源氏物語を読む(瀧浪貞子編)

2008-10-06 00:00:09 | 書評
今年は、源氏物語千年紀と言われるのだが、その根拠は、「紫式部日記」の中で、寛弘5年(1008年)に藤原公任が、式部に対し、「このわたりに、若紫やさぶらふ」と呼びかけた記述があり、その時には、『源氏物語』の一部または全部ができあがっていたと想定されるからである。だから、やや正確さには欠けるのだが、もともと紫式部だって、本名も正確な生年月日もわかっていないのだから、そういうものだ(豊臣秀吉の生年だってはっきりしないのだし)。



本書はこの千年紀にちなんで、吉川弘文館が源氏物語について書かれた12人の論文を集めたものである。編者の瀧浪貞子さんは京都女子大学の文学博士。


12人の方が、様々な角度で『源氏物語』を分析するので、一冊読めばかなりの源氏通になる。もっとも現代語訳であっても一応読み通してないと、この本は歯が立たないはずだ。小説を読まずに書評だけ読むようなものだからだ。私の場合は、先の総裁選で第2位だった先生のおばあさま、つまり与謝野晶子バージョンを読んでいる。原文も最初の5帖まで(桐壺、帚木、空蝉、夕顔、若紫)は読んだような覚えがある。そう、岩波書店の古典文学大系の源氏物語5冊のうち1冊目の途中だ。そのあたりまでの文体は言葉がきらきら輝くようにきらびやかで、それ以降の滑らかにつむがれる長い長い絹糸の様な文体とは、若干違って感じているのだが、いまだかつてそういう論は聞かない。

というか、本書の12人の学者にしてもそうだが、『源氏物語』を文学ではなく考古学の発掘品のように取り扱う向きが多く、その文学性について正面からぶつかったものはあまり見ない。単に、源氏物語=失楽園、紫式部=渡辺淳一なのか、まったく異質な世界なのか。あるいは、歴史書なのか。

もちろん、紫式部の生きた時代は、藤原道長も同時代人であり、丸谷才一によれば、二人は「できていたに違いない」と小説の登場人物の文学博士に言わせている。そう下世話な話ではなくても、光源氏のキャラクターの一部は道長にかぶっている。光源氏は皇族であり、天皇にされそうになるのだが、それでは小説が終わってしまうので、プレーボーイを続けられるように、都合よく失脚したりする。

また、紫式部と清少納言の関係だが、本書でかなり綿密に考証されていて、紫式部は清少納言より若く、枕草子を読んで、「私の方が腕前は上だ」と確信していたそうだ。そして嫉妬。もちろん、「春はあけぼの」と一言で言い切る清少納言はエッセイストであり、紫式部はストーリーテーラーなのだから、上とか下とか言い切れない。ただし、現代人は、枕草子の存在が、紫式部の闘争心を煽り、源氏物語が完成した、と喜ぶべきなのだろう。

もう一つのキーになるのが日記文学。古代的な『竹取物語』のような「物語文学」の対極のような「日記文学」には『蜻蛉日記』があり、『和泉式部日記』という完成度の高い、いわば私小説の世界がある。この「物語文学」と私小説的な「日記文学」の融合した形で源氏物語は登場したのである。


それにしても、源氏物語のおかげで「国文学者」が数百人は飯の種にしてるのだろうし、江戸時代は多くの画家(絵師)を潤したのだろう。紫式部は、当代切っての超秀才であったそうだが、千年にわたり、さらに次の千年にもあれこれと自分のことが研究され続けるなんて想像していたのだろうか。

源氏54帖夢浮橋を書き終えたときの気持ちを、ちょっと知りたい。


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