小説 太宰治(檀一雄)

2007-10-21 00:00:04 | 書評
太宰治が好きかどうか、と言われれば、なんとも答えようがない。作家としての人物は好きになれない。作品毎の好き嫌いが大きい。どちらかといえば、作品全体としては納得できないが、部分部分での作家太宰の語り口は好きだ。おそらく、多くの人も同じように思うのではないだろうか。



2年前、津軽半島にある太宰の生家を見たときに、彼が実家に反発するバネで作家になったのだろうと、強く感じたわけだ。その巨大な生家の北東側の一室で太宰は生まれ、1948年、39歳で玉川上水で心中する。


この『小説 太宰治』は、親友だった檀一雄が、太宰の突然の晩年について書いた作品。実は、檀一雄にもかなりついていけないのだが、この小説を読む限り、太宰が亡くなるまでは檀はまっとうな常識人だったようだ。遊びにも節度があったような(もっとも自分のことを悪く書く作家はいないだろうが)記述が多い。『私は、・・だったが、太宰は・・だった』というような書き方だ。

そして、この書の要である、太宰の自殺について、「彼の小説家としての当然の帰結」というような書き方をしている。太宰が書いたすべてを同時代に読み、彼が日頃、何を読み、何を考え、どういう行動をとっていたか、そして、太宰文学の行き詰まりではなく、帰結ではなかったか、というのが檀一雄の説である。もっとも、いくつかの疑念、或いは檀の理解しえない行動についても記されている。


もし文学的帰結であるのなら、三島と同じだろうし、三島は太宰に会ったときに「好きじゃない」と生意気を言ったようだが、それは、作品の中に近しい因子を嗅ぎ取っていたからなのだろうか。


そして、川端康成の話だが、太宰が欲しくてしょうがなかったのが第一回芥川賞。太宰の異常なまでの執念は、名家の父や兄に対する存在主張だったのだろうが、その中心的選考委員だった川端への懇願となっていた。候補者が選考委員に直接売り込むなど、たぶん前代未聞。それが逆効果になったのだろうかとは私の推論だが、まったく作風の異なる石川達三が第一回受賞者になる。落選後、太宰が川端にうらみつらみを並べた書簡を送っていて、その全文が記されているが、まあ、ずいぶん残念だったのだろう。

小説家としての系列から言えば川端文学に近いのは石川達三ではなく太宰治の方だが、なぜ川端は太宰を嫌ったか、なのだが、これも私の推論だが、第一回芥川賞の選考委員になったのは川端康成35歳。その年、川端は日本文学史上に燦然と輝くノーベル賞対象作品「雪国」を発表。太宰の作など、未熟過ぎると思ったのだろう。

ところで、太宰が川端に送った手紙を檀一雄が公開している。その中で、芥川賞候補作について『道化の華』と書いてある。一方、多くの太宰論の中では、落選作は『逆行』ということになっている。

こうして、あるブロガーの前には大小様々な未完結の疑問事項が、どんどん溜まっていくのである。