空蝉のことなど(1/2)

2020-08-26 00:00:02 | 市民A
夏の出口を探す季節になっているが、宅地内にある樹木の近くのツツジにセミの抜け殻が多数残されている。セミの抜け殻のことを、気の利いた言い方で『空蝉』という。読み方は「うつせみ」。転じて、性根尽き果て、魂が抜けたような人間のことを空蝉状態という。


平安時代中期の源氏物語には「空蝉」という帖があり、登場する姫のことは「空蝉」と言われている。おおむね現在と同じ意味で使われている。(ただし、紫式部は造語の名手であり源氏の研究者は彼女が初めて使った言葉がたくさんあると指摘している)

ところがそれから250年前の万葉集では、まったく異なる意味であった。万葉集にはかなりの数の用例があるが、「うつせみ=空蝉、または虚蝉」と表現していたが、それは文字の上の表現で、万葉集はかな文字の文学なのだ。

万葉集の代表的歌人である大友家持(おおとものやかもち)は次の一首を詠んでいる。

虚蝉之 代者無常跡 知物乎 秋風寒 思努妣都流可聞

うつせみの、世は常なしと、知るものを、秋風寒(さむ)み、偲(おも)ひつるかも

この世ははかないものと知ってはいますが、秋風が寒く(妻のことを)思い出します。

妻が亡くなって1ヶ月後に詠んでいる。うつせみは、この世のことである。表意的に書くと、現せ身。また人ということばの枕詞にもなっている。言い換えると「現代」である。そもそもセミとは関係ないコトバだった。それに表音として空蝉(虚蝉)という文字をあてはめたため、とんでもない意味になった。「現代」ではなく「あの世」感が漂う言葉になった。

おそらく、1000年前の紫式部や藤原道長の時代から現代まで、蝉の生態について多くの人が誤解しているはずだ。だからこそ、何年も土の中にいて、突然に地中から這い出して脱皮までして、やっと大空に飛び立ったと思ったら1週間ぐらいで、命を失う。なんてはかないのだろう。というイマジネーションの中にあったわけだ。

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