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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「ロシアの学者が調査した渤海、日本と中国はなぜ隠したのか」

2022年05月21日 | 個人史・地域史・世界史
https://japanese.joins.com/JArticle/291278?servcode=100&sectcode=120
https://japanese.joins.com/JArticle/291279?servcode=100&sectcode=120
「中央日報日本語版」 2022.05.20 16:05
■【コラム】ロシアの学者が調査した渤海、日本と中国はなぜ隠したのか

【写真】渤海の首都だった上京城で出土した獅子像。宮殿の欄干の装飾物で、渤海人の気概が表れている。 [中央フォト]

 中国の東北工程が始まって今年で20年となる。その間、韓国にとって渤海は中国との歴史紛争としてのみ記憶されている。しかし渤海をめぐる東アジア各国の歴史戦争は100年余り続いた。日本が満州侵略を本格化し、満州と韓国は一つの歴史という「満鮮史観」を前に出して始まったのだ。そして今、中国は渤海のすべての歴史を自国のものに変えている。過去1世紀の間にあった歴史戦争、その中で渤海の実体を明らかにした研究者らをみてみよう。

◆金国のために消えた上京城
 渤海を代表する遺跡の上京城は755年に渤海第3代王の大欽茂(文王)が建立し、上京龍泉府という名で歴史に登場した。その後しばらく首都を移した時期を除けば、渤海が滅亡する時まで首都の役割をした。このため上京城の城壁と宮殿跡は代表的な渤海の遺跡に挙げられる。
 上京城は現在の行政区域上では黒龍江省寧安市にある。「寧安」は黒龍江省だが、実際、文化的にも歴史的にも延辺地域に近い。今でも延辺朝鮮族自治州を除いて中国国内で朝鮮族の比率が最も高い地域の一つという。延辺自治州の敦化地域より朝鮮族が多いが、朝鮮族自治州からは抜けた。渤海の首都が朝鮮族自治州に入ることを懸念する中国当局のゲリマンダーではないかという声があるほどだ。
 上京城は最近まで「東京城」と呼ばれた。これは女真の金国ができた後に新たに付けられた名称だ。渤海の滅亡後、渤海の遊民は契丹によって四方に強制的に移住させられた。この地域から渤海の歴史を消そうとする女真と契丹の持続的な努力だ。首都までが本来の名称を奪われたのは、消されて忘れられた渤海の運命を象徴的に見せている。

◆「東方のパリ」と呼ばれたハルビン
 渤海に対する関心は20世紀に入ってまた高まり、その中心にハルビンがあった。ハルビンは19世紀末、帝政ロシアが東清鉄道を敷設しながら作った都市だ。「東洋のパリ」と呼ばれるほど国際的な雰囲気だった。また、日本の影響力が及ばず、韓国独立活動家には一種の解放区だった。1909年に伊藤博文を暗殺した安重根(アン・ジュングン)義士がロシア語で「コレア、ウラ!」(大韓民国、万歳)を叫んだのもそのためだ。
 当時ハルビンに集まったロシア人は「東省文物研究会」を組織して渤海研究を始めた。渤海以外にも鮮卑・女真・靺鞨など我々の北方史を活発に研究した。東省文物研究会で渤海を担当した人はロシア・ウラル地域出身のVVポノソフ(1899-1975)だった。
 ポノソフは日本の満州侵略中だった1931年、渤海の上京城に対する最初の考古学的調査をした。無国籍者として保護を受けることもなかったが、匪賊が横行するこの地域に命がけで行ったポノソフは、上京城の主要地点を発掘して全体平面図を精密に作成した。渤海に対する最初の科学的な発掘だった。

◆日本帝国主義の尖兵の役割
 ポノソフの命がけの上京城調査からわずか半年後、ハルビンは日本の手中に渡った。ポニソフとともに日本の政府系団体の東亜考古学会が渤海の遺跡を管理した。1900年の義和団の乱に対する賠償金で設立されたこの団体は、日本の中国・モンゴル侵略に歩調を合わせて、1925年に京都大学の濱田耕作教授と東京大学の原田淑仁教授を主軸に設立された。彼らは軍人を前に出して日本帝国主義の尖兵の役割をしながら、四方で遺物を盗掘のように発掘し、多くの批判を受けた。
 東亜考古学会が最初に渤海に関心を向けた理由は、日帝の満州侵略を歴史的に合理化するためだった。日本は韓国を強制併合し、内鮮一体(韓国と日本は一つ)という理念を前に出した。そして満州を占領しながら満州と韓国を一つと見る満鮮史観を出した。2つを結びつければ満州は日本の領土という歴史的な正当性が確保されるという考えからだ。
 東亜考古学会はハルビンに入るとポノソフの発掘資料をすべて受け、それに基づいて発掘を準備した。1934-35年に渤海上京城を調査し、報告書も出した。これを根拠に今でも自分たちが渤海研究を最初に始めたと広報している。

【写真】渤海上京城(東京城)を発掘したロシア東省文物研究会 [写真 カン・インウク]

◆「渤海で日本最初の貨幣発見」と捏造
 しかし最近公開された日本外務省の資料によると、これは実際とは全く違う。発掘を主導した東京大の原田教授が作成した内部報告文書には次のように記述されている。「ロシアおよび中国の学者が東京城(上京城)の調査をすでに手掛けていて、先手を許してはならない」。東亜考古学会が故意にポノソフの研究を奪って隠蔽したことを認めたのだ。
 日本はさらに侵略を正当化するために遺物の捏造もした。1934年、日本の御用考古学者らが渤海上京城で日本最初の貨幣「和同開珎」を発見したと発表した。しかし共に発掘した中国考古学者の李文信はすぐに日本人が和同開珎を持ってきて埋めたと暴露した。
 日本は反省もせず、1940年に満州国の首都の新京(現在の長春)で開いた「飛鳥奈良文化展覧会」でこの貨幣を大々的に活用した。日本人の満州侵略を正当化するために渤海文化財の捏造までしたのだ。にもかかわらず、国内外で日本の「侵略」は過ちだが、日本が渤海考古学の軸を築いたというような論調が依然として繰り返されている。

◆ロシア学者の名前を削除した中国
 一方、ポノソフは最後まで残ったハルビンのロシア考古学者でもあった。ポノソフは中国の建国から12年も経過した1961年まで黒龍江省博物館で勤務し、ハルビンのロシア学者が調査した遺跡に関するすべての資料を整理して中国の学者に渡した。40年近い時間を満州史研究に捧げたポノソフは62歳になって中国を離れた。しかしすでにソ連の地域になったポノソフの故郷のウラル山脈地域はポノソフを受け入れなかった。ポノソフはオーストラリアで余生を送り、考古学研究を続けた。
 中国はポノソフが残した資料を利用して数十年間、ハルビン一帯の渤海のほか、金国と先史時代を調査した。しかし中国でもポノソフとロシア考古学者の名前は見られない。中国が満州を自国の歴史であることを証明することに熱中し、ポノソフのようなロシア人の研究に背を向けてきたからだ。

◆中国、世界文化遺産登録を推進
 ポノソフ以降、北朝鮮も1963-65年に渤海上京城共同発掘に加わった。しかし中国はその後、この地域に対する支配を固めるためにすべての交流を中断し、今では接近するのも難しい遺跡になった。中国の東北工程はすでに終わったが、中国地方政府は渤海遺跡を観光資源化するために大々的に広報し、世界文化遺産登録も進めている。渤海を白頭山(ペクドゥサン)と共に世界の人々が中国東北地域の代表的な観光資源として記憶すると期待するからだ。
 こうした複雑な歴史紛争の中、韓国の立場を唯一擁護するのがロシアだった。今でもロシアの多くの渤海遺跡が韓国人の手によって研究されている。母国からも捨てられたが、渤海に生涯を捧げたハルビンのロシア研究者こそが国家の利益よりも純粋な学問的熱意で渤海を研究した標本に違いない。荒涼で冷たい北方の原野に捨てられた我々の歴史の遺跡に若き日々を捧げた彼らに対する再評価から渤海の研究は再スタートしなければならない。

     カン・インウク/慶煕大史学科教授
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「「真実を語れ!」…光州民主化運動の歴史として残ったハントリー牧師の記録」

2022年05月20日 | 韓国で
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/43486.html
「The Hankyoreh」 2022-05-17 10:31
 写真186枚、フィルム126カットなど撮影 
 社宅の地下室に暗室を作って現像 
 数人を経て秘密裏に米国へと渡る

【写真】故チャールズ・ハントリー牧師は1980年の5・18光州民主化運動当時、光州基督病院の院牧として在職し、負傷した市民の惨状を写真で記録した。医療スタッフと市民が負傷者を運んでいる=5・18民主化運動記録館提供//ハンギョレ新聞社

 1980年5月21日、銃に撃たれて光州(クァンジュ)基督病院に運ばれたキム・ヒョングァンさん(1959年生まれ・防衛兵)の遺体写真は、凄惨な形状のため5・18光州民主化運動写真集でのみ公開された。故チャールズ・ベッツ・ハントリー牧師(1936~2017、韓国名ホ・チョルソン)が撮ったこの写真は、厳酷な全斗煥(チョン・ドゥファン)政権時代に多くの人々の勇気と知恵が集まり、かろうじて光州の外に搬出されたものだ。

【写真】5・18民主化運動の時の市民軍の車。遠くに朝鮮大学本館と光州の市街地が見える//ハンギョレ新聞社

 5・18民主化運動記録館の今月16日の説明を総合すると、記録館は故ハントリー牧師が光州基督病院の牧師として在職した間に5・18の惨状を撮った写真186枚とフィルム69カット、スライドフィルム57カットの寄贈を受けて保管しているという。 
 1965年に米国の南長老教会の宣教師として韓国に入国したハントリー牧師は、光州基督病院の院牧として働きながら、湖南神学大学で牧会相談学を講義していた。
 彼の人生を変えたのは1980年の5・18光州民主化運動だ。ハントリー牧師は、軍人の銃に撃たれたり銃剣に刺されたりして基督病院に運ばれてきた犠牲者たちの姿に衝撃を受け、記録を始めた。ハントリー牧師とともに当時の状況をアングルに収めた人は、基督病院の医学研究用の写真を担当していた楊林写真館の代表で写真家の故キム・ヨンボクさんだ。ハントリー牧師は監視の目を避けるため、社宅の地下室に暗室を作って数百枚を現像したという。本紙が入手したハントリー牧師の5・18写真の印画紙の裏面には「嘆きの時間。真実を語れ(A time of grief: "Tell the truth!")」という自筆の文字が黒いボールペンで書かれている。

【写真】ハントリー牧師の5・18印画写真の裏面に書かれた自筆の文字。「嘆きの時間。真実を語れ!」//ハンギョレ新聞社
【写真】故チャールズ・ベッツ・ハントリー牧師とマーサ・ハントリー夫妻=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 ハントリー牧師はこの写真を基督病院の看護課長だったアン・ソンレ元「5月の母の家」館長に渡し、「東亜日報」解雇記者のイ・テホさん(78)とカトリック労働青年会全国本部のジョン・ミカエル指導神父を経て、米国に渡った。ハントリー牧師は1985年、米南長老教会の撤収政策で米国に帰った。

【写真】5・18民主化運動当時、戒厳軍の無慈悲な暴力に対抗して武装した市民軍の青年がカービン小銃を持って車に座っている//ハンギョレ新聞社

 1987年9月、カトリック光州大教区の正義平和委員会が発行した「1980年光州民衆抗争記録写真集」にハントリー牧師が撮った凄惨な遺体写真が載せられた。そこには、亡くなった写真家のキム・ヨンボクさんが大きな役割を果たした。アン・ソンレ元館長は本紙に「キムさんがカトリック光州大教区が5・18写真集を作るという話を聞いいて、その時にフィルムを光州大教区にこっそり置いていった」と語った。ハントリー牧師は2017年に米国で亡くなり、2020年に5・18民主化運動記録館で開かれたハントリー牧師写真展には、彼の写真10点余りが展示された。5・18民主化運動記録館のホン・インファ館長は「光州の惨状の決定的証拠を撮ったハントリー牧師とキム・ヨンボクさんの写真を完全に公開する方法を探している」と話した。

【写真】5・18民主化運動当時、光州基督病院に取材に来た外国記者//ハンギョレ新聞社
【写真】故チャールズ・ハントリー牧師は1980年の5・18光州民主化運動当時、光州基督病院の院牧として在職し、負傷した市民の惨状を写真で記録した。献血する外国人=5・18民主化運動記録館提供//ハンギョレ新聞社

チョン・デハ記者、写真/5・18民主化運動記録館提供 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
https://www.hani.co.kr/arti/area/honam/1043123.html
韓国語原文入力:2022-05-17 09:34


http://japan.hani.co.kr/arti/politics/43477.html
「The Hankyoreh」 2022-05-17 05:58
■[独自]「脳の中まで引き裂かれた21歳」光州ヘリ射撃で死亡の可能性、初証言
 5・18当時遺体検案のムン・ヒョンベ元円光大教授 
 故キム・ヒョングァンさんの遺体検案書や写真などを見て所見 
 故チョ・ビオ神父がヘリ射撃を目撃した日に銃傷

【写真】1980年5・18当時、医療スタッフと市民が負傷者を病院に運んでいる。故ハントリー牧師によるこの写真は、当時の緊迫した瞬間をとらえている=5・18民主化運動記録館提供//ハンギョレ新聞社

 5・18民主化運動の際に亡くなったある市民の死因について、鎮圧軍によるヘリコプターからの機関銃を使った銃撃である可能性が高いという意見が、当時遺体を検案した医師から提起された。5・18当時のヘリコプター射撃による弾痕は光州(クァンジ)のチョニルビルディングで発見されているが、ヘリコプターからの射撃による死者や負傷者は確認されたことがない。5・18真相究明委員会の調査が必要だと指摘する声があがっている。
 16日に本紙が光州地方検察庁による1980年6月3日作成の民間人死者165人の検死書類を分析したところ、銃器による死者135人のうちの1人、キム・ヒョングァンさん(1959年生まれ、防衛兵)は、頭部右側が10×7センチ損失し、脳内すら引き裂かれていた。防衛兵のまだら模様の軍服を着ていたキムさんの顔は銃弾によってひしゃげ、形が分からなかった。キムさんの母親のチュ・ウルソクさんは、最初は息子の遺体だと分からずに通り過ぎ、息子の肩にあった入れ墨を見てようやく息子だということを受け入れたほどだった。検死書類では、キムさんは5月21日午後4時ごろ、光州市南区白雲洞(ナムグ・ペグンドン)の線路でM16小銃で撃たれ、光州キリスト教病院に運ばれたとされている。
 キムさんの遺体は、カトリック光州大教区正義平和委員会が1987年5月に出版した「1980年光州民衆抗争記録写真集」に載っている。しかし、その遺体がキムさんのものだということは知られていない。この写真は、当時キリスト教病院つきの牧師だった米国人の故ハントリー牧師が撮ったもの。5・18民主化運動記録館は、キムさんの遺体の状態が凄惨すぎるため、写真は一般公開せず別途管理している。5・18当時、死体検案委員会の医師だったムン・ヒョンベ元円光大学教授は11日、キムさんの遺体の写真を見て「途方もない外力によって脳すらもすべて吹き飛んでしまっている。ヘリ射撃による死の可能性が十分ある」と述べた。

【写真】1980年5月21日、光州上空からのヘリ射撃があった日、南区白雲洞の線路で銃撃されて死亡した故キム・ヒョングァンさん//ハンギョレ新聞社

 キムさんが頭に負った銃傷は、銃弾が体内に入る時に生じる「射入口」と体を突き抜けて出てきた痕である「射出口」が区別できない。銃弾が通過した部位が銃撃の衝撃でひどく損傷しているためだ。M16小銃で撃たれた犠牲者の遺体は射入口より射出口の方が大きいが、それとは異なる。ムンさんが検案を行ったM16による銃傷の犠牲者イ・ブギルさん(1952年生まれ)は、頭部右上に0.5×0.5センチの射入口と2×2センチの射出口があると記録されている。
 ムンさんは「普通、M16の銃傷による死者は穴が開くだけだが、キムさんの遺体の写真を見ると頭全体が一度に吹き飛んでしまっている」と述べた。当時の戒厳軍の個人用火器だったM16小銃は口径5.56ミリの弾丸を、光州に出動したヘリコプターに装着されたLMG機関銃は7.62ミリ口径の弾を使用する。

 キムさんが死亡した5月21日は、故チョ・ビオ神父、故イ・グァンヨンさん、5・18遺族会のチョン・スマン元会長らが、戒厳軍ヘリが空から市民に向かって銃撃しているのを目撃した日でもある。2020年11月30日、光州地裁刑事8単独のキム・ジョンフン判事は「1980年5月21日に(小型攻撃ヘリ)500MDによる機関銃射撃があり、チョ・ビオ神父はこれを目撃したと認められる」と述べている。
 加えて、キムさんが銃撃された5月21日には、銃撃された場所である白雲洞一帯にはまだ戒厳軍が配置されていなかった。小銃による射撃の可能性は低いわけだ。「歩兵第20師団忠正作戦詳報」には、5月21日午後6時55分、木浦(モッポ)へとつながる道路を封鎖するために軍を投入すると記されている。キムさんが光州と木浦をつなぐ道路の入り口である白雲洞で銃に撃たれたのは、これより3時間近く前だった。

【写真】80年5月21日歩兵第20師団忠正作戦詳報//ハンギョレ新聞社

チョン・デハ、キム・ヨンヒ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/area/honam/1042994.html
韓国語原文入力:2022-05-16 13:24
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「軍事要塞に転落した日本最南端の島…「ミサイルでは平和作り出せない」」

2022年05月19日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://japan.hani.co.kr/arti/international/43494.html
「The Hankyoreh」 2022-05-18 18:11
■[ルポ]軍事要塞に転落した日本最南端の島…「ミサイルでは平和作り出せない」
 現場|宮古島を行く 

 台湾近隣の新冷戦の最前線 
 米日の中国牽制戦略に基づき 
 自衛隊のミサイル・レーダー基地を設置 
 国土の0.6%の沖縄に 
 米軍基地70%が集中 
 南西諸島4カ所にミサイル防衛網 
 中国、空母動員し軍事演習を強化 
 住民たち「安全保障を名分に掲げ、犠牲を強要」 
 部隊前で1649回にわたり抗議活動 
 「力対力の対決では平和作り出せない」

【写真】ミサイル部隊がある日本の陸上自衛隊の宮古島駐屯地は、宮古空港から車で10分の距離で、島の中央に位置している。駐屯地正門の様子=キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 日本最南端の沖縄から飛行機でさらに1時間飛ぶと、美しい砂浜で有名な「宮古島」がある。6つの島で構成された宮古島は全体面積が203.5平方キロメートル、韓国の江華島(カンファド、302.6平方キロメートル)より小さい。「宮古ブルー」と呼ばれるほど海が美しく、年間約100万人(2019年基準)以上の観光客が訪れる。
 平和だった島に緊張感が漂い始めたのは、米中葛藤が激しさを増していった2010年代初めからだった。島は沖縄本島と台湾の間に位置しており、中日が激しい領土紛争を繰り広げている尖閣諸島(中国名・釣魚島)からはたったの160キロメートルの距離だ。2019~2020年に自衛隊の「ミサイル部隊」が入ってきて以来、島は名実共に米中対立の最前線となった。15日で本土復帰50周年を迎えた沖縄と宮古島の人々は、このような現実をどう受け止めているのだろうか。

【地図】 軍事基地化する南西諸島 //ハンギョレ新聞社

 11日、本紙の取材陣が訪れた宮古島は梅雨で一日中雨が降ったり止んだりを繰り返していた。ミサイル部隊がある日本の陸上自衛隊宮古島駐屯地は、宮古空港から車で10分ほどの島の中央に位置している。22万平方メートルの敷地にベージュやオレンジ色の建物が並ぶ基地は、一見リゾートを思わせる。車両整備場や警護所、弾薬庫、官舎などがある部隊には自衛隊員約700人が滞在している。
 基地に近づいて鉄製のフェンスの中を覗いてみると、ロマンチックに見える外観とは裏腹に「03式中距離地対空誘導弾」の発射車両など多くの兵器が並んでいた。宮古島駐屯地は2019年3月に開設され、ミサイル部隊は2020年3月に配備された。同日、外郭で訓練があったのか、軍用車両が列をなして部隊に入る姿が目立った。

【写真】メロンとサトウキビ農業を営む仲里成繁さん(68)のビニールハウスは、ミサイル部隊からわずか5メートルの距離にある。後ろに日本陸上自衛隊宮古島駐屯地の建物が見える= キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 部隊の前で会った仲里成繁さん(68)は「ミサイル基地を見るたびにとても腹が立つ」と話した。「政府は安全保障を名分に掲げ、島の住民に犠牲を強いています。また沖縄なんですね」。仲里さんは一瞬感情がこみ上げたのか、しばらく言葉を詰まらせた。彼の怒りのこもった叫びから、本土に復帰してから半世紀が過ぎたが、依然として癒やされない沖縄の傷が垣間見えた。
 日本は1945年4月から6月にかけ、本土を守るため沖縄を盾に米軍を相手に無謀な戦闘を繰り広げた。 この戦闘でおよそ20万人が死亡した。日本本土は1952年4月、米国の占領統治から解放されたが、「軍事的重要性」が大きい沖縄は依然として米国の手中に残された。この時期、日本本土にあった米軍基地が続々と沖縄に移転され、1972年5月の本土復帰後もこの構造は変わっていない。現在、日本国土の0.6%にすぎない沖縄に米軍基地施設の約70%が集中している。沖縄の人々はこれを「差別」とみている。
 メロンとサトウキビを栽培している仲里さんのビニールハウスは、部隊からわずか5メートルの距離にある。「私たちは阿呆ではありません。戦争が起きたら、どこが真先に攻撃を受けるでしょうか。ミサイル部隊のあるまさにここです」。宮古島で生まれ育ち、結婚後、夫婦で農業を営んでいる彼は「ミサイル基地いらない宮古島住民連絡会」の代表を務めている。「私にはとても大事な故郷を、平和な状態に残しておきたいです。私たちはここでずっと暮らしていくつもりです。安心して暮らしたいから、ミサイル基地に反対しているんです」。仲里さんの農家の入口には「自衛隊は宮古住民を守れない」などの横断幕が掲げられていた。
 ミサイル部隊から北東に目を向けると、高さ100メートルの丘の上に約700メートルにわたって様々なアンテナとドーム状の建物が見える。宮古島のもう一つの核心軍事施設である航空自衛隊のレーダー基地だ。この基地には2017年、最先端の警戒管制装置の「FPS7」レーダー2台が配備されている。中国の動きを監視するためだ。宮古島南東沖近くの保良地区には、弾薬庫と射撃訓練場が新たに建設された。
 弾薬庫からわずか200メートル離れた付近に民家があり、住民たちは事故の危険性があるとして反発している。「ミサイル基地いらない宮古島住民連絡会」の清水早子事務局長は「ミサイル部隊が建設され、島全体が軍事要塞化している」とし、「海上保安庁の巡視船がある港湾や滑走路が大きい下地島空港など、島にある主要施設が軍事用に転用される可能性が高い」と語った。

【写真】ミサイル部隊から北東に目を向けると、高さ100メートルの丘の上に約700メートルにわたって様々なアンテナとドーム状の建物が見える。宮古島のもう一つの核心軍事施設である航空自衛隊のレーダー基地=キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 島の住民たちは2015年にミサイル基地建設計画が発表された時から反対闘争を続けてきた。毎週水曜日の午後5~6時には市内で、木曜日の午前9~10時にはミサイル部隊前で抗議活動を繰り広げる。尾毛佳靖子さん(76)は「力と力の対決では平和を作り出せないことを、私たちはすでに沖縄戦で学んだ」とし、「宮古島が軍事基地化されれば、戦争にさらに近づくことになる」と話した。
 腰痛でコルセットまでつけて参加した田畑増男さん(84)も「宮古島は山も川もないほとんどが平野地帯だ。戦争が起きれば逃げる所がない」とし、「率直に言って中国より目の前にあるミサイル基地の方が苦痛で恐ろしい」と訴えた。参加者の中で最も若いシバハラ・シンさん(61)はショッピングモールを駆け回りながら宣伝物を配った。彼は「高齢で体調も良くないのに参加している方々を見ると、知らんぷりできない」として、「この島がどうなるか心配だ」とため息をついた。
 住民の反対にもかかわらず、島にミサイル部隊が建設されたのは、日本政府がここを安保上の要衝地と判断したためだ。中国が軍事的に浮上し、東シナ海と南シナ海で大きな脅威になったことを受け、日本政府は2010年の防衛計画大綱で初めて「南西シフト」に言及した。その後、南西諸島に兵力と兵器を配置するなど、ここに事実上の軍事拠点を作り始めた。
 南西諸島は九州の最南端である鹿児島から台湾を結ぶ海域に一列に位置する長さ1200キロメートルの島嶼群だ。中国が太平洋へと進む通り道に位置している。2010年代半ばから西太平洋への進出を試みる中国と、これを牽制する米日同盟の間で熾烈な駆け引きが行われる「新冷戦の最前線」だ。
 東アジア地域に対する米国の軍事的関与を阻止しようとする中国の軍事戦略「接近阻止・領域拒否」(A2・AD)の中核である第1列島線とぴったり重なる。中国は米空母などの戦略資産が第1列島線内にむやみに接近できないようミサイル戦力を強化する一方、さらに同線を越えた西太平洋まで活動の半径を広げようとしている。今月3~8日にも、中国初の空母「遼寧」が沖縄本土と宮古島の間を通過して太平洋に南下した後、艦載機と艦載ヘリコプターが100回も離着陸する厳しい訓練を行った。
 これに対抗して、日本政府は南西諸島に対する軍備を強化してきた。鹿児島県の奄美大島、沖縄県の宮古島にミサイル部隊を配置し、来年石垣島と沖縄本島(うるま市)にミサイル部隊を新たに設置する予定だ。こうなれば、南西地域4カ所で中国を牽制する「ミサイル防衛システム」が完成する。これらの島に「03式中距離地対空誘導弾」と「12式地対艦誘導弾」を配備し、米軍と合同演習を行うなど、協力を強化していく予定だ。防衛省はまた、来年末までに台湾と最も近い与那国島に電子戦部隊を常駐させ、鹿児島県馬毛島にも自衛隊基地の建設を推進している。

【写真】島の住民たちは2015年にミサイル基地建設計画が発表された時から反対活動を続けている。毎週水曜日午後5~6時には市内で、木曜日午前9~10時にはミサイル部隊前で抗議行動を行っている。今月11日、市内の抗議行動の様子=キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 台湾の有事など万一の事態が発生すれば、この地域に配置された兵力とレーダー・ミサイル網が中国を狙うことになる。逆に中国が台湾に対する軍事行動を決断すれば、それに先立ち同基地を先制攻撃することも考えられる。岸信夫防衛相は3月29日の記者会見で「南西方面の防衛態勢の強化は極めて重要な課題」だとし、今後南西シフトを続ける計画を明らかにした。米国はこの計画を積極的に支援している。
 12日午前9時、陸上自衛隊ミサイル部隊正門前で宮古島住民による抗議活動がいつも通り始まった。すでに1649回目。73歳の清水事務局長は「私たちの力で今の状況を大きく変えるのは難しいかもしれないが、小さな声でも最後まで守ることが大切だ」と語った。住民たちは拡声器を持って叫んだ。「宮古島にミサイル基地はいらない。私たちは平和を望む!」。

宮古島/キム・ソヨン特派員(お問い合わせ japan@hani.co.kr)
https://www.hani.co.kr/arti/international/japan/1043151.html
韓国語原文入力:2022-05-1711:22
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西日本新聞 シリーズ戦後60年  私の8・15 16~17

2022年05月18日 | 個人史・地域史・世界史
https://web.archive.org/web/20070909001432/http://www.nishinippon.co.jp/news/2005/sengo60/sengo5/16.html
「西日本新聞」 20050810付 朝刊掲載
■私の8・15<16> 延岡大空襲 辻久代さん  同僚に化粧を施しひつぎに入れた
 辻久代(つじ・ひさよ)さん(78) 宮崎県延岡市

  空襲警報に逃げ惑う群衆の中に、私も姉と一緒にいました。一九四五年六月二十九日未明、延岡市街地を焼き尽くした延岡大空襲が始まったのです。私は当時、旧宮崎師範学校(現宮崎大)女子部を出て、安賀多国民学校(現延岡中)の教師になりたてでした。
 学校近くに住んでいた私は、空襲の日、延岡に遊びにきた姉が四〇度の熱を出したため、家にこもり、看病をしていました。空襲が始まると、姉も熱どころではありません。私と一緒に家を飛び出し、道に倒れて燃え上がる材木を飛び越え、用水路に肩まで漬かって運良く助かりました。
 そんな時です。「学校に行かなきゃ」。私はその場に姉を残し、学校に向かいました。私たち教師は「空襲があったら学校に集まるように」といわれていたからです。
 学校に着いて、先輩の栗田彰子さん=当時(25)=が亡くなったことを知りました。彼女は、焼夷(しょうい)弾で校舎が燃えるのを防空壕(ごう)の中から見て、消火しようと走り出たとき、焼夷弾が頭を直撃したそうです。
 栗田さんはカナダ生まれの日系二世で、母国の日本語学校の先生を夢見て、母の故郷の宮崎に留学したそうです。眼鏡の奥の目は柔らかく、気取らないすてきな女性でした。
 恐怖の夜が明け、焼けた校舎の前でみんな力なくたたずんでいました。朝までに二十人ほどの教師が集まりましたが、亡くなったのは栗田さんだけでした。
 男性の先生らが、空襲で焼けた廃材を集め始めました。ひつぎを作るためです。私たち女性は、栗田さんの顔に刺さった細かいガラス片を丁寧に針の先で取り、頭の傷口を脱脂綿で覆いました。校庭の花を集めてひつぎに詰め、すすと血で汚れた顔をきれいにふき、同僚の化粧品で顔に化粧も施しました。異国での非業の死。 いかに無念だったことでしょう。延岡中では毎年、延岡大空襲の日に栗田さんの慰霊祭が開かれます。
 あれから六十年。「戦争とは何なのか」と考えるときがあります。日本は敗戦で苦しい時期も経験しましたが、社会は劇的に変わりました。今は自由に発言でき、一人一人を大切にしようとする雰囲気があります。こんな世の中が続いてほしい。栗田さんもそう願っているはずです。

◆延岡大空襲
 米軍は、延岡市を「日本で最も重要な火薬製造施設がある都市」と位置づけ、一九四五年六月二十九日未明に、B29爆撃機で焼夷弾を投下。市街地は焼け野原になり、三百二十人が死亡、約一万五千人が家を焼失した。栗田彰子さんが亡くなった安賀多国民学校も同市の中心市街地にあった。


https://web.archive.org/web/20070908100802/http://www.nishinippon.co.jp/news/2005/sengo60/sengo5/17.html
「西日本新聞」 20050811付 朝刊掲載
■私の8・15<17> ブーゲンビル島 寄村文利さん 大分県宇佐市
 寄村文利(よりむら・ふみとし)さん(85) 大分県宇佐市

  ウォー。ジャングルの中で飢えたのか、病んだのか…、倒れた兵隊の獣のようなうめき声。栄養失調で腹がぱんぱんに膨れた遺体。鼻の奧を突き刺すような強烈な腐敗臭。
 南方のソロモン群島北端、ブーゲンビル島での終戦前後の約三年間はこの世の地獄。体験は復員後もずいぶん長い間、私を苦しめました。いまも忘れていません。若い世代に、この戦争の悲惨さを知ってもらいたい。平和の尊さをあらためて感じてもらいたい。昨年八月、聞き書き文集づくりを思い立ったのは、そんな理由からです。
 大分県宇佐市内の小学校教員だった私は一九四一年六月に召集されました。食糧、弾薬を運搬する輜重(しちょう)兵として中国の湖南省、次いでブーゲンビル島に転戦しました。
 待ち受けていたのは飢餓です。陣地でイモを作っても空腹を満たすほどではありません。「毎日、大便をする暮らしがしたい」。仲間同士で、そう言い合っていました。
 ミミズ、セミを焼いたり、木の根っこやヤシの葉を煮たり。時折配給される野ネズミを煮ることが楽しみでした。それでも二匹を分隊数人で分け合うので、口にするのはわずかです。
 「お国のために」という軍国教育で育ちましたから戦争を恨む気はありません。しかし、食糧などの補給路の確保を考えずに戦争ができるわけがない。
  最前線で手足をもがれて退却してくる兵隊に対して「持ち場に戻れ」と血相を変えて叫んだ参謀さえいました。軍の上層部は兵隊の命など、将棋の駒ぐらいにしか思っていなかったことがよく分かりました。
 復員後は左肺の三分の二以上を切除するなど、無理が利かなくなってしまいました。高温多湿のジャングルでの生活が体をむしばんでいたのでしょう。今は文集を通じて、戦傷病者の苦しみが子どもたちの平和教育の教材になればと願っています。
 痛感しているのは文集をつくり始めたのが「遅すぎた」ということ。戦争体験者の多くの方が既に鬼籍に入っています。貴重な証言の機会は失われていました。文集「労苦を越えて」には「第一集」と銘打ちました。しかし、この先続けられるかどうか。
 戦争の記憶がどんどん風化しているようで気がかりです。 

◆ブーゲンビル島
 ガダルカナル、ラバウルなどと並ぶ太平洋戦争激戦地の一つ。
 一九四三年四月、前線視察のため同島を訪れた山本五十六連合艦隊司令長官が米軍機に撃墜され戦死したことで知られる。同年十一月に西部タロキナに米軍が上陸。飛行場を築いた敵に対し日本軍は二度総攻撃を行うが失敗。その後、米軍に代わったオーストラリア軍との間で敗戦まで戦闘が続いた。現パプアニューギニア領。
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「韓国慰安婦被害者「残された時間少ない」 新大統領に問題解決促す」

2022年05月17日 | 日本軍隊性奴隷
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20220517002900882?section=news
「聯合ニュース」 2022.05.17 16:00
■韓国慰安婦被害者「残された時間少ない」 新大統領に問題解決促す
【大邱聯合ニュース】旧日本軍の韓国人慰安婦被害者、李容洙(イ・ヨンス)さんは16日、高齢の被害者たちに残された時間は少ないとして、尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領に対し慰安婦問題の速やかな解決を求めた。

【写真】李容洙さん=16日、大邱(聯合ニュース)

 李さんは南東部の大邱市にある「ヒウム日本軍慰安婦歴史館」で、聯合ニュースなど国内外のメディアに対し「尹大統領が選挙前にここを訪れ、『大統領になれなくても慰安婦問題を解決する』と言ったので安堵(あんど)のため息をついた」と述べ、大統領や外交部が国連拷問禁止委員会(CAT)への付託を決めれば解決すると訴えた。
 また、慰安婦問題解決の7原則として▼日本政府が犯罪の事実を認めること▼正式な謝罪▼法的賠償▼真相究明▼歴史教科書への記録と正しい歴史教育▼追悼碑と資料館の建設▼戦犯の処罰――を挙げた。
 李さんはこのような原則が記された紙を掲げながら「尹大統領が七つの原則を実行することが真の解決だ」とし、このうち一つも実現していないため最終手段としてCATへの付託が必要だと強調。2015年の韓日合意は無効だとして、日本が拠出した10億円も返還すべきだとの考えを示した。
 尹錫悦政権が公約に掲げた、慰安婦被害者の支援を担当する女性家族部の廃止を巡っては「廃止してはならない」とし、被害者を殺すのも同じだと語気を強めた。
 李さんは新政権で韓日関係が改善することに期待を示す一方、「日本の正式な謝罪なしに韓日関係の改善はない」との原則は変わらないと述べた。
 正式な謝罪とは日本の首相が、世界が確認できる方法で慰安婦の被害を認め、謝罪することを意味する。
 李さんは「われわれ(慰安婦被害者)の問題を早く解決して日本と関係改善を議論しなければならない」と力を込めた。
 終始落ち着いて質問に答えていた李さんは、「先日会った被害者が私に『ヨンスよ、早く解決するのを見て死ななくてはならない。大統領に会って必ず伝えてほしい』と言った」と涙ぐみ、「私も高齢なので歳月は待ってくれなさそうだ。大統領が必ずこの問題を解決してくださることを願う」と語った。


http://japan.hani.co.kr/arti/politics/43435.html
「The Hankyoreh」 2022-05-12 07:36
■ソウル高裁「外交部は『慰安婦』合意当時の挺対協代表との面会記録を公開すべき」
 韓国の裁判所が2015年の「韓日日本軍慰安婦合意」前にユン・ミヒャン議員(無所属)との面会記録の公開を外交部に命じる判決を再び言い渡した。
 ソウル高裁行政4-1部(クォン・ギフン裁判長)は11日、保守系の弁護士団体「朝鮮半島の人権と統一のための弁護士会」が外交部を相手取って起こした情報公開拒否処分取り消し訴訟の控訴審で、一審同様、原告一部勝訴の判決を下した。
 ユン議員は2015年韓日合意の妥結前に韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)常任代表として外交部と面会した。ユン議員はこの面会を通じて日本政府による10億円の拠出など合意内容を事前に知っていたにもかかわらず、「慰安婦」被害者たちに知らせなかったという疑いを持たれていた。これに対し、同弁護士団体は2020年5月、外交部に面会記録の公開を請求したが、受け入れられなかったため訴訟を起こした。
 昨年2月、一審裁判所は同団体が要請した資料5件のうち4件を公開し、外交的に敏感な事項を除いた内容を公開するよう外交部に命じるとともに、「公開による公益、すなわち国民の知る権利を充足し、事実関係に対する不毛な論争を防止することで得られる利益は決して少なくない」と判決の理由を説明した。
シン・ミンジョン記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr)
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/1042456.html
韓国語原文入力:2022-05-1117:54


https://japanese.joins.com/JArticle/290945?servcode=400&sectcode=400
「中央日報日本語版」 2022.05.12 07:40
■韓国裁判所「慰安婦合意関連の尹美香面談記録を公開せよ」再度判決
 2015年韓国外交部と日本政府のいわゆる「慰安婦合意」に関連し、韓国裁判所が当時韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)の常任代表だった無所属の尹美香(ユン・ミヒャン)議員の面談記録を公開するよう判決を下した。
 ソウル高裁行政第4-1部(クォン・キフン、ハン・ギュヒョン、キム・ジェホ部長判事)は、面談記録を公開するように判決した1審に従わないで、外交部が提起した控訴を11日、棄却した。
 これに伴い、控訴審裁判部は外交部が公開を拒否した情報5件のうち4件を公開するように命じた1審判決と同じ判断を下した。
 これに先立ち、韓半島(朝鮮半島)の人権と統一のための弁護士会(韓弁)は、2020年6月に尹議員が慰安婦合意の内容を知っていたのか、彼女の意見が合意に反映されたのかについて国民は知る権利があるとし、外交部に面談資料を請求したが非公開の決定を通報されると訴訟を提起した。
 昨年2月に1審裁判を担当したソウル行政裁判所は外交部が公開を拒否した情報5件のうち1件を除いた残りすべてを公開するよう命じる判決を下した。
 この情報は外交的に敏感な事項を含んでいないため非公開理由に該当しないか、公開による公益が少なくない反面損なわれる国益が明確ではないとの判断だった。


https://jp.yna.co.kr/view/AJP20220511003300882?section=news
「聯合ニュース」 2022.05.11 16:19
■韓国政府と慰安婦団体元代表の面会記録 二審も公開命じる
【ソウル聯合ニュース】韓国の保守系弁護士団体「朝鮮半島の人権と統一のための弁護士会」が外交部に対し、韓日慰安婦合意(2015年)当時、慰安婦被害者支援団体「韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)」の常任代表だった尹美香(ユン・ミヒャン)氏(現国会議員)との面会記録を公開するよう求めた訴訟の控訴審で、ソウル高裁は11日、記録の一部公開を命じた一審判決を支持する判決を言い渡した。
 一審判決では外交部が公開を拒否した面会記録5件のうち4件を公開するよう命じていた。
 弁護士会は20年6月、尹氏が慰安婦合意の内容を事前に知っていたのか、尹氏の意見が合意に反映されたのかについて知る権利が国民にはあるとして外交部に面会記録の公開を請求。同部が非公開決定を下すと、弁護士会は提訴した。一審でソウル行政裁判所は外交的に敏感な内容が含まれていないため非公開の理由に該当せず、公開による公益がある一方、損なわれる国益は明確ではないと判断。具体的な外交協議内容など敏感な事項は除外して公開するよう命じた。
 外交部は公開を命じられた記録に情報公開法上の非公開情報が含まれているとして控訴していた。
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「韓国軍ベトナム民間人虐殺被害者、8月に法廷で直接証言へ」

2022年05月16日 | 韓国で
https://japanese.joins.com/JArticle/290893?servcode=400&sectcode=400
「中央日報日本語版」 2022.05.11 07:32
■韓国軍ベトナム民間人虐殺被害者、8月に法廷で直接証言へ

【写真】ベトナム中部フォンニィ・フォンニャット村の生存者、グエン・ティ・タンさん(61)[写真 韓国・ベトナム平和財団]

 ベトナム戦争当時に韓国軍が犯した民間人虐殺の被害者が8月に韓国の法廷に初めて立つ。フォンニィ・フォンニャット民間人虐殺事件の生存者であるグエン・ティ・タンさん(62)が韓国を相手取り損害賠償を請求した事件の直接証人として出席する。
 この事件を審理するソウル中央地裁は10日に弁論期日を開き、8月9日に当事者尋問手続きを持つと明らかにした。韓国の法廷でベトナム戦民間人虐殺と関連してベトナム人を尋問するのは初めてだ。
 裁判所はこの日、戦争当時南ベトナムの民兵隊員だったグエン・ドク・チョイさんも証人として採択し、同日に証人尋問を開くことにした。グエン・ドク・チョイさんは事件当時南ベトナム軍の無電内容を聴き、虐殺現場近くに移動しながらフォンニィ村が燃える場面を目撃し銃撃の音を直接聞いた人物だ。
 グエン・ティ・タンさん側は「グエン・ドク・チョイさんが当時現場に入って犠牲者を救助したりもした」と説明した。
 原告と被告の双方は当事者と証人のベトナム語答弁を通訳する通訳人選定問題をめぐっても攻防を行った。
 グエン・ティ・タンさん側は「法廷に立つことになったベトナム人2人が中部地域の方言を使うため円滑に通訳できる人が必要だ」と強調した。その上で特定の通訳人を指定してほしいと裁判所に要請した。
 これに対し韓国政府側は「原告が要請した通訳人が韓越平和財団会員で客観性を担保できない」と明らかにした。裁判所も「訴訟関係人がベトナム語を分からない状態で通訳をどのように検証するかの問題が生じかねない。裁判所で該当地域の方言が可能な通訳人を探す」とした。
 グエン・ティ・タンさん側は過去に国家情報院がベトナム参戦軍人を相手に調査を行いフォンニィ・フォンニャット事件に対する資料を持っているのにこれを公開しないなど消極的な対応をしているという立場だ。その上で「政府側代理人が国家情報院に資料を要請した事実があるのかだけでも教えてほしい」と明らかにした。
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「「慰安婦」被害者に対する侮辱発言の大統領秘書官、結局辞任へ」

2022年05月15日 | 日本軍隊性奴隷
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/43462.html
「The Hankyoreh」 2022-05-15 00:22
■「慰安婦」被害者に対する侮辱発言の大統領秘書官、結局辞任へ
 過去の発言もそのままに 
 常識はずれの発言と抗弁

【写真】キム・ソンフェ大統領秘書室多文化宗教秘書官。背景写真は龍山の大統領執務室=大統領秘書室提供/聯合ニュース

 同性愛嫌悪発言や日本軍「慰安婦」被害者を侮辱する発言で物議をかもした大統領秘書室のキム・ソンフェ宗教多文化秘書官が、13日辞任した。尹錫悦大統領夫人のキム・ゴンヒ氏との親交関係で抜擢されたのではないかと話題となった後に過去の嫌悪発言が明らかになり、さらに釈明の過程で批判をふくらませ、事実上更迭されたかたちだ。尹錫悦政権の公職者の検証に穴が開いているという批判は避けられないものとみられる。
 大統領室の報道官室は同日午後5時50分、「大統領に迷惑をかけないようにするため、自ら辞任する」というキム秘書官の発言を伝える形で辞任を伝えた。キム前秘書官は過去の書き込みで「同性愛は精神病の一種」と主張し、また、日本軍「慰安婦」被害者の賠償要求を「花代(性売買の代価)」と表現した事実が明らかになり、批判を呼んだ。11日、自身のフェイスブックに「行き過ぎた表現については謝罪申し上げる」と投稿したが、自身に対する批判のことを「ダブルスタンダードを掲げる586(80年代に民主化運動に関わった人々)勢力と北朝鮮に追従する主体思想派を批判したことに対する報復」だと主張し、「同性愛は治療によって変わると考える」という嫌悪表現を繰り返した。「朝鮮時代の女性の半分は性の慰みものだった」という過去の寄稿が明らかになると、翌日またフェイスブックに「(朝鮮時代には)結局、女性人口の半分はいつでも主人である両班(ヤンバン)の性的快楽の対象だった」という誤った主張と抗弁で、再び世論の叱責を受けた。大統領室の参謀がSNSで個人の身上問題に対して抗弁し、波紋をさらに拡大させる行動は、非常に異例のことだった。大統領室内には、キム前秘書官の「SNS説話」が理解できないという雰囲気が漂う。大統領室の高官は「正式にSNS自制令を下したことはない」としながらも「(SNSの自制は)公職にいる人間の常識だ。個人的には問題があると思う」と述べた。
 さらに、キム前秘書官が2020~2021年に共に民主党のイ・ジェミョン前大統領選候補と文在寅前大統領について「従北(北朝鮮に追従する)左派」、「金日成首領主義」とし、イデオロギーのレッテル貼り非難していたことが本紙の報道で確認された。パン・ギムン前国連事務総長のファンクラブのコミュニティサイトに「従北化、組織暴力団カルテル化された文在寅・李在明集団から、誇らしい民主化運動の正統性を取り戻さねばならない」、「文在寅の『クッポン主義』(自国文化を過剰に誇り陶酔すること)は、金日成主義の追従作」、「“私たちを地上の楽園へと導いた金日成首領”を、文在寅首領に替えようとしている」と主張したもの。
 大統領室の参謀らはこの日午前、「キム秘書官の問題で世論が非常に良くない」とし、対策を議論したという。世論悪化のため、結局「辞任」へと舵を切ったものとみられる。
キム・ミナ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
https://www.hani.co.kr/arti/politics/politics_general/1042798.html
韓国語原文入力:2022-05-13 21:59


https://jp.yna.co.kr/view/AJP20220513005000882?section=news
「聯合ニュース」 2022.05.13 19:35
■韓国大統領室の秘書官が辞任へ 慰安婦被害者など嘲弄=新政権で初
【ソウル聯合ニュース】韓国大統領室のキム・ソンフェ宗教多文化秘書官が辞任する意向を明らかにした。大統領室が13日、明らかにした。キム氏は同性愛者や旧日本軍の慰安婦被害者を嘲弄(ちょうろう)するような発言をSNS(交流サイト)に投稿して物議を醸していた。
 尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権が発足してから、大統領室の秘書官が辞任するのはこれが初めて。
 キム氏は自身のフェイスブックに、「同性愛は精神病の一種」と書き込んだり、慰安婦被害者の補償要求を「花代」の請求などとやゆする文を掲載したりしていた。


http://japan.hani.co.kr/arti/politics/43452.html
「The Hankyoreh」 2022-05-14 09:41
■正義連「尹大統領は慰安婦被害者を侮蔑した秘書官を直ちに解任すべき」
 多文化宗教秘書官、「慰安婦」被害者を侮蔑する発言 
 「反女性思考と反人権的歴史観をあらわに」

【写真】キム・ソンフェ大統領秘書室多文化宗教秘書官。背景写真は龍山の大統領執務室=大統領秘書室提供/聯合ニュース

 正義記憶連帯(正義連)は13日、日本軍「慰安婦」被害者を侮蔑したキム・ソンフェ大統領秘書室多文化宗教秘書官を解任するよう求めた。
 正義連は13日午後、文書で立場を表明し、その中で「尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領は何をためらうのか。キム・ソンフェ秘書官を直ちに解任せよ」と述べた。キム秘書官は、日本軍「慰安婦」被害者のことを性売買の女性と侮蔑した文章を過去にSNSに投稿していたことが明らかになり、批判を受けている。
 同氏は2019年9月、自身のフェイスブックに、日本軍「慰安婦」被害者の賠償要求について「政府が乗り出して、まだもらっていない花代(性売買での代価)でも引き出せというのか」と投稿し、1カ月間アカウントが停止されたと明かしている。このような事実が明らかになり批判を受けた後も、キム秘書官は12日に「朝鮮時代の女性人口の半数は、常に主人である両班(ヤンバン)の性的快楽の対象」との内容を投稿している。
 正義連はこれについて「古今東西の女性に対する性搾取があった歴史は事実だが、これを体系的で組織的な性奴隷制度に作り上げ、女性たちを強制動員した犯罪の主体は日本軍だった」と指摘した。そして「キム秘書官は、過去に我々にもこのようなことがあったが、日本軍性奴隷制度には問題がないと主張したいのか」とし、「キム秘書官が持つ反女性的思考と反人権的歴史観をあらわにしているものに他ならない」と述べた。
 正義連は「キム秘書官の『もらっていない花代』とする妄言は、日本軍慰安婦問題に関する『2015韓日合意』を擁護しつつ登場した」とし、「2015韓日合意は被害者中心のアプローチという基本原則さえ守られていない拙速合意であり、平和の少女像の撤去などの屈従的裏合意によって激しい国民的抵抗にぶつかった事件」と述べた。
 正義連は「違いと多様性を誰よりも尊重すべき多文化宗教秘書官が、むしろ差別と嫌悪、対立を煽っているとは信じがたい」と述べ、キム秘書官の解任を求めた。
ソ・ヘミ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/1042771.html
韓国語原文入力:2022-05-13 15:20


https://jp.yna.co.kr/view/AJP20220511002600882?section=news#none
「聯合ニュース」 2022.05.11 15:33
■韓国慰安婦支援団体「日本の謝罪が先」 関係改善目指す尹大統領を批判
【ソウル聯合ニュース】旧日本軍の慰安婦被害者を支援する韓国の市民団体「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯(正義連)」は11日、慰安婦問題の解決を韓日両国の政府に促し、日本との関係改善に意欲を見せる尹錫悦(ユン・ソクヨル)新大統領を批判した。

【写真】水曜集会の様子=11日、ソウル(聯合ニュース)
【写真】李容洙さん(資料写真)=(聯合ニュース) 

 正義連のハン・ギョンヒ事務総長はソウルの日本大使館前で開いた慰安婦問題の解決を求める定例集会「水曜集会」で、尹大統領は就任前から日本に政策協議代表団を派遣して関係改善への意欲を鮮明にしたとし、「植民地と戦争をたたえる日本政府の欺瞞(ぎまん)的な態度に、尹大統領の周囲の人々は一言も対応しなかった」と指摘した。
 続けて、「韓日関係の改善より日本政府の責任の認定と再発防止を前提とする真の謝罪が先だ」としたうえで、「反省するどころか被害者をやり込め、脅迫する加害者の態度が変わらなければ、どんな合意も後退にすぎない」と強調した。
 一方、慰安婦被害者の李容洙(イ・ヨンス)さんはこの日、正義連側に送った手紙で水曜集会の参加者に感謝を伝え、体の具合が悪く参加できないことをわびた。
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「起源は日帝の総督官邸…「83年にわたり最高権力の空間」大統領府秘史」

2022年05月14日 | 朝鮮史
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/43444.html
「The Hankyoreh」 2022-05-13 03:13
■起源は日帝の総督官邸…「83年にわたり最高権力の空間」大統領府秘史
 [ノ・ヒョンソクの時事文化財] 
 景福宮の後苑、日帝の総督官邸が起源 
 紆余曲折の末、解放の6年前に完成 
 戦争3日目にしてやってきた金日成 
 3回滞在も、什器には触れず 
 フランチェスカ女史の回顧談に 
 「景武台は自分のものになると確信」解釈

【写真】1910年から1939年まで第1~7代朝鮮総督の居所だったソウル南山麓の倭城台官邸。 解放後、国立博物館として使われ、1950~60年代に撤去。正確な撤去時期は不明=ソウル歴史博物館提供//ハンギョレ新聞社

 「本日をもって青瓦台(大統領府)大統領時代が終わります」。
 9日、大統領府からの最後の退勤をした文在寅(ムン・ジェイン)前大統領が見送る人々の前で叫んだ言葉は、重みのある宣言のように聞こえた。創氏改名で悪名高い第7代朝鮮総督、南次郎(1874~1955)が、朝鮮王朝の正宮である景福宮(キョンボックン)の後苑に景武台(キョンムデ)新官邸を建てて1939年9月20日に入居したことから始まった最高権力の空間の83年の歴史(正確には82年8カ月)が、ピリオドを打ったという意味を持つからだ。
 1939年9月は日中戦争において中国の反撃が本格化していたほか、ドイツがポーランドに侵攻したことで第2次世界大戦が勃発したばかりの時期だった。不安な国際情勢が最も大きな問題となっていたため、総督の新官邸建設のニュースを当時のメディアは大きくは扱わなかった。1939年9月21日付の「東亜日報」2面には、景武台総督官邸の落成式の記事と写真が掲載されている。日本の神社から派遣された神官が白い服を着て官邸入口に護符をペタペタとはりつけて儀式を行っており、その後ろでは総督府の官僚たちが頭を下げている。写真に付け加えられた記事は、2年の歳月をかけ48万ウォンの公費で竣工した新総督官邸の華やかな落成式が、9月20日午前11時から南総督と総督府ナンバー2の大野政務総監、各局の課長の参列の下に行われ、2日後の22日に南総督夫妻と後藤秘書官の一家が新官邸と官舎に移る予定だと伝えている。

【写真】1993年10月、撤去中の大統領府旧本館。旧本館は20世紀初めの日本の伝統的な屋根様式と西欧のモダンな立方体建築が融合した建築で、日帝の公共機関の官邸の権威的な様式を踏襲していた=国家記録院提供//ハンギョレ新聞社

 新官邸を世の話題の的にしたのは「朝鮮日報」だった。南が入居して10日が過ぎた同年10月3日付の朝鮮日報が、1面に新官邸の単独探訪記を載せたのだ。朝鮮人を兵士や労働者として徴用する強制動員政策が露骨になっていた時期だった。南総督の入居を祝うとして書かれたこの記事は「景武台の松林を道場として謹厳に健康な日課を送る」という大見出しと「老総督の新官邸生活訪問記」という小見出しが付いている 南総督の景武台官邸への入居を祝うために、朝鮮日報の当時のパン・ウンモ社長とイ・フング主筆が果物を手土産に訪ね、あいさつしながら交わした会話、景武台内部の風景、そこから眺めた京城の風景を紹介している。記事は、「紅顔白髪」の南総督がいつもと同じように賑やかに一行を迎え、珍しい草木と石灯籠のある庭園、鎮海(チンヘ)から取り寄せた金魚やコイが遊ぶ池、官邸の裏にある白岳山(ペガクサン、北岳山の異称)の麓の散策路まで見物させてくれたと説明しつつ、このように記している。
 「総督は、再び足を運んで構内を見物させてやると言って山麓に案内する。庭園の前に回って山麓の陸橋に上がると、かつて景武台の後ろにあった朝鮮の建物をここに移して…。六角亭に登ると、木の海のような松林の向こうに南山以北の城内一帯が広がり、眺めがとても良かった」。

【写真】1931年、日本の陸軍大臣在職時代の南次郎。5年後、朝鮮総督に就任する=パブリックドメイン//ハンギョレ新聞社

 多くの人々が看過しているが、権力の空間である大統領府の起源は、実は朝鮮総督府庁舎の建設が決定的な背景となっている。1926年、景福宮を目隠しするように総督府庁舎が建設された後にも、依然として会賢洞(フェヒョンドン)近くの南村(ナムチョン)の倭城台(ウェソンデ)官邸にとどまっていた総督が通勤するには距離が遠く、警護上の不便さもあって、1930年代半ばに移転方針が決定されたが、工事は遅れた。紆余曲折の末に南総督が赴任した1937年に着工されたものの、日中戦争にともなう物資不足と戦時経済統制により1938年に一度工事が中断され、1939年9月20日に日本の神官が参席して伝統的な神道の儀式を挙行し、官邸が落成した。500年の朝鮮王朝の威厳と気品が漂う、国の王宮である景福宮の象徴的空間への官邸の建設は、銃刀を前面に押し立てた日帝の威力をもってしても、事実上は一気にはなしえなかったのだ。総督府庁舎の隣の西村(ソチョン)と北村(プクチョン)に日本人の社宅街や京城医専病院などの官公庁が確実に建てられた後である1939年に、すなわち解放のわずか6年前に景武台官邸が完成したというのは、じっくり考えるべきことだ。空間的に朝鮮を完全に統制していることを示す象徴的な作業が、解放をわずか6年後に控えた時期にようやく最終的に完成したことを示しているのだ。青瓦台官邸は、このような日帝の象徴的な空間の侵奪に、いかに長い時間がかかったかを証言する歴史的証拠としても意味がある。
 南以降、1942~45年に総督として在任した小磯國昭と阿部信行は、まさにこの官邸で、人材および物資の供出令、徴兵令、挺身隊動員など、最後の悪あがきの強制動員と搾取政策を議論し、実行に移した。官邸と龍山(ヨンサン)の朝鮮軍(朝鮮駐留日本軍)司令部は、朝鮮半島の収奪と侵奪の二大中枢拠点だった。朝鮮軍司令官出身の南は、部下たちが守る龍山の朝鮮軍司令部も統治の手段として活用した。総督官邸と司令部は一体だった。
 解放後、総督阿部が什器を燃やした官邸を、米軍政司令官ハッジはそのまま使用する。李承晩(イ・スンマン)が続いて景武台を押さえ、朝鮮戦争開戦からわずか3日でソウルを占領した金日成(キム・イルソン)は3度ソウルを訪問し、景武台に滞在した。しかし、李承晩(イ・スンマン)の妻フランチェスカが生前、知人たちに打ち明けた回顧によると、金日成は内部の家具や什器にほとんど手をつけなかったと伝わる。陸軍参謀総長を務めたペク・ソニョプ(1920~2020)はこれについて、2016年に出版した回顧録で、「権力に敏感だった金日成が『景武台はまさに自分のもの』という考えから、大切に保存したと考えた方が合理的だ」と解釈している。
 1968年、北朝鮮の政権は特殊部隊を送って大統領府襲撃作戦を展開したが、失敗に終わる。深刻化した南北政権の分断と対立は、官邸をより民意とかけ離れた権力の鋼鉄の城にした。このような秘史は、大統領府という空間の歴史が単なる歴代大統領の統治史ではなく、日帝侵奪史の本流から始まり、分断時代へとつながる朝鮮半島の苦難に満ちた現代史そのものだったことを悟らせてくれる。

ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/1042514.html
韓国語原文入力:2022-05-12 04:59
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「米先住民の寄宿学校で「500人超死亡」 英語名に改名、体罰も」

2022年05月13日 | 国家・社会
https://parstoday.com/ja/news/world-i97680
「ParsToday(イランのニュースサイト) 」 May 12, 2022 20:52 Asia/Tokyo
■米先住民の寄宿学校跡で、子どもの埋葬地53カ所確認
 アメリカ内務省が、先住民を集めた寄宿学校の跡地で子どもの埋葬地が少なくとも53カ所確認されたことを明らかにしました。
 朝日新聞などのメディアによりますと、同国内務省が11日に公表した、先住民の子どもを対象とした寄宿学校の実態についての初の調査報告書では、連邦政府が同化政策などの一環で運営に関与した寄宿学校は計408校あり、子どもの埋葬地は少なくとも53カ所確認されたとされました。
 報告書は、このうち約19校で500人超が死亡したとしており、確認できる死者数は今後も大幅に増えるとみられます。
 寄宿学校は、子どもたちを強制的に移住させることで、先住民の文化的同化を進め、領地を取り上げる目的で運営されていました。報告書では、1819年から1969年までの150年間で、連邦政府が資金面などで支援をした寄宿学校は計37州で408校存在し、本土のほかにもアラスカ州で21校、ハワイ州で7校あったとされ、その約半数は、宗教団体も運営に携わっていたということです。
 これらの学校では同化政策を進めるため、子どもを英語名に改名したり、先住民の言語使用を禁じたり、軍事的な訓練を行わせたりしていました。さらに、ルールに従わない場合は独房への収容や体罰、食事を与えないなどの罰を使ったとされています。
 

https://www.asahi.com/articles/ASQ5D2G8KQ5DUHBI008.html
「朝日新聞デジタル」 2022年5月12日 8時48分
■米先住民の寄宿学校で「500人超死亡」 英語名に改名、体罰も

【写真】米サウスダコタ州ラピッドシティーにある、先住民の子どもを対象とした寄宿学校の元校舎=AP

 米内務省は11日、先住民の子どもを対象とした寄宿学校の実態について、初の調査報告書を公表した。それによると、連邦政府が同化政策などの一環で運営に関与した寄宿学校は計408校あり、子どもの埋葬地は少なくとも53カ所確認されたという。報告書は、このうち約19校で500人超が死亡したとしており、確認できる死者数は今後も大幅に増えるとみられる。
 報告書によると、寄宿学校は子どもたちを強制的に移住させることで、先住民の文化的同化を進め、領地を取り上げる目的で運営された。1819年から1969年までの150年間で、連邦政府が資金面などで支援をした寄宿学校は計37州で408校あり、本土のほかにもアラスカ州で21校、ハワイ州で7校あった。約半数は、宗教団体も運営に携わっていたという。
 これらの学校では同化政策を進めるため、子どもを英語名に改名したり、先住民の言語使用を禁じたり、軍事的な訓練を行わせたりした。ルールに従わない場合は独房への収容や体罰、食事を与えないなどの罰を使ったという。また、「初期分析」の結果として、約19校で500人超の死亡が確認されたという。
 先住民の子どもを対象とした寄宿学校をめぐっては昨年、カナダの複数の跡地で多数の遺体が埋葬されている形跡が見つかり、問題となった。これを受け、ネイティブアメリカンとして初の閣僚でもあるハーランド内務長官が米国でも実態調査を行うと表明していた。  (ニューヨーク=中井大助)


https://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%A4%96%E4%BA%A4%E9%83%A8-%E5%85%88%E4%BD%8F%E6%B0%91%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%AF%E7%B1%B3%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%BD%AA/ar-AAXddWa
「新華社通信」 2022年5月13日
■中国外交部「先住民問題は米国の原罪」

【写真】記者会見に臨む中国外交部の趙立堅報道官。(資料写真、北京=新華社配信)

【新華社北京5月13日】中国外交部の趙立堅(ちょう・りつけん)報道官は12日の定例記者会見で、米政府が運営するインディアン寄宿学校で先住民の子ども500人以上が死亡したとの報告書を米内務省が11日に発表したことについてコメントし、米国は先住民に対する非人道的虐殺と迫害の上に建国されており、先住民問題は米国の原罪だと指摘した。

 趙氏は次のように述べた。報告書は、米国のインディアン寄宿学校における先住民の子どもたちへの虐待の悲劇的な歴史を裏付けるもので、調査が進むにつれて、死者の数は数千人から数万人に上ることが予想されている。

 報告書は「何度も求められてやっと出てきたもの」で、これまで米政府は、これらの学校の実態について、公式な統計を取ったことがなく、これらの学校に通っていた先住民の子どもたちがどのくらい死亡し、行方不明になったかについて確認してこなかった。実際に米国は当初、この歴史を認めようとせず、意図的に隠していたが、最終的に先住民や国内外の強い圧力によって調査せざるを得なくなった。そして、調査が行われると、世界を驚かせる事実が明らかになった。報告書によると、1819〜1969年に、400校以上のインディアン寄宿学校で、先住民の子どもたちが鞭打ちや性的虐待、強制労働、深刻な栄養不良などの不当な扱いを受け、500人以上の子どもたちが死亡したことが明らかになった。

 米国の建国の土台は、先住民に対する非人道的虐殺と迫害の上に築かれたものだ。先住民問題は米国の原罪であり、インディアン寄宿学校は中でも突出した証拠の一つである。かつて北米の主体的な人口だったインディアンは、虐殺や追放によって激減し、現在では米国の人口の2%しかいない。先住民の子どもたちを強制的に分離させることによる文化的同化や土地の強奪は、何世代にもわたり、癒すことのできない傷を彼らに与えてきた。アメリカン・インディアンは今なお、差別を受け、健康への不安を抱え、生活苦が続いている。米国の全ての民族の中で、インディアンは最も平均寿命が短く、貧困と若者のアルコール依存症の割合が最も高く、コミュニティーの医師対患者の比率が最も低い。19年にはインディアンの約25%が貧困状態にあり、これは全国平均の2.5倍に当たる。

【写真】米ニューヨークで、白人警官の不適切な法執行で死亡したアフリカ系米国人ジョージ・フロイドさんの追悼集会に参加する人々。(2021年5月25日撮影、ニューヨーク=新華社記者/王迎)

 米国のインディアン寄宿学校の暗い過去は、米国における体系的な人種差別主義と人権問題の氷山の一角に過ぎない。アジア系やアフリカ系、ラテン系、イスラム系などのマイノリティーは、いまだに自由に呼吸することも、安全を確保することもできていない。米国の研究機関のデータによると、全米のアジア系住民に対するヘイトクライムは21年には4.4倍に急増した。タルサ人種虐殺からジョージ・フロイド氏、そして最近の警察の残虐行為によって死亡したミシガン州のパトリック・リョーヤ氏に至るまで、人種差別の暗雲の下で命を落としたアフリカ系アメリカ人のリストは今なお増え続けている。米国の人口の19%を占めるラテン系は米国の富の2%しか所有しておらず、イスラム教徒の93.7%は「イスラム恐怖症」の陰に隠れて暮らしている。  

 米国は「全ての人は生まれながらにして平等である」という約束を実行に移し、少数民族の傷を真に癒すための措置を講じるべきである。さらに重要なのは、米国が歴史に学び、人権に関する悲劇を何度も繰り返さないよう、人種差別という根強い問題に効果的に対処することだ。

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「終戦前日、国は見捨てた 旧満州・葛根廟事件 生存者が証言集」

2022年05月12日 | 個人史・地域史・世界史
https://web.archive.org/web/20140727043756/http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2014071990071048.html
「東京新聞」 2014年7月19日 07時10分
■終戦前日、国は見捨てた 旧満州・葛根廟事件 生存者が証言集

【写真】完成させた証言集を手にする大島満吉さん=東京都西東京市で(安藤恭子撮影)
 
 太平洋戦争の終戦直前、旧満州(中国東北部)で起きた旧ソ連軍の日本人虐殺事件「葛根廟(かっこんびょう)事件」の生存者らが証言集をまとめた。「私たちは国に見捨てられた棄民だった。せめて満州に散った人々の『紙の墓標』となれば」。当時九歳で助かった大島満吉(まんきち)さん(78)=東京都練馬区=は思いを語り、事件の舞台だった中国と日本の最近の関係悪化を憂う。 (安藤恭子)

 「葛根廟事件の証言-草原の惨劇・平和への祈り」(新風書房)を製作したのは生存者や遺族でつくる「興安街命日会」。戦後七十年を前に、代表の大島さんを中心に二年がかりでまとめた。生存者や遺族五十五人の証言や、調査で確認できた七百三十四人の犠牲者名簿を収録している。
 事件が起きたのは終戦の前日。ソ連の対日参戦で満州西部の興安の民間人らがラマ教寺院「葛根廟」に向かって逃げた。戦車は避難民をなぎ倒し、機銃弾を浴びせた。
 当時国民学校四年だった大島さんは母や弟妹と細長い自然壕(ごう)に飛び降りた。中ではカーキ色の軍服を着たソ連兵が日本人の集団に機関銃を連射。三十人ほどが倒れた。「次は自分たちだ」。恐怖に血の気が引いた。
 壕には何百もの遺体が残された。生き残った人々は死を選ぼうとした。幼い大島さんは「死にたくない」と思ったが、言葉にできなかった。「ごめんね。すぐ行くからね」。母は大島さんの目の前で三歳の妹ののどを日本刀で突き、幼い命が絶えた。
 さらに一家で死のうと、在郷軍人が刀で自決を手助けする順番を待っているときに、はぐれた父らと再会した。父が母を説得し、金品を奪おうとする現地民から逃げ、翌年帰国した。
 強いはずの関東軍は民間人より先に南方へ逃走していた。大島さんは「逃げる手段も食べ物もなくて絶望した。人間は弱いものだ」と集団自決を振り返る。「遺骨も持ち帰れず、死者のために何もできない生き残りの私たちには、時効も免罪符もない」
 証言集には、現地民に救われた残留孤児らの体験も含まれている。かくまってくれた養父母への感謝や日中友好への願いをつづっている。
 事件から六十九年。日本では嫌中感情が広がりつつある。大島さんは「生存者は皆どこかで中国人に助けられている。大陸の広い心を持った中国を嫌いにはなれない」と話し「武器をかざせば敵ができ、抑止力にはならない。憲法の戦争放棄を実践してきた戦後をさらに延ばし、外交や交流に力を注いでほしい」と願う。
 <葛根廟事件> 1945年8月14日昼、旧満州の葛根廟(現在の内モンゴル自治区)に向けて南下する避難民約1300人が旧ソ連軍の戦車隊に襲われた。多くは非武装の女性や子どもで、9日のソ連侵攻後、関東軍に見捨てられた民間人が犠牲となった例とされる。関係者が口を閉ざすなどして正確な被害実態が分かっていない。助かったのは百数十人とみられ、うち30人以上は中国残留孤児となった。
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