http://japan.hani.co.kr/arti/politics/43486.html
「The Hankyoreh」 2022-05-17 10:31
写真186枚、フィルム126カットなど撮影
社宅の地下室に暗室を作って現像
数人を経て秘密裏に米国へと渡る
【写真】故チャールズ・ハントリー牧師は1980年の5・18光州民主化運動当時、光州基督病院の院牧として在職し、負傷した市民の惨状を写真で記録した。医療スタッフと市民が負傷者を運んでいる=5・18民主化運動記録館提供//ハンギョレ新聞社
1980年5月21日、銃に撃たれて光州(クァンジュ)基督病院に運ばれたキム・ヒョングァンさん(1959年生まれ・防衛兵)の遺体写真は、凄惨な形状のため5・18光州民主化運動写真集でのみ公開された。故チャールズ・ベッツ・ハントリー牧師(1936~2017、韓国名ホ・チョルソン)が撮ったこの写真は、厳酷な全斗煥(チョン・ドゥファン)政権時代に多くの人々の勇気と知恵が集まり、かろうじて光州の外に搬出されたものだ。
【写真】5・18民主化運動の時の市民軍の車。遠くに朝鮮大学本館と光州の市街地が見える//ハンギョレ新聞社
5・18民主化運動記録館の今月16日の説明を総合すると、記録館は故ハントリー牧師が光州基督病院の牧師として在職した間に5・18の惨状を撮った写真186枚とフィルム69カット、スライドフィルム57カットの寄贈を受けて保管しているという。
1965年に米国の南長老教会の宣教師として韓国に入国したハントリー牧師は、光州基督病院の院牧として働きながら、湖南神学大学で牧会相談学を講義していた。
彼の人生を変えたのは1980年の5・18光州民主化運動だ。ハントリー牧師は、軍人の銃に撃たれたり銃剣に刺されたりして基督病院に運ばれてきた犠牲者たちの姿に衝撃を受け、記録を始めた。ハントリー牧師とともに当時の状況をアングルに収めた人は、基督病院の医学研究用の写真を担当していた楊林写真館の代表で写真家の故キム・ヨンボクさんだ。ハントリー牧師は監視の目を避けるため、社宅の地下室に暗室を作って数百枚を現像したという。本紙が入手したハントリー牧師の5・18写真の印画紙の裏面には「嘆きの時間。真実を語れ(A time of grief: "Tell the truth!")」という自筆の文字が黒いボールペンで書かれている。
【写真】ハントリー牧師の5・18印画写真の裏面に書かれた自筆の文字。「嘆きの時間。真実を語れ!」//ハンギョレ新聞社
【写真】故チャールズ・ベッツ・ハントリー牧師とマーサ・ハントリー夫妻=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社
ハントリー牧師はこの写真を基督病院の看護課長だったアン・ソンレ元「5月の母の家」館長に渡し、「東亜日報」解雇記者のイ・テホさん(78)とカトリック労働青年会全国本部のジョン・ミカエル指導神父を経て、米国に渡った。ハントリー牧師は1985年、米南長老教会の撤収政策で米国に帰った。
【写真】5・18民主化運動当時、戒厳軍の無慈悲な暴力に対抗して武装した市民軍の青年がカービン小銃を持って車に座っている//ハンギョレ新聞社
1987年9月、カトリック光州大教区の正義平和委員会が発行した「1980年光州民衆抗争記録写真集」にハントリー牧師が撮った凄惨な遺体写真が載せられた。そこには、亡くなった写真家のキム・ヨンボクさんが大きな役割を果たした。アン・ソンレ元館長は本紙に「キムさんがカトリック光州大教区が5・18写真集を作るという話を聞いいて、その時にフィルムを光州大教区にこっそり置いていった」と語った。ハントリー牧師は2017年に米国で亡くなり、2020年に5・18民主化運動記録館で開かれたハントリー牧師写真展には、彼の写真10点余りが展示された。5・18民主化運動記録館のホン・インファ館長は「光州の惨状の決定的証拠を撮ったハントリー牧師とキム・ヨンボクさんの写真を完全に公開する方法を探している」と話した。
【写真】5・18民主化運動当時、光州基督病院に取材に来た外国記者//ハンギョレ新聞社
【写真】故チャールズ・ハントリー牧師は1980年の5・18光州民主化運動当時、光州基督病院の院牧として在職し、負傷した市民の惨状を写真で記録した。献血する外国人=5・18民主化運動記録館提供//ハンギョレ新聞社
チョン・デハ記者、写真/5・18民主化運動記録館提供 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
https://www.hani.co.kr/arti/area/honam/1043123.html
韓国語原文入力:2022-05-17 09:34
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/43477.html
「The Hankyoreh」 2022-05-17 05:58
■[独自]「脳の中まで引き裂かれた21歳」光州ヘリ射撃で死亡の可能性、初証言
5・18当時遺体検案のムン・ヒョンベ元円光大教授
故キム・ヒョングァンさんの遺体検案書や写真などを見て所見
故チョ・ビオ神父がヘリ射撃を目撃した日に銃傷
【写真】1980年5・18当時、医療スタッフと市民が負傷者を病院に運んでいる。故ハントリー牧師によるこの写真は、当時の緊迫した瞬間をとらえている=5・18民主化運動記録館提供//ハンギョレ新聞社
5・18民主化運動の際に亡くなったある市民の死因について、鎮圧軍によるヘリコプターからの機関銃を使った銃撃である可能性が高いという意見が、当時遺体を検案した医師から提起された。5・18当時のヘリコプター射撃による弾痕は光州(クァンジ)のチョニルビルディングで発見されているが、ヘリコプターからの射撃による死者や負傷者は確認されたことがない。5・18真相究明委員会の調査が必要だと指摘する声があがっている。
16日に本紙が光州地方検察庁による1980年6月3日作成の民間人死者165人の検死書類を分析したところ、銃器による死者135人のうちの1人、キム・ヒョングァンさん(1959年生まれ、防衛兵)は、頭部右側が10×7センチ損失し、脳内すら引き裂かれていた。防衛兵のまだら模様の軍服を着ていたキムさんの顔は銃弾によってひしゃげ、形が分からなかった。キムさんの母親のチュ・ウルソクさんは、最初は息子の遺体だと分からずに通り過ぎ、息子の肩にあった入れ墨を見てようやく息子だということを受け入れたほどだった。検死書類では、キムさんは5月21日午後4時ごろ、光州市南区白雲洞(ナムグ・ペグンドン)の線路でM16小銃で撃たれ、光州キリスト教病院に運ばれたとされている。
キムさんの遺体は、カトリック光州大教区正義平和委員会が1987年5月に出版した「1980年光州民衆抗争記録写真集」に載っている。しかし、その遺体がキムさんのものだということは知られていない。この写真は、当時キリスト教病院つきの牧師だった米国人の故ハントリー牧師が撮ったもの。5・18民主化運動記録館は、キムさんの遺体の状態が凄惨すぎるため、写真は一般公開せず別途管理している。5・18当時、死体検案委員会の医師だったムン・ヒョンベ元円光大学教授は11日、キムさんの遺体の写真を見て「途方もない外力によって脳すらもすべて吹き飛んでしまっている。ヘリ射撃による死の可能性が十分ある」と述べた。
【写真】1980年5月21日、光州上空からのヘリ射撃があった日、南区白雲洞の線路で銃撃されて死亡した故キム・ヒョングァンさん//ハンギョレ新聞社
キムさんが頭に負った銃傷は、銃弾が体内に入る時に生じる「射入口」と体を突き抜けて出てきた痕である「射出口」が区別できない。銃弾が通過した部位が銃撃の衝撃でひどく損傷しているためだ。M16小銃で撃たれた犠牲者の遺体は射入口より射出口の方が大きいが、それとは異なる。ムンさんが検案を行ったM16による銃傷の犠牲者イ・ブギルさん(1952年生まれ)は、頭部右上に0.5×0.5センチの射入口と2×2センチの射出口があると記録されている。
ムンさんは「普通、M16の銃傷による死者は穴が開くだけだが、キムさんの遺体の写真を見ると頭全体が一度に吹き飛んでしまっている」と述べた。当時の戒厳軍の個人用火器だったM16小銃は口径5.56ミリの弾丸を、光州に出動したヘリコプターに装着されたLMG機関銃は7.62ミリ口径の弾を使用する。
キムさんが死亡した5月21日は、故チョ・ビオ神父、故イ・グァンヨンさん、5・18遺族会のチョン・スマン元会長らが、戒厳軍ヘリが空から市民に向かって銃撃しているのを目撃した日でもある。2020年11月30日、光州地裁刑事8単独のキム・ジョンフン判事は「1980年5月21日に(小型攻撃ヘリ)500MDによる機関銃射撃があり、チョ・ビオ神父はこれを目撃したと認められる」と述べている。
加えて、キムさんが銃撃された5月21日には、銃撃された場所である白雲洞一帯にはまだ戒厳軍が配置されていなかった。小銃による射撃の可能性は低いわけだ。「歩兵第20師団忠正作戦詳報」には、5月21日午後6時55分、木浦(モッポ)へとつながる道路を封鎖するために軍を投入すると記されている。キムさんが光州と木浦をつなぐ道路の入り口である白雲洞で銃に撃たれたのは、これより3時間近く前だった。
【写真】80年5月21日歩兵第20師団忠正作戦詳報//ハンギョレ新聞社
チョン・デハ、キム・ヨンヒ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/area/honam/1042994.html
韓国語原文入力:2022-05-16 13:24