俳遊の人・土方歳三(菅宗次著)

2011-11-08 00:00:40 | 歴史
haiyu土方は、幕末登場人物の中でも、かなり重要人物とされている。ただ、新撰組に土方がいてもいなくても歴史の流れには影響はないかもしれないし、函館戦争の地で1869年6月20日に陸軍奉行として戦死しなかったとしても、歴史には影響はないのだろう。

しかし、それでもなお、現代人が土方歳三に共感や興味を持ち続けるのは、主に彼のラストサムライぶりの生き方と、残された写真にみる、まれにみる二枚目としての容貌だろう。

まず、彼は「武士ではなかった」のだ。東京都下日野の豪農の家に生まれる。そして、青年期にかけては、商人を目指して江戸の呉服屋に奉公する。何しろ呉服屋というのは、他の職業とは異なりアパレル産業である。(余談だが、新撰組が京都で着用していた「だんだら模様」の羽織だが、発注先は「大丸呉服店」だったそうだ。)

そして、少年のころから二枚目ぶりを発揮し、呉服屋の女中と関係を持ってしまう。即、クビである。その後、商売の道から学問の道に進む。そこで彼がはまったのは、漢詩の世界ではなく俳句の世界。近藤勇が漢詩にはまったのとは若干方向が異なる。

で、彼はなぜ、漢詩よりも軽味のある俳諧方面に進んで言ったのだろう。農民出身だったからなのだろうか。さらに言うと、どうして近藤勇に引きずられて、武士になったのだろう。それもなぜ、函館まで意地を通し続けたのか。

同じく、ラストサムライを続けた一人が、中島三郎助。浦賀奉行の与力の息子として生まれる。その後、日本人で最初にペリーの黒船に乗り込み、「浦賀奉行所副奉行」と偽りの肩書を名乗る。そして、海軍の要職を経て、土方歳三の没後5日間奮闘して果てる。

中島の場合は、下級武士ではあるが、幕府の正規構成メンバーであったのだから、現代では冒滅した「義理」とか「人間の見栄」とか「成り行き」といった都合もあったのだろうが、土方なんて、守るべき家名だってないわけだ。京都時代にあちこちの料亭に馴染みの愛人を並べていたのも、時代の終焉感が漂う。

土方が俳句に遊んでいたのは、主に新撰組を入隊する前のもので、「句が平凡だ」とか「幼稚だ」「下手だ」などとあざけるのではなく、命のやりとりをする前の彼の純情を読めばよいだけであるのだと思う。

 知れば迷ひ 知らねば迷わぬ 恋の道

沖田総司に、「下手だな」と一刀で斬り捨てられたとされる凡句だそうだ。

その拙稚さもまた、現代女性の心を揺さぶることになり、現代女性の心を揺さぶるにはどうすればいいかを研究するために土方の軌跡を追う現代男性の心を理不尽に乱すわけである。