忘れたころに出土した備前焼

2015-07-23 00:00:13 | 歴史
数戦直前、1945年になると日本には物資がなくなっていた。各家庭が金属を供出し、それで戦艦を作ったり銃を作っていた。

そして、噂では知っていたが本来は鉄製の手榴弾を備前焼他の陶器で作ろうとしていたようだ。1988年には人間国宝の山本陶秀宅で大量に掘り出したことがあったが、それについで大量に出土したようだ。

今回はある窯元の自宅を改修中に土の中から大量に発掘された。

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関係者の証言や研究によれば、これらの陶器だが、完成後は大阪砲兵工廠へ送られていたようだが、実戦には使われなかったといわれる。備前焼だけではなく、瀬戸焼、清水焼も協力していたそうだ。備前市の調査では少なくても500個は製造されたはずだ。

窯元の話では、進駐軍がきて、ハンマーで壊して埋めた、という記憶があるそうだ。

また人間国宝の一人である伊勢崎淳氏によれば、父は800個の生産を命じられ。納める前に終戦を迎え、家族で近くの川に投げ捨てたそうだ。


こうして戦後70年で、隠しおおせようと思っていたことが表に出て、それなら、それなら、とカミングアウトが大量に発生する。まだまだ色々なことがあるのだろうが、陶器だけにいつまでも風化しなかったわけだ。千年後に発掘されたら、何のためのものなのかわからないだろう。

しかし、記事を報道した山陽新聞は、あっさりと歴史の1ページのように書くという態度なのだが、本ブログはもう少し考えたいことがある。

実は、備前焼の手榴弾は陸軍用で海軍は別の土地の陶器を使っていた。それらは、要するに縦割り社会の弊害なのだが、その問題より前に、実際、手榴弾はなんのために1945年になって慌てて作られたのだろうか。

手榴弾がもっとも効果的な戦闘は、当時は対戦車戦といわれていた。兵士が近づいて手榴弾を投げるわけだ。つまり、本土決戦用だったのではないだろうか。

そして、その結果によっては自決用でもあったのだろう。


(さすがに未使用の手榴弾ということで、証言が多く出てくるのだろう。これが大久野島の毒ガス用の陶器の容器となれば、また事情も違うのだろう。)