(一九) 二〇一一年二月~三月 7
■東方市新龍鎮新村で
「一九四五年三月二日龍衛新村ノ戦闘」(原題は、「元号」使用)と副題がつけられた「横鎮四特戦闘詳報第五号」が東京の防衛研究所図書室で公開されている。この文書は、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊が作製したもので、一九四五年三月二日に、海南島感恩県龍衛新村を襲撃したときの「戦闘詳報」である。この「戦場ノ状況」と題する個所には、
「海岸線ヨリ東方一粁ニ位置スルニシテ戸数約八〇戸人口約三〇〇ヲ有シ農業ヲ主
トスル一寒村ナリ
周囲ハ高サ一乃至二米巾約二米ノ潅木ニヨル二重垣ヲ以テ防壁トナシ東西南ノ三方ニ
出入門ヲ有シ西北ノ一部ニ高サ約二米ノ石造城壁アリ」
と書かれている。日本海軍は、住民三〇〇人ほどの村を「戦場」と規定して、襲撃した。この村を襲撃したのは、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊第七小隊長猪瀬正信(日本海軍一等機関兵曹)ら一一人で、全員が「便衣」を着ていた。この一一人が二組に分かれて村を襲撃したのは、一九四五年三月二日午前一〇時三〇分であった
三月二日一二時四〇分に、新村を訪ねた。一九四五年三月二日の六六年後だった。
「横鎮四特戦闘詳報第五号」には、「敵ニ與ヘタル損害」として、「遺棄死体四(共産党第二支隊指揮中隊長及同軍需主任ヲ含ム)」と書かれているが、新村で聞きとりをして、その「共産党第二支隊指揮中隊長」が湯主良さんで、「共産党第二支隊軍需主任」が王文昌さんであることがわかった。
湯主良さんの妻の張亜香さんに話を聞かせてもらうことができた。張亜香さん(一九二二年二月二一日生。農暦一月二五日生)の八九歳の誕生日の九日後だった。
話を聞かせてもらった場所は、小学校の校庭の塀の内側で、その塀の向こう側には、六六年前に夫の湯主良さんら四人が日本兵に包囲され爆死した地下室があった。
張亜香さんは、静かなしっかりした口調で、当時のことをつぎのように話した。その場にいたたくさんの小学生が周りを囲んで、張亜香さんの証言をいっしょに聞いた。
“夫は、一七歳のときに革命に参加した。ここにあった家の地下室で死んだとき、二三歳
だった。子どもは二歳半だった。わたしは一八歳のときに結婚した。夫が死んだときは二二
歳だった。夫が死んだのは、正月一八日だった。
夫は、夜もの運んだり、情報を伝える仕事をしていた。隊長と呼ばれていた。
夫が、共産党の活動をしていることは知っていたが、具体的なことは、はっきりとは解らな
かった。夫は家にいる時間は少なかった。ほとんど家を離れていた。わたしは、夫の両親
と、農作業をして暮らしていた。
夫が地下室で爆死した日、日本軍が来るというので、わたしは子どもを連れて逃げてい
た。このころわたしも子どももほとんど家に戻らなかった。
わたしの家では、ときどき共産党の人たちが休憩や会議をした。しかし、安全な場所では
なかったので、なにかあったらすぐ隠れる地下室をつくってあった。家の中では、食事や話
ができるが、急になにか変なことがあったら、すぐに地下室に入る。狭いが、二~三人は
ゆっくり入れるほどの広さだった。
あの日、日本軍が来たとき村にいた六人のうち、文昌からきていた党員は日本軍を見て
逃げた。愚かなことに、逃げて、地下室の方に戻ってきた。この党員を日本軍が追いかけ
てきた。逃げるときには、絶対に自分の同志の方に行ってはならないのに……。この人
は逃げるのが遅かったので、日本軍につかまってしまった。つかまって、少し聞かれて
から、すぐに、中のことを日本軍に教えた。
日本兵は、地下室に声を掛けたが、誰も返事をしなかった。
日本兵は、村人に命令して、地下室の天井には板がはってあってその上に土をのせて
床にしていた。その床の土を掘っていくと板にぶつかる。
その音を聞いて、地下室にいた四人は、自殺することにした。地下室から出て日本兵と
銃撃戦で闘ったら、あとで村民たちがひどい目にあうと判断したようだ。日本兵は、このと
き平服で七~八人だったから、闘うこともできたが、四人はそうせずに、自死の道を選ん
だ。
日本軍と直接戦うことをやめ、もっていた銃と手りゅう弾で地下室の中で自殺した。銃を
自分に撃った人がいた。手榴弾を爆発させた人もいた。
日本兵は、村人に地下室で倒れている四人を掘り出させた。
ひとりはまだ生きていたので、村人が息をしているのが日本兵にわからないように顔を下
に向けさせた。
しかし、日本兵は顔を見て生きているのがわかったので、拳銃で頭を何発も撃って殺し
た。脳が砕けて飛び散ったという。三人の遺体は手も足も爆弾で砕かれていた。
日本兵は、家に火をつけてからすぐ帰った。
朝八時ころに爆弾の音が聞こえ、煙が上がるのが見えた。わたしは、日本軍がいなく
なってから、村に戻り、死んだ四人の遺体を見た。夫の頭に弾の穴があいており、手が
無かった。
それあと日本兵は、二~三日ごとに村に様子を見に来た。
隠れ家を教えた文昌出身の党員は同志を裏切ったということで、あとで共産党に処刑さ
れた”。
張亜香さんは、夫の湯主良さんらが死んだのは、正月一八日だと話した。「横鎮四特戦闘詳報第五号」には、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊第七小隊が龍衛新村を襲撃したのは、一九四五年三月二日であったと書かれている。一九四五年の三月二日は、農暦では一月一八日であった。
湯主良さんの遺児の湯祥文さん(一九四二年生)に、湯主良さんの墓に案内してもらった。
墓は村から一キロあまりはなれた広い墓地の中にあった。以前は、村の近くに埋葬されていたが、二〇〇六年にこの場所に改葬されたという。
高さ二メートルあまりの墓碑に、
「永垂不朽」
「生于一九二一年辛酉二月二十七日辰時為人正直思想進歩一九三八年投身革命曾任
村党支部幹事娶同村邦直公次女為妻夫妻恩愛傳男一丁女一口一九四五年正月十八日
為掩護群衆撤退被日軍囲困寧死不屈而光栄犠牲年僅廿四歳」
と刻まれていた。
佐藤正人
■東方市新龍鎮新村で
「一九四五年三月二日龍衛新村ノ戦闘」(原題は、「元号」使用)と副題がつけられた「横鎮四特戦闘詳報第五号」が東京の防衛研究所図書室で公開されている。この文書は、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊が作製したもので、一九四五年三月二日に、海南島感恩県龍衛新村を襲撃したときの「戦闘詳報」である。この「戦場ノ状況」と題する個所には、
「海岸線ヨリ東方一粁ニ位置スルニシテ戸数約八〇戸人口約三〇〇ヲ有シ農業ヲ主
トスル一寒村ナリ
周囲ハ高サ一乃至二米巾約二米ノ潅木ニヨル二重垣ヲ以テ防壁トナシ東西南ノ三方ニ
出入門ヲ有シ西北ノ一部ニ高サ約二米ノ石造城壁アリ」
と書かれている。日本海軍は、住民三〇〇人ほどの村を「戦場」と規定して、襲撃した。この村を襲撃したのは、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊第七小隊長猪瀬正信(日本海軍一等機関兵曹)ら一一人で、全員が「便衣」を着ていた。この一一人が二組に分かれて村を襲撃したのは、一九四五年三月二日午前一〇時三〇分であった
三月二日一二時四〇分に、新村を訪ねた。一九四五年三月二日の六六年後だった。
「横鎮四特戦闘詳報第五号」には、「敵ニ與ヘタル損害」として、「遺棄死体四(共産党第二支隊指揮中隊長及同軍需主任ヲ含ム)」と書かれているが、新村で聞きとりをして、その「共産党第二支隊指揮中隊長」が湯主良さんで、「共産党第二支隊軍需主任」が王文昌さんであることがわかった。
湯主良さんの妻の張亜香さんに話を聞かせてもらうことができた。張亜香さん(一九二二年二月二一日生。農暦一月二五日生)の八九歳の誕生日の九日後だった。
話を聞かせてもらった場所は、小学校の校庭の塀の内側で、その塀の向こう側には、六六年前に夫の湯主良さんら四人が日本兵に包囲され爆死した地下室があった。
張亜香さんは、静かなしっかりした口調で、当時のことをつぎのように話した。その場にいたたくさんの小学生が周りを囲んで、張亜香さんの証言をいっしょに聞いた。
“夫は、一七歳のときに革命に参加した。ここにあった家の地下室で死んだとき、二三歳
だった。子どもは二歳半だった。わたしは一八歳のときに結婚した。夫が死んだときは二二
歳だった。夫が死んだのは、正月一八日だった。
夫は、夜もの運んだり、情報を伝える仕事をしていた。隊長と呼ばれていた。
夫が、共産党の活動をしていることは知っていたが、具体的なことは、はっきりとは解らな
かった。夫は家にいる時間は少なかった。ほとんど家を離れていた。わたしは、夫の両親
と、農作業をして暮らしていた。
夫が地下室で爆死した日、日本軍が来るというので、わたしは子どもを連れて逃げてい
た。このころわたしも子どももほとんど家に戻らなかった。
わたしの家では、ときどき共産党の人たちが休憩や会議をした。しかし、安全な場所では
なかったので、なにかあったらすぐ隠れる地下室をつくってあった。家の中では、食事や話
ができるが、急になにか変なことがあったら、すぐに地下室に入る。狭いが、二~三人は
ゆっくり入れるほどの広さだった。
あの日、日本軍が来たとき村にいた六人のうち、文昌からきていた党員は日本軍を見て
逃げた。愚かなことに、逃げて、地下室の方に戻ってきた。この党員を日本軍が追いかけ
てきた。逃げるときには、絶対に自分の同志の方に行ってはならないのに……。この人
は逃げるのが遅かったので、日本軍につかまってしまった。つかまって、少し聞かれて
から、すぐに、中のことを日本軍に教えた。
日本兵は、地下室に声を掛けたが、誰も返事をしなかった。
日本兵は、村人に命令して、地下室の天井には板がはってあってその上に土をのせて
床にしていた。その床の土を掘っていくと板にぶつかる。
その音を聞いて、地下室にいた四人は、自殺することにした。地下室から出て日本兵と
銃撃戦で闘ったら、あとで村民たちがひどい目にあうと判断したようだ。日本兵は、このと
き平服で七~八人だったから、闘うこともできたが、四人はそうせずに、自死の道を選ん
だ。
日本軍と直接戦うことをやめ、もっていた銃と手りゅう弾で地下室の中で自殺した。銃を
自分に撃った人がいた。手榴弾を爆発させた人もいた。
日本兵は、村人に地下室で倒れている四人を掘り出させた。
ひとりはまだ生きていたので、村人が息をしているのが日本兵にわからないように顔を下
に向けさせた。
しかし、日本兵は顔を見て生きているのがわかったので、拳銃で頭を何発も撃って殺し
た。脳が砕けて飛び散ったという。三人の遺体は手も足も爆弾で砕かれていた。
日本兵は、家に火をつけてからすぐ帰った。
朝八時ころに爆弾の音が聞こえ、煙が上がるのが見えた。わたしは、日本軍がいなく
なってから、村に戻り、死んだ四人の遺体を見た。夫の頭に弾の穴があいており、手が
無かった。
それあと日本兵は、二~三日ごとに村に様子を見に来た。
隠れ家を教えた文昌出身の党員は同志を裏切ったということで、あとで共産党に処刑さ
れた”。
張亜香さんは、夫の湯主良さんらが死んだのは、正月一八日だと話した。「横鎮四特戦闘詳報第五号」には、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊第七小隊が龍衛新村を襲撃したのは、一九四五年三月二日であったと書かれている。一九四五年の三月二日は、農暦では一月一八日であった。
湯主良さんの遺児の湯祥文さん(一九四二年生)に、湯主良さんの墓に案内してもらった。
墓は村から一キロあまりはなれた広い墓地の中にあった。以前は、村の近くに埋葬されていたが、二〇〇六年にこの場所に改葬されたという。
高さ二メートルあまりの墓碑に、
「永垂不朽」
「生于一九二一年辛酉二月二十七日辰時為人正直思想進歩一九三八年投身革命曾任
村党支部幹事娶同村邦直公次女為妻夫妻恩愛傳男一丁女一口一九四五年正月十八日
為掩護群衆撤退被日軍囲困寧死不屈而光栄犠牲年僅廿四歳」
と刻まれていた。
佐藤正人