港区歴史講座(2007)に出席(1)

2007-10-22 00:00:37 | 市民A
先週から、全5回(週一)の港区歴史講座に出席を始める。港区民でもないが、港区勤務者の権利を行使(もっとも港区在住者の払う税金と港区在勤者の払う税金はどちらが多いのだろうか)。一回目は「江戸時代の麻布」。そう、今年の講座は、『麻布(六本木)』をフォーカスしている。講師はT先生。

ところが、いきなり砕けてしまう話があって、このT先生(推定38歳)だが、都立公文書館の専務的非常勤職員であり、さらに都の西南のR大学の非常勤講師。ついでに博士。どうも耳障りの悪い肩書きだが、まず、『専務的非常勤職員』って意味不明な用語は、要は公務員試験を受けていない職員ということで、給料格安だそうだ。15万円と聞こえた。そしてR大学非常勤講師って週4コマ持っていて25,000円だそうだ。25,000円というのが1週間分なのか1か月分なのか不明だが、たぶん1か月分だろう。あまり安いのでスーパーでレジ打ちバイトをしているところを学生に見つかり、クビになった講師がいるそうだ。

ちょっと、横に飛ぶが、4コマというのは6時間ということ。月4週で24時間ということは、時給1,000円。都心のレジ打ちで時給900円とすれば、博士号の効用は時給100円ということになる。一方、私事だが、以前、政府の委員会に参加したことがあるのだが、2時間半で18,000円もらっていた(3時間計算?)。中央官庁の部課長級の時給と説明を受けたが、ボーナス抜きで時給6,000円。1800時間勤務計算で年間給与1080万円。ボーナスが4か月分で360万円といったところだろうか。

それで、このT先生だが「私は千葉に住んでいるし、給料も安いので”麻布に行ったこと”は少ないのです」といささか頼りない。行くだけなら地下鉄運賃だけで十分なのだけど。

実際、私も麻布に住んでいるわけでもないし、しょっちゅういくわけでもないのだが、江戸時代の歴史上、この麻布・六本木というのは変化球でよく登場する。仙台坂、鳥居坂とか地名にあるように地形は起伏に富む。幕末には多くの公使館がこの地に集まり、今でも港区は大使館が多く、肌の白い外国人が多い。知っていることは多いのだが、だからこそ、講座も面白い。

そして、いきなりT先生はパソコンソフト「江戸・東京重ね地図」というのを紹介し、今の東京と江戸の町割りを比較して、「ほとんど変わっていません」と言われていたが、個人的には、そのソフトを3年前から使っていて、東京のかなりの部分の新旧比較をしている。港区はかなり頭に入っている。

そして、第一回目の講座なので、とりあえず、”木を見る前に森を見る”という趣旨で、「江戸の中の麻布」という位置づけについての考察。

まず、江戸と言う町だが、欧州の都市と異なり、外壁がない。さらに中央広場に集まるような直線道路もない。要するに、江戸幕府は中央集権ではなく、諸藩連合体の形式であり、江戸は防衛都市であり、さらに中央から人口増加により外縁部に拡大していたということである。(現代でも、「東京」の範囲というのは難しく、山手線内、23区、東京都、16号線内、関東一円、さらに名古屋まで、あるいは全国東京化というように考えてもかまわないだろう。先日、アメリカの雑誌を読んでいたら、東京の人口は3000万人と書かれていた。

そして、江戸は、武家と町民の人口は同じ50万人で、一方住居面積では4:1という比率だったため、慢性的に町民の住居地域が不足していたようだ。それで、東へ西へ北へ南へと幕府主導で都市開発が行われていた。そして問題の麻布の話。

三代将軍家光だが、活動記録を見ると、異常なまで鷹狩が好きだったようだ。今でいえばゴルフ狂い(その他、若いうちは男色、成人になってからは女好き、とろくな者じゃない)。公文書に行き先が書いてあるが、「鷹狩」と書き続けるわけにはいかないので、「御鷹狩」「放鷹」「御狩」「みかり」「ならせ給う」「鹿狩」「狩」「猪狩」とか様々に言い換えている。結局、週三回のペースで遊んでいる。たぶん、雨の日は行かないのだろう。いったい、公務は?

その鷹狩の行き先によく、麻布が選ばれている。つまり、その頃は町場ではなかった。その後の時代で、開発が進むのだが、この凹凸の多い麻布では、高台が武家屋敷で、谷間の低地が町民の住まいになっていた(たぶん、麻布十番のあたりは若干低いのでそこは町民が住んでいたのだろう)。そして、幕府から言っても、この麻布というのは、江戸なのか江戸外なのか、ちょうど境目にあたると認識されていたらしい。

百姓や商人や運送業者が馬に乗ってきても、この麻布からは下馬の上、馬を曳かなければならないことになっていた。あいまいな場所である。

そして、この江戸の中なのか、外なのかがはっきりしない場所としての性格が、幕末の公使館の設置につながったようだ。諸外国からは「江戸御府内に公使館を」。そして、国内的には、「江戸から離れた場所に設置すべし」という強硬論の折衷案として、この麻布周辺が選ばれたようである。(同様の例が、「神奈川開港」のはずが、もっと江戸から離れた横浜港の新設という”ごまかし”の話によく似ている。)

c3151e38.jpgところで、この外国公使館の件だが、おもしろい話があった。まず、東禅寺にあった英国公使館のこと。公使館の警護は幕府の「外国掛」の仕事なのだが、この英国公使館のイギリス人は、あちこち歩き回っていたそうだ。そのため、警護も一苦労。ある日の勤務日誌を見ると、品川に近い東禅寺から王子へ行っている(飛鳥山?)。そして浅草寺まで行き、さらに庭園の有名な「植木屋六三郎邸」に寄っている。そして夕方帰宅。すごい健脚なのだが、注目すべきはこの「植木屋六三郎邸」。この古文書が、六三郎が歴史に登場する初見だそうで、その後、庭園観光の発展につぐ発展で、六三郎は「浅草花やしき」となったそうである。

次に米国公使館はまさに麻布の「善福寺」。ここには、本堂の前に数多くの外国人警固の武士の詰番所があったそうだ。そして、様々な藩から武士が集まっていたそうで、テロリストの侵入を防ぐために、毎日、合言葉が変更されていたそうだ。「”月”といえば”カゲ”」とかいうのが、毎日変わる。現代のプロ野球のサインみたいなものだ。もっとも野球のサインは間違えてもパスボールになるくらいだが、幕末善福寺の合言葉は、間違えると斬り捨てということになったそうだ。たぶん、手のひらに墨で、カンニング用を書いていたのだろうか。



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