Moving May-day

2005-05-20 10:00:14 | 市民A
ニュータウンと呼ばれる新興住宅地の裏手には、まだ農業用地が散在している。休日に1時間、6600歩を日課としている散歩も、時に、この畑地の方角を選ぶこともある。5月15日の日曜がそうであった。夕方の空に、ふいの雷鳴を聞き、僅かな猶予もなく雹(ひょう)に打たれることになってしまったのだ。紫外線対策のサングラスはたたき落とされそうになるし、半袖シャツなので、肌は痛い。猛烈な氷の銃弾を浴びることになり、付近に軒を探すが、畑地には遮るすべはない。確か、秋田の方では「ふき畑」に潜って雨宿りをするのだったか、と記憶を辿るが、眼前には、「ねぎ畑」。これじゃ、まったくダメだ。そして、果樹園があり、桃のなのか栗なのか枝の下に入ると、なんと、「消毒済み」の札がぶら下がっている。最低だ。結局、池に落ちた間抜けなゴルファー状態で帰宅。100時間防水保証のM社のウォーキングシューズも中まで浸水。その時、ねぎ畑に派手に垂直落雷。そこに「ふき畑」があったら、肥料と化していただろう。

実は、この話、翌日の月曜日に、来訪された年配のお客様に話したら、逆の感想だった。もうすぐ60になろうかと思われるパートナー企業の部長さんは、当日、皇居10周マラソンに出場していたとのこと(余談だが皇居をぐるぐる回る限り、歩道が完備しているので、主催者の経費は格安だろう)。”ランナーにとっては、体温を冷やす恵みの雨”とのこと。さらに靴の防水は、”通気のいいのを第一とするので防水は逆効果”とのこと。そういうものか。一本取られた。そして、「毎月200キロ走れば、マラソンに出場できますよ」って。二本目も取られた。さらに帰り際に痛烈な3本目があった。「おおたさんは、首輪王子に似てますね」って。もう、仕事で爆破してやるしかない。「○○さん、次のヤマはデカいじゃけん、9ケタは、つぎ込んでもらわにゃ困るわのー」とmail。(注)


ところで、五月初中旬の、ふいの雨のことを「五月雨(さみだれ)」と言うものと思っていたら、それはそうとも限らないらしい。

古来、雨の降る”シーズン”を指す言葉として、「梅雨」があり、その期間に降る雨のことを「五月雨」といったらしいのだ。ということは、バラバラと降る雨は、単に「俄(にわか)雨」に過ぎないということなのだろうか。確かに、”五月雨を集めて早し最上川”という句もあるが、俄雨では、水量が少ないだろう。しかし何となく現代では、五月雨は梅雨より前の時期の俄雨を指す言葉のように思うのだが、これは西国文化が東国文化に変わった影響なのか、あるいは地球全体の気象変化によるものか、あるいは旧暦と新暦の分離で5月が宙に浮いてしまったからなのだろうか、よくわからない。

さらに、現代にかろうじて残る言葉に「五月闇」(さつきやみ)がある。別に「梅雨闇」(つゆやみ)という語もあり、これも元々は同じ意味だったらしいのだが、「五月雨」と同じように、「五月闇」は「梅雨闇」から分離し、ちょっと前の時期を指すようだ。”五月雨の頃、どんよりと暗い昼や、月の出ない闇夜”を指すとのこと(季語集より)。

NETの海の中に、こういう句があった。”五月闇またまちがって動く舌”(なかはられいこ) 解釈は不明だ。

しかし、「梅雨闇」と同様、「五月闇」にも夜の雨の情景が似合うとは私だけの想像であろうか。降り続く「梅雨闇」の驟雨(しゅうう)に似合うのは、アクアスキュータムの黒綿布に覆われた、一本の長傘に頼る男女の影であるのだが、星の光を俄かに覆い隠し、「五月の闇」に雷鳴とともに降り注ぐ霰(あられ)交じりの雨粒に対しては、人工繊維のプリント花柄の折りたたみ傘に寄り添う二つの人影が似合いなのである。そして、おそらくは、その用意のいい折りたたみ傘には、秘められた予測と微かな期待がこめられているのではあるのだろう。
(注)広島人、楽脳氏より、放言間違いの指摘あり。コメント欄参照。ああ、ヤケンボリで焼きソバ入りのモダン焼き食べたし。


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