大山詣り(演:三遊亭兼好 落語)

2024-09-17 00:00:13 | 落語
江戸時代の小旅行先として愛好されていたのが大山詣り(おおやままいり)。現在は、小田急伊勢原駅からバスとケーブルカーで下宮まではたやすく行けるが、江戸時代はそうはいかない。現在の国道246号や東急田園都市線とほぼ同じ道(大山街道)をひたすら西に向かって歩くことになる。実は、自宅はこの旧大山街道までは1キロ、二つ目の宿場の荏田宿(えだじゅく)までは2キロのところにある。荏田宿跡には昔の宿場町の配置図が立っている。

この演目だが、大山へ行くことが題材になっているのではなく、大山から江戸に戻る道中から始まる。主題からすると関係ないのだが、同じ道を帰ってくるような話し方なので違和感を感じていたのだが、粋な江戸っ子が行った道を戻るはずがないわけだ。(後で調べて、帰路がおそらく別の道だっただろうと推測で補い理解した)

まず、規模だが、江戸の人口100万人だが、参拝者は年間20万人もいたそうだ。もちろん、江戸以外から来る人もいて、伊豆諸島や遠く西国から富士山と大山と二山の参詣というのもあった。しかし、日本人の8割が農民だったことを考えれば20万人のうち15万人ほどは江戸市民だっただろう。おそらく大半は町民の男性だったのだろう。木刀を背負って奉納するのが礼儀だったそうだ。

つまり5年に一回程度の観光旅行。しかも江戸から大山までは関所を通らないので、面倒な手続きがない。ただし、途中の宿は「観光地価格の宿料」だし「飲むだけではなく買う」ことも多く、大山からは江戸に戻らず、藤沢まで降りて、江ノ島・鎌倉と回り、余裕があれば船に乗って帰るというような豪遊をしていたらしい。枕の部分でこういう話をしてくれればもっとリアリティがあったのだが・・・

大山詣りや伊勢詣りのために町内会では積み立てを行っていて、全員が少額を積んで、その中で何年かに一度、ツアー参加権が回ってくる。

問題は、鼻つまみ人間が参加する場合。道中楽しくない。日帰りのバス旅行じゃないわけだ。

いつも喧嘩ばかりしている熊さんは、同行者から、途中で喧嘩をしたら、ちょんまげを切り落として坊主頭になるという条件付きで同行したわけだ。

そして、旅の最終日。おそらく保土谷、神奈川宿あたりだろうか。宿屋で仲間と喧嘩して負傷させる。酒を飲んでぐっすり寝込んだところで坊主にされてしまう。しかも翌朝、寝過ごして置き去りにされる。宿の女中さんから「お坊様」と呼ばれて大失敗に気が付き、江戸に向かって出立した同行の仲間に、仕返しを思いつくわけだ。