不明なままとなった70年前のこと(1/2)

2015-07-20 00:00:08 | 美術館・博物館・工芸品
昨日アップした岡山県備前市にある「藤原啓美術館へ」について、その後の顛末というのがある。藤原啓氏(1899-1983)は、備前焼の中興の祖の一人で人間国宝である。

その前に、この話は70年前つまり戦争末期につながるのだが、前提に二つの個人的な事情がある。

一つの前提は、「おおた家」のこと。備前焼の故郷からそう遠くない岡山市の東側にある赤磐市にルーツがある。三代前の曽祖父は小振りな庄屋(農地地主)だった。70年前(1945年)、つまり戦争終結の直前には二代前は国家公務員。一代前は「戦犯学校」と後に呼ばれた東大第二工学部(戦争の前に開校し、戦後消滅)にいて、基本的には三代前が住んでいた。60代だったはずだ。そして、山がちな人口希薄地だったせいもあり、疎開の受け入れをしていた。

一般的に、岡山には兵庫や広島とは違って直接的な軍事施設が少ないことから、山間部の大きな農家は都会の人を受け入れていた。有名なのは横溝正史氏で岡山に疎開した時に近くにあった地名を改造して八墓村とか作品に利用している(実際には犬墓山)。

その米軍の攻撃が、軍事施設だけではなく軍用品を作っている民間工場に及ぶに至って、近隣の岡山市などの市街地住民などを受け入れることになったようだ。

実際には、米軍は、日本の各都市を5つの都市を除き、人口の多い順に空爆していた。5つの都市は「核兵器投下候補用」として、そこに人口を残しておいたわけだ。順番が抜けていることは、軍の中枢はわかっていたはずだが、公表されなかったし、今でもあまり話題になっていない。その後、壊滅して反撃力のなくなった西日本の都市に対しては低空から市民に対する銃撃攻撃が始まっていた。まだ女子高生だった私の母親も、備前市と岡山市の中間の出身だが、パイロットの顔が見えるほどの位置から銃撃され、用水路の泥水の中に隠れたと言っていた。

そして、第二の前提だが、私の一代前(父親)だが、約一年前に、元はといえばタバコの吸い過ぎに起因する病気により他界。徐々に悪化する病気であったため、東日本で入退院を繰り返していたのだが、ある時、昔話の中で岡山県の旧家について、先代たちから聞いた話として(本人は、東京または千葉にいた)次のようなことを語っていた。

戦争中に疎開してきた人は、備前焼の先生で、確か「フジワラ」さんという人だそうだ。有名な人で、色々な来客があり、そのつど預かっている当家で、接待しなければならず、大変困っていて、いつも不仲であったとのこと。そのうち、近くの山で土を探してきて、自分で焼いていたようだ。


父親の話も、その「フジワラ」さんと直接会ったわけではないのだが、備前焼の先生とフジワラさんの組み合わせとなれば、藤原啓氏ということになる。現在は藤原一家として有名だが、すべて啓氏の末裔だ。ただ、昭和20年には、まだ大家ということではなく、岡山市で個展を開いたばかりの新進アーティストという存在だったはず。(つづく)