藤堂高虎家訓200箇条(10)

2006-05-27 09:20:50 | 藤堂高虎家訓200箇条

しかし、200箇条は長い。1週間に10箇条をやっつけるのに大苦労している。オリジナルの200箇条は藤堂高虎最晩年ということで、少し、くどい。老人病なのだろうか。思うに、世は大名取り潰しの時代の入り口である。そういう流れを感じていて、藩内の融和をはかり、「無用の争い」で大失態しないように、念には念を入れ、書いたのだろう。といっても、途中でつぶれた大名の記録は何も残らないので、そういった家系に立派な家訓があったかどうかは、わからない。

ところで最近、仕事上の文書を書くときに、「○○が肝要成り。」とか「○○とは天道にあるまじき行為、深く反省すべし。」とか思わず書いてしまう。(まだ、口にはでてこないが。)

今回で、100箇条まで到達。今後、大きな花が登場するのかどうかは不明。順に行くしかない。将来、藤堂高虎が大河ドラマにでも登場した時には、この200箇条が陽の目を見るのではないか、と思って、前進する。


第91条 何事によらす理つよに物事いふ間数なり理のかうしたるハ非の一倍と言たとへハ人のあつかふ時よき時分を不聞入ハあつかふ人も手をうしなひ立腹する也合点すべき所をこかし手持あしく石車に乗たることくにて止かたし分別肝要なり

何事でも理詰めで物を言ってはいけない。理の強いのは非の倍になるという喩えは、人を扱う時、程ほどにしておかないと扱う人も手立てがなく立腹するものである。納得する機会をのがし、調子に乗り、しくじることになる。分別が肝要である。

理詰めで物を言うと、言うこと聞かない人間がでてくるということだろうが、まあ、ほどほどにということだろう。「石車に乗る」というのが感じがでている。タイヤがパンクした車で走るようなものなのだろうか?あるいはブレーキのない車で坂道を下るようなものか・・


第92条 朝夕を給る時腹を不可立百姓の昼夜作り立米給人江奉る我命を続くる米に向ひ怒る心を天道みのがし有間敷深く可慎

朝、夕の食事のときに腹を立ててはいけない。百姓が昼夜作ってくれる米だから、わが命を続けさせてくれる米に向かって、怒る心を天道が見逃すことはない。深く慎むべきだ。

高虎は、メシにこだわる。それにしても大げさだ。しかし、米に向かって怒る御仁はいないと思うのだが。


第93条 我女房に無情あたる者あり大に道の違たる事也男を頼み共に乞食をする共附添事深き間也夫を不知常々中を悪ふして物事打解ざるハ非本意なり不便を加へ中よくすべき事なり根本ハ他人の寄合夫婦と成事過去よりの約束成べしそこそこにする人ハ頼母敷なしと嘲可多

自分の女房に情けなくあたる物がある。大いに道が違っていることである。男を頼みにして、共に乞食やをするとしても付き添うほどの深い間柄である。それを知らずに常に仲が悪く打ちとけないのは、本意ではない。不憫を加え仲良くすべきものである。根本は他人同志が寄り合って夫婦となることが過去からの約束である。そこそこにする人はたのもしげがないとあざけられることが多い。

高虎は、どんどん出世を続けていったが、逆にどんどん身分が下がって言った場合、彼の妻が、共におちぶれに付き合うことになったかどうかは、わからない。高虎の末裔もそう思ったのではないだろうか。高虎が生きていた戦国時代とその後の徳川時代では武士の結婚のプロセスも異なる。まあ、世の中が「なあなあ」になっていくのだが、高虎は、それを看過していたのだろう。

第94条 主人江詫言申上る共主人の機嫌を見及可申上一応二応にて免されさる事も可有也いかに家老たり共見合重て折を見及可申上一旦にむりやりに申叶ハぬと声高に成申事非義なり還て科人ハ脇になり主人立腹して可免者も不免結句誓言を御立候か曲事に被成候事度々に及ひ扨家老も申掛不首尾にする上ハとて身代をやふり立退事もありかた口なる人の仕形成へし

主人へわびるといっても主人の機嫌を見て言うべきだ。一度や二度では許されないこともあるだろう。家老だとしても様子をみて重ねて折りを見ていうべきだ。一度にむりやり言ってもだめだと声高に言うことはいけない。かえって罪のある人のことは脇におかれて、主人は立腹して許すべきものも許されず、結局、誓言を立てるとか処分されることがたびたびあると、家老も「申し掛け、不首尾にする上は」といって身代を投げうち立ち退くこともある。一方的な人のやり方だ。

「かた口」ではいけない。機嫌のいい時に不都合な話をすればいい。お互いに角を突き合って、「かくなる上は、覚悟のほどを・・」ということになっては、・・・


第95条 家老たる人ハ傍輩の中に能者有て主人の重宝になる人たり共人の聞前にて取合せ不可申必人前の取合せの事ハ心もある主人ハ不聞入子細ハ心附の有共取合せ申たる家老の心附に成へし主人の心得には難成能家老は潜によき者に御心附も可有と可申上心附に逢たる人家老に尋れ共不存御心附たる事と感し申事可為家老の本意たり

家老たるべき人は仲間の中によい者がいて主人のためになる人がいたとしても、人の聞いている前でとりなしをしてはならない。必ず人前のとりなしのことは心ある主人は聞き入れない。なぜなら、その者をひきたてるのは家老の手柄になり、主人の裁量にはなりがたい。よい家老はひそかによい人に心当たりがあると申し上げるべきで、祝儀にあった人が家老にたずねても自分は知らないがめでたいことであると言うのが、家老としての本意である。

サッカーでもそうだ。日本代表チームの監督が最終選考にあたって、Jリーグの監督から進言を受けると、かえって落としたくなるものだ。失敗に気づくのは試合が終わってからだ。


第96条 下として上を斗ふ事有間敷と世間にいふ一通りハ尤なり乍去心もあるよき主人ハ左様には不思主人のしらぬ事に為に成事多かるべし左様の時ハひそかに聞届可申上是以悪敷申さは下として上江教るなんどど取沙汰可有か主人悪敷心得立腹ひか事なり惣して主人を下よりあなとる事ハなき物也自然にあなとる事あらハ主人のうつけたる所を見付あなどるへしよき主人ならハあなどり度思ふ共成間数也兎角あなとらるるハ主人の覚悟なきよりおこる成へし

下は上と争ってはいけないと世間でいうことはその通りである。しかし、心あるよい主人はそう思わない。主人の知らないことでもためになることが多い。そういう時、ひそかに聞かせて申し上げるべきである。これをもって悪く言えば下が上に教えるとはなんだと、取りざたするのを聞き、主人が悪くとって立腹することは間違っている。本来、主人を下の者が侮ることはないものである。もし、侮る事があれば、主人の馬鹿なところを見つけて侮るものだ。よい主人ならば、侮りたいと思ってもできないものである。とかく侮られるのは主人の覚悟がないからおこるのである。

そうはいっても、進言に失敗するとえらいことになる。特にまずいのは、殿様のバカ息子の教育方針である。これを進言すると、ほとんどの場合、数時間後に首が塩漬けになるものだ。


第97条 家来の悪敷事を聞共家老を呼ひひそかに異見を加へさせ作法直させ可然何事も聞ぬふりにて居る事肝要なりなま心得の主人理発だてにて不入吟味すれハ夫々の科におこなハされハ不成家のさだちたるべし大それたる科の外ハきかぬにしかし

家来の悪いことを聞いても家老を呼んで密かに意見を言って作法を直させる。何事も聞かないふりでいるのが肝要である。なま心得の主人が利発そうにいらざる吟味すれば、それぞれの罪を処分しなければならなくなり、家の騒動になる。大それた罪の外はきかない方がいい。

これが、田舎大名だと、殿が家臣の噂を聞きつけ、自室へ呼んでイエローカードを見せればすむが、将軍さまの話になると大変である。まず、噂の真偽を確かめるために、スパイを放つ(スパイは後で始末される)。隣国の現代史のことではなく、日本の近代史の話だ。


第98条 言事など、いふハ外様付合にてハ稀也不断心安き内に度々有之互に打とけ過言ぞこないもあり又慮外もあるべし能可慎

言い争いなどというのは外様のつきあいではあまりない。ふだんから心安いうちに互いにうちとけ過ぎて、言い損なうことも無礼なこともあるからよく慎むべきである。

慎むのは、言い争いなのか、打ち解けすぎることなのか、この段だけではわからないが、200箇条全体の流れでいえば、打ち解けすぎないこと、ということのような気がする。


第99条 余り人にたりふそく深く言べからす

人に対して足り不足を余り言ってはならない。

いかにも日本的だ。もっとも、「足り」を言わず、「不足」ばかり言う人間や、会社や、国家は多い。もっとも、満足なのか不満なのかわからないと、CS調査員など、困ってしまうこともある。アンケートにしても、「満足」、「普通」、「不満」の3分割では、「普通」ばかりになるので、「少し満足」とか「少し不満」といった選択肢が必要になる。


第100条 人之芸能又ハ諸道具抔こなすべからす面々数寄数寄成へし

他人の好む芸能や小道具についてはけなしてはいけない。それぞれすきずきである。

品川駅高輪口で手鏡を持っていたことを理由に捕まった「本人は冤罪を主張する、ある地方大学の東京分校の」教授の趣味が、特定の方向に偏向しているからといって、偏光メガネで見てはいけないし、横浜駅西口で、手鏡ではなく携帯で画像保存した日テレアナウンサーに対して、「その小道具では、捕まったときに証拠が残るではないか」と注意をしたりしてはいけない。好き好きである。

さらにつづく。



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