三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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『臺灣日日新報』で日本の海南島侵略は、いかに報道されていたか

2016年08月29日 | 海南島近現代史研究会
■『台湾日日新報』で日本の海南島侵略は、いかに報道されていたか ■

                                       竹本昇

 海南島近現代史研究会第5回定例研究会(2010年2月14日)では、「臺灣日日新報」は、日本軍奇襲上陸(1939年2月10日)以降の海南島侵略をいかに報道したかを報告しました(このブログの2010年2月15日の「『台湾日日新報』の記事」をみてください)。
 今回は、1939年2月10日の奇襲上陸前において、海南島侵略を報道していたかについて調べました。

■経済侵略関係
★1908年1月19日 みだし=「蓖麻子油について」 
 記事=「我國に於いては未だ商売的にこれを栽培しやるものなく随って其成績として挙ぐべきものなきを以て参考として廣東省か海南島に於ける栽培法を示すべし」 
     「以上は海南島に於ける栽培法にして移して以って直ちに適用することの良否は未だ遽(には)かに断言し難きも本島に於いては或いは以上の栽培法よりも容易に簡便に栽培し得べし」

★1909年7月9日~14日 みだし=海南島探検(一)~海南島探検(五)
 記事=「今日の如き海上の交通が自由自在なときになっても、同島の事情は、比較的紹介されていない、臺灣あたりでは、全く同島の事情を知ったものはない」
     「殖産局小西嘱託は、此島が天蚕の本場であると云うので、天蚕の状況を調べ、同時に他の動植物や人類産業等の一般状況を調べるために、五月二三日に出発して同島に赴いた」
★1922年2月17日 みだし=凌海丸の遠征 昨日高雄出帆
 記事=「総督府殖産局の水産試験船凌海丸は既報の如く南支那、海南島、佛領印度支那等に於ける水産調査を行うべく一六日午後三時高雄を出帆し遠征の途に就いたが出帆に際し東内務部長を始め州職員其他の有志はランチにて港外まで見送った」
★1922年8月21日 みだし=種豚輸入 海南島から一三頭を
 記事=「臺中の請負師堀土三郎氏は製糖会社の藤の原料採取の為め過般海南島に出張したが同氏は海南島の豚が非常に優良であるらしいので種豚として雄を一頭、雌一二頭計一三頭を本島に輸入した・・・気候風土は本島と毫も異ならず・・・本島に於いては好結果を得るであらうと期待されて居る」
★1925年1月1日 みだし=臺灣から南へ南へ! 海南島へ着目せよ
 記事=「帝國の南方発展策として其使命を完うするには・・・・、帝國の南支南洋支店たる臺灣に更なる南方の何處かにに出張所を設けて貰いたいと思います・・・ソレは廣東省雷州半島に直面し東西交通の咽喉を扼し而も豊饒な土地であり乍ら外國の勢力が餘り及んでゐない海南島であります。此島を是非當局に於いて調査して貰い、一方有力な實業家及資本家に渡航して貰いたいのであります。」
★1928年9月8日 みだし=臺灣に倣って居る 海南島の開發 交通第一主義で押通す黄△氏 ―貴州丸で歸つた平間技師談
★1930年9月23日 みだし=海南島視察記 臺北帝大生土屋米吉 海南島の民情 
★1931年2月16日 みだし=海流瓶の行方 桃園沖から海南島へ
 記事=「總督府水産課では、凌海丸にて海洋調査の際昨年十一月十七日午前十時三十五分桃園沖三十浬の地點で十本の海流瓶を投下したが其中の一本が本年一月二十二日午前八時半頃海南島に到着取得した旨支那人から通知があった。・・・・水産當局の語る所によれば・・・海洋調査から見れば貴重な参考資料」
★1936年9月26日 みだし=製糖事業には有望な海南島 北海から歸つた入江○○談
 記事=「勝間田氏の話では海南島を開發して甘薯を植ゑ製糖をやれば支那全土に供給するだけの砂糖は立派に出来るといふ事だ」
★1936年10月9日 みだし=海南島海口に 俄然排日熱が再燃 馬公で眞否を懸念
 記事=「七日夜ラヂオ放送によつて海南島海口に於て排日熱急に再燃すと報ぜられたが馬公要港部には右(みだしの文)に就いて未だ何等の情報も入つてゐないので其眞否に就き大いに懸念してゐる」
★1936年10月10日 みだし=海南島は南方の寶庫 笹川大尉講演
 記事=「海南島は臺灣よりははるかに資源に富みまだ放置されてゐる寶庫で将来どうしても〇〇の手によって開發せねばならない、今まで餘りに閉脚されてゐた様だ英米の如き多数の人を派し石油其他資源獲得に努めつつあり病院、教會等を通じて人心収攬を行つてゐる、同地の日本人は勝間田氏一人だが家族は既に引あげたとあるから将來の事が思ひやられる。中野氏の死は全く御氣の毒であるが今回の事件によつて日本の海南島に對する認識を深からしめたとするならば同氏の死は決して犬死ではない」
★1936年10月13日 みだし=海南島は招くⅡ この南海の寶庫にも 歐米の魔手は伸びてゐる
記事=「海南島の△業は未開の一語につき、その経済的價値は希望の未知数だ―現在判明してゐる鉱産物の種類は錫、鉛、砂金、鐡、雲母等で凡んど無尽盡と謂われ、全島十四ケ所に小規模な英國系資本で錫の採鑛が行はれてゐるのみである専門家の本格的調査を俟てば脅威に値するものがあらう。資本と科學と人力を持たない島の人達にとつては、寶庫の持ち腐れである。・・・・
 斯の如く總ての事業に於て幼稚の域を脱せず、若し近代式方法を以て開拓すれば島の生産力を数倍加することは容易である。しかしこのバージン・ランドにも歐米の魔手は伸ばされつつあるのだ。・・・勝間田翁は各國の勢力に比して日本の微力なることを遺憾として義久氏と協力し海南事情の書を刊行し、日本朝野の決意を喚起すべく数年前より資料蒐集に努力中であるが、既に草稿の大半を完成してゐるのでその出版は時局柄大いに期待される」
★1936年10月14日 みだし=海南島は招くⅠ 南進 國策の重要な足溜めたらしめよ
 記事=「海南島は我が南進國策の足溜まりとして、経済的のみならず軍事的にも重要性を持つことは贅言を要しないであらう、然し南支那海の制海権を把握するには幾多の重要施設を必要とする、またその時代でもない、無限の寶庫を拓く鍵は資本と科學に先行して、まづ農業移民に與へられてゐる、我が移民を送るに好都合な条件は、島自體が政治的に獨立國形態にあり、・・・。人種的には海南人は穏健であることだ從って島内より抗日排日思想を驅逐することも、政策如何によつては敢えて難事ではない」
★1936年10月22日 みだし=“海南島の開拓をやつて見たい”桑原前基(ジ)隆(ロング)市尹(イン)談
 記事=「私は海南島にどうしても一度行きたいと感がへる領土的野心は持たずに同島を文字通りパラダ
イスにしたい」
★1938年11月30日 みだし=否定された海南島も 企業的生産に成功
                    臺灣生ゴム樹栽培論  (八) 總督府官房外務部 佐多 長春
 記事=「将来のゴム生産に就いて、海南島が重要なる役割を演ずるで有らう事は、想像に難く無い・・・
      その昔完全に否定せられたる海南島のゴムは、今や完全に導馴せられ、企業的生産に立派に成功しつつあるでは無いか?各作物の持つ南限を征服する事が出来、台湾の如き亜熱帯地にも生産し得るので有つて、之即ち台湾山地開發の技術的原理である」

■北海事件関係
★1936年9月9日 みだし=海南島海口で邦人殺害さる 香港總領事館に入電
 記事=「海南島海口在留者勝又善作氏より香港總領事館への入電に依れば雷州半島の西部に當る北海の在留邦人平野某は支那人のため殺害されたと云はれる、原因その他詳細不明」
★1936年9月15日 みだし=海南島にも便衣隊潜入 在留邦人を極力保護
 記事=「目下軍艦嵯峨は北海港外にあり嵯峨艦長は海南島海口に於て同地の公安局及び鞍靖公署の秘書陳香氏と會見した・・・公安局長代理は『去る三日北海で日本人中野を短刀で殺害した事件後當地の日本人に對しても嚴重保護を加へてゐるが現にに勝本某に對して二名の巡警つけて保護してゐる中野を殺したのも一九路軍か便衣隊であらう當地にも便衣隊が入つたと云ふので警戒してゐる』と云ってゐる」
★1936年9月16日 みだし=任務遂行の障害 速かに除去せよ 今明日中に提出か 
                    南遣部隊終結完了
 記事=「海南島に南遣部隊の集結を完了せる我が海軍では事件の調査及び北海に在る居留法人保護の見地から支那側に對して我方の任務遂行に支障を来す一切の障害を速かに除去するよう嚴重申出を今明日に提出する模様である」
     「在上海大使館附海軍武官室は本日左(上記)の發表を爲した 我が海軍の有力なる南遣部隊は今日海南島に集結を完了した」
★1936年9月16日 みだし=我北海調査員 海南島にて待機 國府の保障工作完了まで
 記事=「北海事件に關する我調査員を乗せた軍艦嵯峨は萬一に備へるため集結された第十三駆逐隊と共に海南島某所にありて嚴重なる警戒を行ってゐるが、これら出先當局と密接なる連絡を執りつつ飽くまで支那中央政府を責任ある保障工作をなさしめて後現地を行ふべく努力して居り未だ一歩も惨害地に踏入らず待機の姿勢をとつてゐる」
★1936年9月22日 みだし=蒋氏、海南島の防備強化を計る 獨立第九旅を新設
 記事=「蒋介石氏は日本が北海事件現地調査のため軍艦を海南島北岸海口に派遣せしめた事より時局の尖鋭化を見越し之に對抗する目的をもつて海南島の防備強化を圖り、同島に獨立第九旅を設置することとし、二十日王定暇を旅長に任命之を發表した。獨立第九旅は三個團より成り一旦戦闘勃發せる際は全滅を賭して外敵より海南島を護れと訓辞されてゐると言はる」

■軍事侵略関係
★1933年4月18日 みだし=海南島沿岸に海軍根據地
 記事=「廣東省沿岸防備強化の爲海南島海岸に海軍根據地を建設する案が目下西南派将僚間で計畫されて居るが建設費は特別公債で支出する」
★1937年9月10日 みだし=海南島の防備を強化 日本軍艦現はれたとて
 記事=「海南島瓊州より廣東軍事當局への入電によれば七日夕刻日本軍艦〇隻が瓊州海峽(雷州半島と海南島の間)に現はれ廣州湾を中心に海空より同方面の支那船舶の航行を監視中であるとのことで余漢諜は直に海南島と北海駐屯部隊に對して二十四時間以内に戦闘準備をなすやう命令を發した、北海駐屯部隊は廣西軍の増援を得て目下三万餘の兵力に上つてゐるに對し海南島部隊は十旅にすぎなかつたものが廣東軍の増援を得て三倍の兵力となる模様である」 
★1937年9月19日 みだし=海南島 海口を砲撃 我が軍艦〇隻 一時間に亙り
 記事=「去る一六日午後五時三十分我軍艦〇隻は海南島の主要港海口を砲撃支那側も砲臺より反撃し來り交戦約一時間にして埠頭其他軍用施設に多大の損害を與へて引揚げた」
★1937年11月5日 海南島を望む  写真のキャプション「海南島を遠望」・「偵察に出動の○○艦載機(後方に見ゆるは海南島最南端)・「○○島に碇泊、錨を下す○○艦」   ―總督府許可済―
★1938年1月25日 みだし=海南島楡林港を砲撃 臨檢隊を小癪にも齊射 直ちに反撃、敵陣を粉碎
 記事=「大本營海軍部公表 南支方面海上監視中の我が海軍○○部隊は豫て海南島楡林港に支那戎克船の密航するものあるに注意しつつありしところ本月十九日軍艦○○は午前八時三十分同港に進入し飛行機偵察の結果、港内に戎克多数碇泊中を發見せり、依つて同艦臨檢隊は内火艇及びカツターに搭乗し陸岸に向け航行中、突如港内陸岸倉廩より機関銃及び小銃の齊射を受けたるを以て直ちに反撃を加へ、軍艦○○亦この敵を砲撃、機銃陣地等を粉碎し敵に大打撃を與へ潰走するに至らしめ無事臨檢隊を収容せり、本戦闘に於いて臨檢員に三名の輕傷を出したる外我方に損害なし、尚同港の周圍には砲△を構築しあるを確認せり」
★1938年4月16日 みだし=小癪・敵陣地から 矢庭に一齊迷射 海南島附近で航行遮斷中 
 記事=「先般我が○○が海南島附近で支那戎克船の臨檢に赴いた所何を血迷つたか小癪にも陸上の敵が我に猛射を浴びせかけた、其腹癒せなんてそんなケチな考へでは勿論ないのであるが○○日我が○○は勇猛果敢同地の重要軍事施設に對して猛爆撃を加へた、敵は我が爆撃に對して高角砲で抵抗して来た、連続二日に亘る今回の爆撃に依つて敵の○○重要軍事施設は徹底的に損害を受けた事は確実である、無論我方海の荒鷲に微少の損害だもあらう筈がない、・・・
     支那は遉に宣傅上手な国である、・・・文明国人が文明の新聞に對する觀念を以つて支那殊に現在の支那新聞などを讀んで居たらとんでもない目に遭う、是れはつい最近に事実がであるが、我が○○は去る日的に○○砲台と一寸撃ち合つて、悠々其場を去つて行つた、・・・
     実際は敵の砲弾は弾片さへも受けてゐない・・・それが撃沈とあるから笑はせられる、・・・
     只善良なる一般民衆が迷はされる事が氣の毒であり、又平和促進の阻害となる事をおそれる(原文は漢字)次第である」
★1938年6月19日 みだし=海南島を爆撃
 記事=「艦隊報道發表  十七日中南支一帯は天候極めて險悪時に豪雨來襲せり
     一、揚子江進撃部隊は悪天候により刻々増水しつつある濁流を制し着々水路障碍物を排除進撃を続け續けつつあり
     二、航空部隊は新學線、廣東西江方面を攻撃、・・・又海南島攻撃部隊は海口における警備司令部及び軍事施設を爆撃大なる損害を與へたり」
★1938年11月22日 みだし=海南島の防衛を嚴命 瓊州で重要軍事會議
 記事=「某方面よりの來電に依れば国民政府は此程海南島の防衛に關し嚴命を發したものの如く、最近同島官憲と国民政府との間に頻繁に通電連絡が行はれてゐるが、また同島軍事當局は瓊州に重要軍事會議を開催したと言はれてゐる」
★1939年2月11日 みだし=海南島上陸を祝し 旗行列と提燈行列 あす全島一齊に擧行
 記事=「南支の要地であり色々な点で似た所が多い所から本島とは馴染の深い海南島に皇軍の精鋭の一部が上陸に成功したとの報は五百万島民の上に大きな歓喜を齎(もたら)してゐるが、この島民の歓びと今回の壮挙に従つた皇軍将兵の辛勞に對する感謝を形に表はすべく總督府では十日正午二見長官代理以下部局長が参集協議の結果、十一日の紀元節の佳き日を期し全島一齊に旗行列(畫間建国祭終了後)と提燈行列を行ふ事に決定その旨地方△に通牒を發した」
★1939年2月11日 みだし=瓊州、海口を占領 我が上陸軍先頭部隊
 記事=「我が上陸軍先頭部隊は十日午前十時四十五分瓊州に入城した、又他の有力部隊は午前十一時海口に進入し日章旗を翻した」
           みだし=我に損害殆どなし
 記事=「一.・・・同島第一の都會海口を占領せり
      二.・・・占領により海上部隊の今後に於ける活動を益々容易ならしめ」
           みだし=陸海の荒鷲交々 敵軍に巨彈の雨
 記事=「・・・我が軍は目下〇〇と瓊州間の街道を進撃中で又海南島における二大都市たる瓊州、海口はともに日章旗が全域に翻つてゐる」
           みだし=海南島の攻撃と其の意義
 記事=「一 十日早朝、吾が陸海軍の精鋭部隊が海南島を奇襲、上陸進撃中といふ大本營陸海軍部の公表は、國民の期せずした快哉を叫ぶ一大快報であつた。南支方面作戦の根據地として、又援蒋ルート覆滅といふ上から見ても、海南島攻略の意義は頗る重要なるものあるのである。海南島は、香港とシンガポールの中間に横たはり又佛領印度支那とは、一衣帯水、租借地廣州湾の咽喉を制する共に、比島以南の他南洋方面に對しても無言の壓力を加ふるものである。之に依て香港海防等孤立化し、南支の動脈は掌中に△したものと謂へる。英、佛両國の受けたる動揺は蓋し想像以上のものがなくては叶ふまい。
      二 ・・・新支那は現に生成しつつある。興亜新體制は愈よ運命共同體としての根基を固めつつあるのだ。」
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 1908年には蓖麻子油(潤滑油に使用)の栽培方法を海南島から導入するべきとの主張、その後、製糖の原材料を海南島から手に入れるために海南島を調査したこと、海南島を開発して製糖業を起こすことを主張、軍人の大尉が海南島は南に宝庫だから開発すべきとの主張、鉱産物が無尽蔵にある海南島を開発するための決意を官民に喚起、などの記事が掲載されていました。
 1907年に台湾総督府殖産局が蚕山調査、1922年に殖産局が水産調査、1931年総督府水産課に海洋調査、当局への調査と実業家・資本家への渡航を求める記事、海南島を「南進」の拠点にすることを国策とするべきとの特派員の記事、総督府は台湾でのゴム生産技術の開発を誇っている記事が掲載されていました。
 1933年廣東省沿岸防備強化を理由に、海南島に海軍根拠地建設が計画されたこと。1936年9月3日に起きた「北海事件」により、日本軍は海南島に南遣部隊を配備した記事が掲載されていました。
 1937年7月の日中全面戦争により、同年9月16日海南島海口を砲撃、11月5日の海南島(「最南端」と記載)に軍艦が出動、1938年1月には海南島最南端の三亜の楡林港を銃撃、1938年4月海南島爆撃(場所は〇〇と伏字)、1938年6月海口爆撃の記事が掲載されていました。
 1939年2月10日の奇襲上陸以前にも、日本軍は海南島への武力攻撃を行っていました。

     注=〇〇は、原文記事が〇〇表示。
     △は、マイクロフイルムからのプリントで字が潰れて判読不可能な文字
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