深夜特急(沢木耕太郎 紀行小説)

2019-01-21 00:00:08 | 書評
単行本は3冊(1986年に二冊、6年後に三冊目が刊行)。それを文庫化して6冊になっている。1970年代初めに著者がインドのデリーからロンドンまでバスで旅行しようと思いつき、たぶん現在価値で100万円弱を軍資金として出発。しかし、インドに着く前に香港やマカオ、タイなどで散々道草をしてしまう。

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現代では、日本国内の「路線バスの旅」としてバラエティ番組が何種類かあるが、それを思うとかなり先駆的チャレンジだ。(というか、今の日本では高速バスでかなり自由に移動できるが、たぶん路線バスだけでは特に都会では前に進めないのではないだろうか。

例えば、東京駅から横浜駅まで路線バスで行くことは、たぶん可能だろうが1日では着かないかもしれない。アジア偏と欧州編とわかれるのだが、欧州編ではイタリアやポルトガルではバスの乗り換えで難儀をしている。

さて、この本については、すでに多大な読書感想が書かれていて、概ね「GOOD」評が「BAD」評を超えているのだが、そんなことをさらに追加して書いてもしょうがないので、評論風に書いてみる。


紀行あるいは紀行小説は古今東西たくさんある。形式的な分け方で考えると、旅の書き方として、自分が見たり聞いたりした外部情報を中心に書く人も多い。名所旧跡を訪れて、そこの価値や過去の歴史に感嘆したりする。「驚き型」といっていい。やり過ぎるとガイドブックになる。

もう一つは、あくまでも旅を自己を見つめ直す手段と考え、各地の風物を観たり聞いたり食べたりして、自分の気持ちが内面的にどう揺れ動くかを綴ったり、和歌を詠んだりする。感情を作品に移入をする書き方だ。「泣き笑い型」。これはやり過ぎると、日記になる。

つまり、ガイドブック的か日記的かということで、そのほどよい中間的なのが、著者と読者の関係では名作とされる。日本の古典では「東海道中膝栗毛」とか「奥の細道」とか。

本書は、かなり日記に近い位置にあるのだと思う。そういう意味で、読者の期待を裏切ることが度々あった。悪書というのではなく、そういう立ち位置で書いているのだろう。

ガンジス川を流れる遺体や遺灰を見て、何も感じないというのもちょっと薄い書き方だなと思ったり、何でも値切って失敗するとか、ちょっと品位がないように思うところもあるし、最後に残念だったのは、リスボンから喜望峰周りで日本に帰ってくる船便を見つけたのにもかかわらず、予定最終地であるロンドンからリスボンには戻らなかったことかな。

長い旅なので、予定外のことが多発するのだが、その時「頑張って自分で切り抜けよう」という行動力も必要だし、「ここは、流れに身を任せよう」という忍耐力も必要なのだろうが、その「頑張る」と「身を任せよう」という切り替えのタイミングが、ちょっと自分的にはずれているなあと思うことがあった。


もちろん、旅の楽しみ方は人それぞれでよいので、ある意味、長い旅でも、その中にほんの一瞬でも、「心動く」ことがあれば、それでいいのではないかと思っている。(下手なゴルフでも、一日に1ショットでもナイスショットがあれば「きょうは楽しかった」と思うのと同じようなことだ)