芭蕉とお七の関係って?

2005-03-31 21:26:53 | 市民A
c194c504.jpgブログを空中遊泳していると、いくつかの破片が符合していることに気付く。3月27日の余丁町散人blogに登場する”松尾芭蕉の奥の細道出発日”の中に参考として登場する”芭蕉庵の解説”で発見したことだが、芭蕉が奥の細道旅行へ出発する6年前、1683年に深川にあった第一次芭蕉庵は八百屋お七火事で全焼している。芭蕉は近くの大川に首だけ出して命拾いをしている。「芭蕉=お庭番」説もあることだし、水遁の術をつかったのかもしれない。その時に落命していれば、”奥の細道”はじめ多くの俳句は存在しない。俳句自体が芸術としては存在していないだろう。

そして、このお七の火事だが、西鶴が好色五人女の中に登場させたため、虚実あいまいな存在になってしまったのだが、火付け犯とされたお七は、1683年3月28日に鈴が森の刑場で火炙りになったとされている。奉行が「年は14か?」と聞いたのに「いや16」と本当のことを言ったため未成年扱いを受けずに鈴が森送りになったというのは西鶴の言い方だが、芭蕉庵が燃えるほどの大火であるなら年齢にかかわらず、死罪は免れぬはずという説もある。江戸前期の話にはわからないことも多いが、研究テーマも資料もかなりある。

先日、大森海岸の”しながわ水族館”に行った時だが、水族館の入口のすぐ近く、第一京浜国道傍に鈴が森刑場跡の大きな看板がある。そして、2つの台石が並んでいるのだが、向って右側が火炙り用で左側が磔用と事務的文書が掲示されている。そして、観光(?)客用だろうが、その石の上で火炙りになった有名人として、八百屋お七が紹介され、磔になった有名人として丸橋忠弥が紹介されている。ばちがあたりそうなので、遠くから望遠で画像をとりこんでみた。

ついでに丸橋忠弥の話だが、火事の少し前、1651年に由井正雪と一緒にクーデターを計画したが、失敗。正雪は駿河で自害したが、丸橋忠弥は江戸城のお堀の深さを調べるために石を投げているのを不審がられて捕まってしまった。正雪は軍学者であり、彼の私塾は現代で言えば「松下政経塾」のようなもの。当時はなんでもすぐに大名をお取りつぶしにしたため、浪人があふれて決起しそうになったのだ。しかし、お堀に石を投げると、どうして深さがわかるのかは不明だ。ただ、当時「石」自体がどこにでも転がっているということはなかったはずだ。川や海から持ってこなければ堀のそばには石ころはなかったのだろう。案外、石ころを懐に隠し持っていただけかもしれない。某教授の手鏡と同じだ。持っているだけで状況証拠に十分足りるということだ。

そして、なぜこの鈴が森に刑場があったかというと、そこが東海道の江戸の入口であったからなのだ。犯罪者は処刑されたあともそのまま放置されたり、首だけをさらされたりしたわけだ。何日も経てばヒドイ状態になる。地方から江戸に入ってくる人間に、江戸の掟を知らしめる目的があったわけだ。同じように江戸の北の入口には小塚原の刑場があってネズミ小僧はそっちに行ったそうだ。そういえば、以前住んでいた横浜市の綱島にも綱島街道沿いの河原に千人首塚という小さな石塔があったが、その類だったのだろう。

しかし、それにしても、「鈴が森刑場跡」の看板は目立ち過ぎもいいとこだ。江戸市中へ通勤している郊外在住のサラリーマンにはそんなに悪人はいないはずだ。むしろ外国人の無法地帯である歌舞伎町や大塚駅周辺、あるいは経済犯が徘徊する丸の内や六本木あたり、そしてもちろん霞ヶ関の奉行所や政党本部前などに移設してほしいものだ。

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