カール・ユーハイム物語(最終神戸編2)

2006-06-23 00:00:15 | カール・ユーハイム物語
073e1577.jpg(4)カールユーハイム終焉の地
第二次大戦の末期、神戸は大空襲を受ける。重要港湾であるとともに、川崎グループの造船所などの軍需産業があったからだろう。昭和20年(1945年)6月5日の大空襲で、神戸市内は大破壊され、ユーハイムズ本店と工場は焼失する。したがって営業困難となり夫妻は六甲山にある六甲ホテルに疎開する。長女ヒルデガルトは既に大正15年に病死し、長男カールフランツ(ボビー)はドイツ軍潜水艦で日本を経ち、ドイツ軍兵士として東部戦線で従軍(実はドイツ降伏の2日前、5月8日にウィーンで流れ弾にあたり戦死したのだが、その報を夫妻は知らなかった)。

一方、カールはしばらく前から心身ともに衰弱。原爆投下の報を聞き、さらに8月14日午後6時、「神様か、菓子は」という言葉を残し、六甲ホテル「XXX号室」で永眠する。玉音放送の18時間前である。

073e1577.jpgこの話も「カールユーハイム物語(頴田島一二郎)昭和48年」に記されているのだが、実際には日本がポツダム宣言受け入れを打電したのは、日本時間で8月14日の午前11時である。神戸の外国人たちは独自のネットワークで情報を交換していたらしいので、カールは亡くなる前に終戦を知っていたかもしれない。


そして、当時の六甲ホテルは現在は六甲山ホテルと名称を変えているのは知っていたのだが、さらに調べると戦前のホテルは旧館として、そのまま客室に供しているということである。ということは・・


どうも、表から頼むと、このホテルは眺望の絶景さから、超高級単価なのであるが、実際はあいている時には割安ルートがありそうである。特に6月は梅雨の季節。眺望も期待できない。元日本生命課長が「給料が高すぎて申し訳ない」と退職して、最初のベンチャーに失敗するも二つ目のベンチャーで大成功したホテル予約サイト「一休.COM」で検索すると、新館ツインのシングルユースが東横イン価格で予約できた。営業妨害になるので、ここに部屋番号は書かないが、カールの亡くなった部屋も知っているのだが、さすがにその部屋に泊まろうという度胸はない。


最寄のJRと阪急の駅からの送迎バスで曲がりくねった道を上り続けて山頂768メートルの場所にホテルはあった。途中で何度も気圧減少で耳が痛くなる。何らかの邪道目的のためにホテルを使用しようと思うカップルは酸素マスクを持っていったほうがいいかもしれない。救急車もすぐにはこないだろう。そして、幸運にも六月の神戸の夜は快晴であり、屋上展望台からの夜景はかなり最高だ。夜景について余計な言葉を並べるのはやめる。

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8月14日の夜、亡くなったカールは、すぐに医師により死亡診断書が書かれ、翌日葬場で荼毘に付されるのだが、この山の上では、すべてが困難を極めただろうと思われる。エリーゼは骨壺を背中のリュックに背負ったまま、青谷にあった自宅に戻り、夫妻にとっての戦争は文字通り終戦を迎える。


(5)芦屋霊園
その後、エリーゼは、いったんドイツに帰り、行方不明の長男の戦死を聞くのだが、まもなく再来日し、ユーハイムを復活する。その後、昭和37年3月に経営不振に至り、マチキンからの多額の借入金が返済不能に陥り、乗っ取りの危機が迫る。その時、エリーゼ夫人からの懇願に応じ、代表取締役専務として取引先バター会社社長からユーハイムの経営を肩代わりした河本春男が一年で高利貸しに借金返済、以降、中興の祖となる。昭和46年5月2日エリーゼは神戸六甲で永眠。「カール・ユーハイム物語」では芦屋霊園で一つの墓に眠る、と書かれている。また、河本春男氏の著書「その気になれば-ユーハイムの年輪(玄同社)・昭和56年」の中でも「芦屋霊苑に眠る」との記載がある。

ところが、それが気にかかる。神戸にはれっきとした外国人墓地がある。調べると、ユーハイムの商売敵のモロゾフ氏は外国人墓地に眠る。なぜ、神戸ではない隣町の市営墓地にユーハイムは眠るのか。

私は、神戸外国人墓地の事情が影響したのだろうと推定する。元々、神戸外国人墓地は手狭で一ヵ所が二ヵ所になり、さらに、墓地不足のため、昭和36年に現在の場所に移転集約している。ユーハイム家が最初に墓地を必要としたのは長女ヒルデガルトが亡くなった大正15年か、カールのなくなった昭和20年かのいずれかだったはずだが、神戸の外人墓地に空きがなかったのだろうと推定する。ただし、現在、神戸の外国人墓地は一般に公開されていない。親族が事前に連絡を取った場合のみ門を開くことになっている。となれば、もはや訪れる親族のいないユーハイム一家にとっては、オープンな市営霊園で、たまに訪れる好事家ブロガーの到来を待つほうが幸せなのかもしれない。などと考え、芦屋駅から阪急バス12号線に乗る。

予想通り、バスは長い坂道を登り、霊園に着くが、墓地は階段状に山の中腹まで広がる。無駄な労力は使わず、管理事務所で場所を聞くが、およその場所は管理員の方の記憶の中にあるのだが、特定できない。どうも、管理費を親戚が払っていないからリストには日本人の名前しかない。そのうち、「河本」という元社長の名前に目がとまりやっと特定できた。霊園の有名人リストのノートに「村山実」「中内功」と並んでリストアップしておくように依頼しておく。

073e1577.jpgそして、山の中腹、向かって左端のほうにある41区-13号(41区のかなり上の方)にユーハイム家は眠っていた。美しい御影石の墓石である。正面には、こう刻まれている。「平和を創り出す人達は幸いである」。文字はすべて日本語で、カールとエリーゼ名前と生と死の日付が刻まれる。背面に回ると、思ってもいなかったカールフランツ(長男ボビー)とヒルデガルト(長女)の生と死が刻まれれていた。カーネーションを2本しか用意していなかったので、思わず謝るしかない。向かって左側の側面には、1964年建之と刻まれ、小さく(株)ユーハイムと添えられる(墓に会社の名を刻むとは、不吉な気もするが)。つまりエリーゼがなくなったのは1971年なのだから、この墓石は既に完成していたわけだ。ボビーは妻も子もいたのだから、本来ドイツに墓があってもよさそうなのだが、何らかの事情があるのだろうか。もちろん、芦屋でも十分にふさわしい場所だとは思える。

そして、個人的に続けてきたカール・ユーハイムの追跡も、ここ芦屋の丘陵中腹にて終了することにする。

 了