杉本家の希望

2005-02-06 21:32:49 | 市民A
ピピ島で津波に襲われた杉本遼平君の一家四人がとうとう揃うことになった。無神経な日本のジャーナリズムのカメラから逃れることもせず、一人で家族を探していた12歳の遼平君の無念を思うと、ことばが継げない。これからの日本が、彼にとって、希望をもって成長していけるような国であることを心から望みたい。

タイ政府が身元の確認を続けていることも、心が痛む。津波被害があった直後から、バンコクの臨時献血所には市民が長い列を作っていた。日本政府の援助要請を断ったのも、他の国に回してほしいということが真意だったそうだ。世界地図の中では太平洋の西側の短いラインかもしれないが、タイ発の善意のラインを何本か見つけた。

昨年9月24日に、三陸地方に伝わることわざを書いた。”津波てんでん”とか”てんでんこー”と伝えられている。津波から逃げる時は、一家てんでんばらばらに逃げろという意味だ。そうすれば一家の誰かが助かり、家を継いでいけるといういいつたえである。自分で書いておいて、今は少し辛い。

難攻不落な城攻め(備中松山城)

2005-02-06 21:30:57 | The 城
df5e1c92.jpg日本にはオリジナルのまま現存する中世の城は12とされる。松本・丸岡・犬山・彦根・姫路・伊予松山・丸亀・備中松山・宇和島・松江・弘前・高知。このうち、高知と姫路の2城には登城している。今さら、全城郭制覇などと考えているわけではないが、オリジナルにはやはり味がある。機会があれば、何とか一つでもと思っていたところ、西日本へ金曜日に出張の用件ができた。週末1日を使い足を延ばすことにした。狙ったのは備中松山城。岡山県倉敷から伯備線で35分ほどの備中高梁(たかはし)駅へ向う。碌に調べず行ってしまうのが常だが、ガイドブックには駅から徒歩1時間30分で駐車場。そこからさらに15分と書いてある。嫌な予感だ。高いがタクシー利用だろう。なければ歩くしかないが・・・。

伯備線はワンマンだ。各駅は小さく無人だ。高梁駅が近づいてくるので、よくふくらはぎをマッサージする。しかし、駅は大きくタクシーはたくさんあった。そして、クルマは山道を登り始める、かなり狭い道を登りつづけると、降ってまもない雪塊がところどころに残る。秋の台風でのがけ崩れ個所もある。さらに山を上り空気が薄くなる。「歩けるわけないだろう」と思う。そして、さびしい駐車場につき運転手のかたに概略の道を聞くが、足元だけには注意するようにと言われる。そして帰りのタクシーの予約番号も。

標高が高いわけだ。日本で一番高い位置にある山城だそうだ。標高480メートル。平面地図ではわからない。山道は雪で凍結している。そして、眼下はまさに谷底。そして、道はキツイ上り坂。寒い。息苦しい。資料では、この城は江戸になるまでは何代も城主がかわっている。こんな城をよく攻略できたものだとあきれはてる。難攻不落だ。クラウゼヴィッチの戦争論では城に立てこもった敵に対しては10倍の兵力が必要と言うが、ここでは10倍でも大変だ。城攻めで、有名なのは毛利に攻め落とされた三村家。親子二人は斬られたが、幼少の嫡男は寺院に預けられていたが、聡発なところを見抜かれ、三村家再興をおそれ、幼時に斬られた。古くは平清盛が幼少の頼朝、義経を見逃したために逆に滅ぼされた歴史があだになり、その後の歴史は一家皆殺しが多くなった。

そして、ようやく山の頂上にたどりつくとそこに備中松山城があらわれる。激しい風が吹いている。軽いめまいを覚える。城自体は小さい。しかし、石材や木材をよくここまで運んだものだと感心。付属の展示館でビデオを見ると、この城、何回も城主が変わっている。赤穂藩浅野家が管轄した際は、大石蔵之介も城代をしている。浅野家の他にも後継ぎを得られずにお取り潰しを受けた大名もいたらしい。場内の一角には「装束の間」という小部屋があり、落城の時の城主一家の死に場所が用意されていた。前述の三村家一家がこの部屋で死んだのかどうかはわからないが、少し城主には運の無い城だったのかもしれない。しかし現存していることを考えれば、案外建物としての城そのものには運が強いのかもしれない。

そして、下りの山道はさらに危険であり、駐車場でタクシー会社へ電話をしても誰も電話に出ない。一瞬不安になったが、電話ボックスに別の会社の電話番号が書いてあった。高梁市の他の観光地に寄ろうとも思ったが、気力がわかず、次へいそぐ。