戦成績を14勝1敗として、女流2級(女流棋士のスタート点)への昇級を決めた。渡辺さんは東大経済学部卒業。所司和晴7段門下で、06年に女流育成会に入会。日本将棋連盟によると、東大卒の女流棋士は初めて。(毎日新聞 2009年2月3日11時16分)


3035a31c.jpgまず、「弥生」は「やよい」ではなく「みお」と読むので、記念詰将棋で曲詰を考えている人は注意が必要である。少し、考えてみたが、「ミ」の形の詰め上がりが思いつかなかった。「M・I・O」ならできるかもしれないが、後で、「本当は、『みお』ではなく『みう』です」とかなると困るので、着手しないと思う。

そして、記念詰将棋と言えば、発表されるのは「祝賀パーティの席」というのが一般的。どうも、あまり大がかりではないものの、同門の渡辺竜王の永世竜王称号の権利獲得記念も兼ね、ダブル・ワタナベ祝賀会&記念将棋大会が準備中という情報が流れている。問題は「永世竜王」の名称使用の方で、スポンサー企業の了解が必要らしく、使用できない場合は「順位戦B級1組残留記念大会」になってしまうかもしれない。

個人的には、単なる記念パーティの場合は、東京大学将棋部同窓会になってしまうのではないかと想像できるので、気が重い(鉛のように重い)のだが、どうなるのだろうか。「東京大学」にも「大学将棋部」にも縁がなかったので、よくわからない世界だ。男子の場合、プロになるわけでもないのに、わざわざ大学で学業に関係ない将棋部などで時間を費やす人の気持ちは、理解できないが、渡辺弥生さんの場合、東大在籍中は、それほど目立った強豪ではなかったらしい。

卒業後、アマ強豪たち(中には変な人物もいたらしい)などと対局や研究を重ねていたようだ。わざわざ東大を出て、職業としてはかなり社会の辺境的な(しかも収入の不安定な)「女流棋士」を目指した動機も、本当はよくわからないが、それは、男性棋士の場合でも同じかな。奨励会より年齢制限がゆるい(35歳まで)育成会のルールが、彼女をプロ棋士への道に導いた一因ではあるだろう。

そして、彼女が卒業した女流育成会だが、今シーズンでの解散が決まっている。つまり、彼女は滑り込みである。育成会のリーグ戦は、まだ対局を残しているが、既に昇級者が決まり、来シーズンがない、となると文字通り「消化試合」になってしまう。

さらに問題は、「来シーズンがない」ということが、リーグ戦が行われているさなかに明らかになったこと。普通では考えられない人権無視。そして、残った育成会員は、奨励会の下部組織とも言えない研修会に組み込まれることになっているらしいが、ではそこから先、プロのトーナメントに出場できるまで、どういうルールになるのかは、明確ではない。

というのも、将棋連盟所属の女流棋士は全員、連盟とは別の新団体に移籍することが、内部決定されているようで、その後、女流プロになる手順などは、勝手にそちらで決めてくれ、ということのようにみえる。(既にLPSAという別団体もあるわけで、そちらでも有望アマチュアの囲い込みを続けているわけで、混迷にはまっていくものと思える。)

これらをみていると、将棋連盟は、公益法人問題という中期的課題とは別に、直面する短期的な財政危機も抱えているのではないか、と想像されるのである。

しかし、現在の社会的問題や経済的危機、そして将棋関係者たちのそれぞれ見えない思惑が絡み合っているわけで、一部の有名棋士以外の近未来の身分は、男女を問わず、結局、すべてどうなるのかわからない、ということだろうか。

さて、1月24日の出題作解答。

▲5八銀 △同玉 ▲3八飛 △4九玉 ▲4八飛 △5九玉 ▲5八飛 △6九玉 ▲2八角まで9手詰。

入玉図で両王手を作ってみた。最後は、香筋遮断のソッポ角。ある意味、教科書的かな。

動く将棋番は、こちら





3035a31c.jpg今週の問題は、短編作。

簡単すぎるので、2題。

一応、前月の詰将棋パラダイス誌の初心者問題に掲載。

わかったと思われた方は、コメント欄に最終手と手数とコメント入れていただければ正誤判断。

ピロリ菌第一次滅菌作戦失敗!

2009-02-06 00:00:33 | 市民A
12月22日「ピロリ菌退治」で書いたように、昨年末からピロリ菌退治を始める。1週間、1日2回、2種類の抗生物質と胃酸を抑える薬を飲む。三剤併用療法。飲み終えてから4週間経ってから、ピロリ菌がまだいるかどうか再検査。試薬は尿素。尿素を飲んで、ピロリ菌がいると、アンモニアを発生するので、アンモニアが呼気中に含まれるか検査。「尿素呼気検査」。正常値は2.5パーミル未満。そして結果は・・

大敗。「17.2」。基準値の6.88倍。

第一次滅菌作戦の成功率は6割強だそうだ。3割強のグループに入った。

飲んでいた時に感じていたのだが、普通あると言われる「服用中の下痢」など、何も起きなかった。1日目に、胃袋の中で、僅かにワサワサ感があり、今、格闘中かな?と数時間感じたことだけだったような。

そして、最近になって、やたらに体内にガスが溜まるように感じていた。たぶん、抗生物質の攻撃に耐え抜いたピロリ菌が、大発生してしまい、胃の中で炭酸ガスやアンモニアガスを大放出しているのだろうと思っていた。


e7794260.jpgそして、滅菌作戦の第二ラウンドに突入。抗生物質を変えるそうだ。クスリの山である。第二ラウンドも成功率は6割強ということは、前もって調べていた。二連敗する人は一割くらいの確率になる・

担当の女医さんの話では、

「今まで、ここで滅菌した人は、全員成功していますから」

しかし、この医院が開業したのは、まだ2年前のこと。『全員成功』とは何人成功なのか聞こうかと思ったが、聞いても聞かなくてもやることは同じなので黙っていた。

どうも、第一次世界大戦に負けたので、もう一回チャレンジしてみようと第二次世界大戦を起こした国みたいだ(いや、それでは連合国がピロリ菌みたいだ)。

後がなさそうなので、薬を飲む1週間は禁酒することにした。

結果は、また、1ヵ月後である。

ピロリ菌は、以前は、胃潰瘍の原因だけと思われていたが、最近の研究では胃ガンの原因の一つであることがほぼ確実となっているようだが、同時にこの三剤併用療法に耐性化が見られることも特徴になっているようだ。なぜ、一人一人の胃の襞の中に長く潜んでいるピロリ菌が、「もうすぐ、人間の滅菌作戦が始まるから耐性化しておこう」となったのか、まったく説明できないが、事実、滅菌率が下がっているようだ。

1月26日付けの「薬事日報」に、関連記事がある。

ピロリ菌の病原因子CagAで新たな胃癌発症メカニズムを発見
東京大学医科学研究所

東京大学医科学研究所のS教授とS助教らは22日、ピロリ菌の分泌する病原因子CagAが、胃粘膜上皮の細胞増殖と炎症反応を異常促進する新たなメカニズムを発見したと発表した。今後、耐性化が指摘される3剤併用療法とは別に、CagAを標的にした治療薬開発の可能性が期待される。研究は、日本科学技術振興機構の基礎研究事業の一環として取り組まれた。 <薬事日報 1.26>


3剤併用療法で失敗しても、新たな治療薬開発のミッキーさんになればいいのだろう。


ところで、このピロリ菌のウイルスの遺伝子の解析から、南太平洋のポリネシアンは台湾から渡来したものと推定されるという説が発表された。

ある国際研究グループが先ごろ発表した論文によると、太平洋各島の原住民の体内のピロリ菌を分析すると、太古の昔、人類がアジアから太平洋に向かった過程が分かるという。

論文によると、太平洋の島々に住む原住民の体内には2種類のピロリ菌がいるという。そのピロリ菌の特徴を分析した結果、太古の人類が2度に渡って大陸から太平洋に向かって移動していたことが推測できたとのことだ。

1回目は今から3万7000-3万1000年前、人類はアジア大陸からオーストラリア、パプアニューギニア一帯に移住したという。2回目は今から約5000年前で、台湾からフィリピン、ニュージーランドに移住したとのことだ。

この研究結果は、考古学上の発見と一致するものだという。研究者はすでに同様の方法を使い、人類が今から約5万8000年前に東アフリカから世界各地に散らばっていったと推測している。

この研究結果はアメリカの雑誌「サイエンス」に掲載されている。


台湾は、かなり住みやすい気候である。わざわざ、南太平洋やニューギニアに引っ越そうとは思わないはず。おそらく、大陸からの拡張主義者から逃れて逃走先に南太平洋を選んだのだろうか。

ところで、私のピロリ菌、どこから渡来したのだろうか。

宙に舞う紅葉マーク

2009-02-05 00:00:00 | 市民A
6450e260.jpg先日、夜道を歩いていたら、「枯葉」が道端に落ちていた。かなり肉厚のビニール製磁石付きの葉である。

いわゆる「もみじマーク」だが、通称は「枯葉」とか「落ち葉」とか言われている。きわめて人気のないマークである。

昨年の道路交通法の改正で、70歳以上のドライバーに推奨され、75歳以上のドライバーには義務付けとなる。そして、1年間の猶予期間が終わり、今年6月からは、未着装には反則金4000円と1点が付くことになっていたが、実際に6月から取締が始まるかどうか、微妙な問題になっている。

表面的な理由は、老人からの反発。つまり選挙対策だ。困ったことに老人は投票率が高い。(若年層が投票しないと日本も老人国家へまっしぐらだ。)

では、なぜ老人が反対するかというと、主に3つのポイントがあると思う。

1.高齢であると思いたくない心理。
  誰しも、肉体的に若いと思っているし、そうでなくても技術が落ちたとは思いたくないのである。これは、反対論の中の非科学的な部分である。

2.もみじマークや若葉マークに対する嫌がらせ。
  運転がうまくない人がいると、わざと車間を詰めたり、危険な妨害を行う。要は、弱い者いじめ。なぜ、そういう行動をとるのか私には見当もつかないが、おそらくは普段の生活の中で、劣等感を持っている人間に、卑怯者は多いのではないだろうか。こういう輩はビシビシ取り締まって、ある点数に達すると、「ドクロマーク」の着装を義務化すればいいだろう。

3.最大の問題は、デザイン
  もとより、失礼なデザインである。先日、地方都市の団地に行ったら、一戸建ての家が立ち並んでいたが、どこの家の車にも、このマークがついていた。事実、そうなのだろうが、街並みが死んでしまう。

  さらに、もみじの葉は人間の掌のような形である。車に付けるのは「くぬぎ」のような形の葉ではないか。

  このあたりを調べてみたが、よくわからない。どうもデザインの原案は公募したそうで、小学生の図柄らしい。一方、名称も公募したそうで、こうして、図柄と異なる名称になったらしい。いい加減な話だ。こどもには、老人の気持ちはわからない。

  そういうこともあって、マークの図柄を作り直すことが検討されているようだが、こんどは「銀杏(イチョウ)マーク」とかになるのだろうか。

  個人的には若葉マークでいいのだろうと思うわけだ。免許1年以内も高齢者も同じである、いずれにしても、危ないということを周りに知らせればいいだけである。老人にも今のマークより好評だろう。


ただし、老人は反対でも、世間一般から言うと「老人よ、早くハンドルを置け!」という意見が多いようだ。

6450e260.jpg

パクられたらリスクはデカイか

2009-02-04 00:00:46 | スポーツ
パクられたらリスクはデカイか

若麒麟の部屋の押入れ上段から見つかったノートに書かれていたことばである。

10ページほどに、色々なことが断片的に書かれているようだ。重要証拠の一部分だけ漏洩させて、世論作りをしようという勢力(官憲・マスコミ)の片棒を担ぐ気はないが、ノートの全貌は明らかになっていない。

日記というほどでもなく、単にいくつかの頭に浮かんだフレーズを、本人の好きなラップ調に羅列していたのだろうか。「ラップノート?」。

音楽が好きというだけならよかったものを、ミュージシャンが好きという領域に入ってしまったのが、陥穽に嵌った第一歩だったのだろう。

それにしても、「パクられたらリスクはデカイか」。

文末が、「・・・・か」、となっているが、疑問形ではないだろう。詠嘆のコトバであろう。

いずれ、逮捕されるだろう自分の未来と、その帰結を予想していた上での、吸引の継続であるのだから、ある意味、潔いのだろうか。(逮捕されるときに、大麻を隠そうとしたようだが)。

ところで、この妙な文節だが、主に三つのコトバでできている。

「パクられる」、「リスク」、「デカイ」。

語源を調べると、・・

「パクる」という言葉は、二つの語源と二つの意味を持っている。魚の口のパクパクに語源を持つ「手形のパクリ」という犯罪者用語がその一。捕縛のバクという音に起源を持つ「警察に捕まる」という犯罪者用語。当然、若麒麟の場合は後者だろう。

「リスク」。実はこの単語は意味が広い。一般的に「危険」という意味を表す場合と、「失敗する確率」を意味する場合がある。投資などでいう「リスク」とは、そういうおカネがゼロになったりする確率を意味する。この文節になんとなく違和感があるのは、本来は、捕まれば、自分を含めて多方面に重大なダメージを与えるのは確実であるのに、なんとなくダメージを与える可能性がある、と甘く考えていたのではないだろうか。

さらに、調べると、イタリアでは、リスクという言葉には、チャレンジという意味があるそうで、「リスクを取る」という言葉は、勇敢にチャレンジすることを意味する。サッカーで某国の長身バックスが相手のゴール前に張りついているようなことだ。

若麒麟もスポーツマンだったのだから、こう思っていたのかもしれない。もちろん大麻にチャレンジしても得るものはかなり小さいが。

「デカイ」。語源の不明なことばである。「いかつい(厳つい)」に甚だしいという意味の「ど」をつけて「どいかつい」が訛ったという説もある。「で」で始まる同じような語源のわからない言葉に「でぶ」があるそうだ。

そして、彼が受け取るだろう養老金(退職金)は529万円といわれていて、「解雇処分では甘い」との世間の声がある。前の3人の事件があった後だけに、「外国人に厳しいのではないか」という声もある。「前事件で格下げにした親方を早くも復権させた」との声もある。「公益法人の維持」にこだわっているとの声もある。「何やっているんだ」とガッツ男朝青龍は批判の矛先からのがれて、すっかりいい子ぶっている。


もしかしたら、退職金は、口封じなのかもしれない。

二度目に読んだら面白かった本

2009-02-03 00:00:41 | 書評
cc45057d.jpg数日前のエントリで、本を捨てる時に、もう一度読んで、面白かったらさらにもう一回読んでも面白いだろうから、とっておこうかな、と書いたのだが、その第一号が

書斎のワンダーランド/小山慶太著(丸善ライブラリー)。

平成4年の本であるから17年前である。内容はすっかり忘れている。読みなおしても、実は、この本の内容と書名の関係がよくわからない。もしかして、本のカバーと中身が異なっているのではないかと確認したが、同じである。

内容は、一言で言うと「博物学」。ところが、現代において、博物学というのは「学問の名前としてのみ存在する学問」である。大学の学部や講座にも聞かないし、博物学者とか博物博士というのも知らない。クイズ番組の出場者なんかは、博物学系と言えるかもしれない。弊ブログにお付き合いされている読者も博物学系かもしれない。

それで、この本は、博物学の源流として、18世紀初頭のパリのサロンをあげている。革命前夜である。『百科全集』を書いたダランペールが中心である。さまざまな分野の一流人物が、サロンに集まり、ウイスキーグラスを傾けたり、世界各地から集められたコーヒーを飲んだり。

つまり、博物学というのは、さまざまな分野の秀逸な話題を専門的観点で収集し、知的満足を得るという行為なのだろう。クイズ番組をテレビで楽しむのと、かなり近い分野であり、科学技術の高度化によって、専門的知識が専門外の人に理解できなくなった現代には、おおっぴらに存在することが難しくなったのだろう。それでも、『博物学』という学問の域には達しないものの、さらにサロンに人を集めるわけでもなく、自宅の書斎の書棚の本を片っ端から調べて、知的満足(ワンダーランド)を満たすことに挑戦した「ミニ博物学」の本ということになるのだろう。

そういう本を、捨てようと思って再読したこと自体が矛盾っぽいのだが、読み直した結果、捨てないで、書棚に戻ることになった。何度読んでも面白そうだから。

巨大生物の話、科学実験の捏造の話、ニュートンのリンゴやウィリアム・テルのリンゴ、サンタクロースの実在性。歴史のIFとして、ミロのヴィーナスの腕や、夏目漱石の未完の小説「明暗」の続き・・・

最後の逸話が、キュリー夫人の不倫というのが、人間らしさの救いだろうか。

そういえば、南方熊楠という日本が誇る博物学者(本職は生物学者)がいた。研究してみようかと思いながらも、彼の世界の泥沼にはまりそうなので慎重に・・

ゴルフ場で100倍楽しんだこと

2009-02-02 00:00:05 | スポーツ
昨年末の記事だが、山梨県のゴルフ場で事故があった。

<ゴルフ場事故>ゴンドラが斜面を逆走 5人重軽傷 山梨
12月29日12時32分配信 毎日新聞

12月29日午前8時ごろ、山梨県上野原市棡原(ゆずりはら)のゴルフ場「レイク相模カントリークラブ」で、プレー客らを乗せて斜面を上っていたゴンドラが機械トラブルで下方に逆走。出発地点の車両止めに衝突し、乗っていた5人が重軽傷を負った。

県警上野原署の調べでは、乗っていたのは客4人とキャディー1人。このうち、東京都八王子市のSさん(67)と同世田谷区のTさん(68)が頭の骨を折るなどして重傷、キャディーのTさん(59)と客の男女2人が軽傷を負った。5人は一緒にコースを回っていた。

ゴンドラは定員6人。高低差がある10番ホールから11番ホールに移動する際に利用され、約30度の斜面に設置された全長約180メートルのレールの上をワイヤーでけん引する。5人も11番ホールに向かって上っていたが、到着の手前でワイヤーを巻き上げるモーターが故障した。いったんは安全装置が作動して停止したものの、直後に斜面を下り始め、出発地点付近ではかなりのスピードになったという。


このゴルフ場に行ったことはないので、この記事からのみの想像になるが、10番ホールと11番ホールが180メートル離れていて、10番ホールのグリーンから11番ホールのティーグラウンドまで、箱状のゴンドラに乗るのだろう。斜面角度が30度というのは、かなりの急坂で、三角関数で計算すると(ウソ)、高低差は90メートルになる。

ゴンドラといっても空中ではなく、レールの上をワイヤーで引っぱり上げる方式だからジェットコースター型だろうか。雨の日もあるのだから、屋根の付いた箱型をイメージする。そして、11番ホール到着寸前に、逆走を始め、距離180メートル、落下高低差90メートルを後ろ向きに爆走!!!

落下速度の計算はガリレオ先生ではないのでよくわからないが、株価と同様のフリーフォールである。重傷2名、軽傷3名は、まだしもということだろう。自動車の車体は衝突時につぶれることにより衝撃を吸収するようになっているが、ゴンドラはどうなったのだろうか。毎日新聞の記者も、折れたクラブの本数を書き加えると、事故の大きさを、より衝撃的に伝えることができたかもしれない。「4人の計56本のクラブのうち、無傷であったのは国産クラブ14本だけだった」とか。


ところで、5年ほど前になるが、ほとんど同様の事故に遭遇した。

2aca9f9d.jpg場所は富士山の見えるゴルフ場。確か、秋だった。プレーの途中から雨が降り出し、事故の時は本降りだった。

高低差が有名なコースで、キャデイさんなしのセルフプレーが基本のコースである。事故のあった18番ホール(パー5)はティーからグリーンまで50メートルの打ち上げである。4人乗りの乗用カートはコースの右端のカート道を登っていくのだが、なかなか上りがきつくショットの距離が出ない。たまたま、第二打でグリーンの近くまで届いたが、同伴の3名はスキー場のような斜面を這いずり回っていて、私は、当面、手持ち無沙汰になり、一人で乗用カートの運転席に座っていた。

ところが、グギッバシッと異音がした。

ブレーキが外れたわけだ。

タラタラッとコースの右側のカート道で逆走が始まった。カート道の右側は低いフェンスがあり、その先は崖である。まばらに樹木が生えているだけで、その下は何もない。

あわててブレーキを両足で踏んだのだが、もう加速が始まっていて、止め切れない。このまま、まっすぐ下がっていくとは思えず、いずれ、谷底落下か、カート転覆横転の下敷きという可能性が高い。

幸い、「こういう瞬時に、冷静になれるかどうかが生死の境目である」ということは、何度か経験があるので知っていた(というか、元々冷静になれるから、結果として生き残っているのかもしれないが)。

まず、谷底はお断りなので、ハンドルを切ってゲレンデ状のコース内にカートを誘導。このバックで加速中にハンドルを切るというのも勇気がいる。誤って逆に切れば、おしまい。カート道とコースの間には立ち木があったり、ブッシュがあったり。落下速度をできるだけ遅くするため、効かないブレーキを踏みながら、障害物の無い場所を選びコース内に誘導。下から見ればゲレンデ状の斜面を右上から左下に軽自動車位のカートが斜行している状態になる。

もちろん、ガリレオ先生でなくとも、まっすぐ落ちるより斜めに落ちた方が速度が遅くなるのは計算できる。そのままハンドル操作でスキーのように止めようと思ったのだが、雨で芝が濡れていて、もう自分で止めることが困難なことを悟る。斜行したところで、いずれ加速され、コース左側に激突するだろう。

ついに、海運用語でいう「アバンダン」を決意。「アバンダン=総員退船」であるが、別にカートの船長じゃないので、積荷である4人分のゴルフセットをあきらめたわけだ。

そうとなれば、加速がつくまでに脱出すべきなのだが、これが難しい。濡れた斜面で飛び降りると、カートも自分の体も制御不能になって、轢き殺される危険性が高い。ここで、思い切った大技を使うことにする。既にコースの右から中央付近まで左へ斜行したカートを、再び右向きに転回して、その瞬間に左側に飛び降りることにする。もちろん脱出に失敗したら、右側は谷底である。

転倒しない範囲でハンドルを逆に切ると今度は落下速度が速くなり、「最後の右ヒネリ」を入れると同時に車外にダイビング敢行。

ゲレンデで転んで体で滑る要領だが、あいにくビニール製のレインウェアを着用していたので、摩擦係数ゼロである。カートは最後の右ヒネリの効果か徐々に落下コースを右向きに変え、私は両手両足を大の字に開いて加速を防ぎながらも、すこしずつ左寄りにコースを変え、カートとの距離は1メートル、2メートル、3メートルと離れ、ついにフェアウェーバンカーに滑り込む。

カートの方は予想通り、コース右側の低いネットに激突。鉄製のネットは破れ、カート本体はネットを突き破った状態で宙吊りである。多くのクラブは谷底で、残ったクラブも、かなりの本数は真っ二つ。身代わりクラブだ。

雨用の帽子が奇跡的に頭に残っていたのは、落下中に無意識に腹筋を使って、頭を斜面から上げていたからだろうが、縫い目まで泥がしみこんでしまった。

同伴プレーヤーが携帯で急を知らせると、係員たちがすっ飛んできて、バンカーの中に呆然と座っていた私には目もくれず、谷底に落ちかけたカートの救出作戦を開始したのである。

パレスホテル、建替え

2009-02-01 00:00:16 | マーケティング
804164d0.jpg1月31日をもって、丸の内のパレスホテルが、休館となり、建替え工事がはじめる。

休館直前に、同館で開かれたパーティに出席したのだが、ホテル一階の一部を使って「パレスHistory」特別展示が開催されていた。メモをとるのが面倒なので、撮影してしまおうかと思ったが、田舎者みたいになるので、簡単なメモを取るだけにした。何しろ、地番は、千代田区丸の内1-1-1である。もっとも、誤って千代田区千代田1-1-1に泊りに行くと、なかなか客室には到達しないはず(パレスホテルではなく、パレスだからだ)。

まず出発点。1947年。この場所に建っていたのが旧林野局庁舎だった。この建物の外観が「ホワイトハウス」に似ていることから、GHQのマッカーサーは吉田茂に対して、そのまま米国大使館にすることを要求する。

それに対して、その場所は皇居と東京駅の間、つまり日本の中心のような場所(丸の内1-1-1)であることから、吉田はなんとか別の場所に焼け残った建物を探す。そして見つけたのが、今の米国大使館のある場所(旧葵町)。そこには、東京屈指の大型ビルである「満鉄ビル」があった。

そして、米国大使館が葵町になったことを受け、丸の内の建物は、ホテルテイトになる。妙なカタカナ名である。ヒルトンホテルのようにテイト氏が創ったホテル会社のようだが、実際にホテルの看板には「ホテル帝都」と漢字で書かれていた。

804164d0.jpgその後、1959年(昭和34年)に、政府は土地を払い下げる。たぶん安かっただろう。その後、立て直されたのがパレスホテルである。築49年で休館。個人的には、このホテル、建物の中に、駐車場から出てくる道路があって、横断歩道を渡る場所がある。何回か怖い思いをしていて、変な構造だなあと思っていた。建て直すのなら、横断歩道には歩行者用信号を付けてもらいたい、と思う。

パーティルームには、豪華かつ巨大なシャンデリアが使われているし、絨緞にも目立った汚れは見えないのだが、再建時には、これらの既存調度はどうなるのだろうか。地方のパレスホテルの支店に横流しになるのだろうか。

あるいは、気前よくシャンデリアを劇団四季にプレゼントし、まもなく到来する「オペラ座の怪人」の千秋楽(5月)で、観客席の上空で粉砕してしまうのもいいかもしれない(リアリズム・オペラ)。

そして、パレスホテルに関係の深い文化人が5人紹介されていた。

1.麻美れい
  宝塚出身の女優。何度かホテルでショーを開いたようだ。1950年生まれで、45歳の時に、大企業の社長と結婚。(玉の輿?)

2.海部俊樹
  ここのフランス料理が大好きだったようで、いくつかの好きな料理を挙げていたが、私にはよくわからない。ホテルのバーが好きな現首相は、ウヰスキー党のようだが、海部氏はワイン通だったようだ。

3.瀬戸内寂聴
  ホテルに籠って原稿を書いていたようだ。実際、ホテルは人間の欲望の交錯する場所。ロビーやカフェに座っているだけで、人間観察ができる。(角田光代も同じようなことを言っていたが、彼女の観察の場は、昼食屋だったような)

4.東儀俊美
  雅楽家、日本芸術院会員。宮内庁に勤めていた時に、アルバイトでこのホテルのどこかでバイオリンを奏でていたそうだ。公務員の副業のような気がする。それも、勤務先の目の前だ。勤め先の会社の前のガソリンスタンドで夕方6時からバイトをするようなものかな。

5.松岡修三
  結婚披露宴がここだったそうだ。そういう人は数多いだろうが、なぜ彼が紹介されたのかは、謎だ。新築ホテルにはテニスコートができるのだろうか。