(二〇) 二〇一一年一〇月~一一月 5
■保亭黎族苗族自治県保亭と加茂で
一一月一日朝、陵水黎族自治県の陵水から、保亭黎族苗族自治県の保亭に向かった。
保亭につき、張応勇さんの家に行った。はじめてこの家を訪ね、張応勇さんに会ったのは、二〇〇二年三月だった。張応勇さんは、二〇〇五年三月一六日の「海南島戦時性暴力被害訴訟」の口頭弁論のとき東京地方裁判所で林亜金さんとともに証言したが、その八か月後の一一月にとつぜん病死された。
張応勇さんの家では、連れ合いの黄菊春さんが迎えてくれ、近くで黎族の織物や民芸品などを売る店を開いている娘の張熹さんも来てくれた。九年ぶりの再会だった。
そのあと、加茂に行き、陳厚志さんに会った
陳厚志さんは、こう話した。
“張応勇先生とは、一九八六年からいっしょに仕事をしてきた。張応勇先生が保亭の政治
協商会議の文史資料工作委員会にいたときからだ。
張応勇先生は写真撮影ができる人を探していて、何人かといっしょに仕事をしたが、最
後にはわたしがいっしょにすることになった。
歴史をしっかり認識することがが大事だ。
そうすれば、じぶんが何をやるべきかがわかるし、やり続けることがができる。
「慰安婦」のことはいろいろ報道されて、注目されている。
やめようと思っても、わたし一人の考えでやめられなくなった。
世界の力がわたしを前に進める。
被害者のためにできること、しなければならないことは、生活を守ることだ。
みんな年を取って、貧しい。老後の生活を幸せに送れるようにしたい”。
おそい昼食のあと、陳厚志さんに加茂の日本軍の侵略の跡を案内してもらった。加茂川にかかる橋の近くの河原で、陳厚志さんは、こう話した。
“橋の基礎は日本軍がつくった。一九八〇年ころ、洪水で壊れた。
橋の高さは、川面から六、七メートルだ。小学生のとき、学校の帰り、橋の上から川に飛
び込んだりした。
日本軍は、橋のこちら(加茂)に駐屯していた。国軍は橋の向こう側にいた。祖父から聞い
た。
近くの木のあたりが、慰安所があった場所だったという。わたしは見ていない。祖父に日
本軍の軍営の場所や慰安所の場所を教えてもらった。慰安婦のことは、祖母から聞いた。
小さいとき、いま給水塔があるところに、丸い形のものがあった。銃眼があった。
炮楼ではなく、トーチカだったと思う。
わたしの祖父は、日本軍のためにこの辺で馬の世話をしていた。日本軍のために銃をか
ついだこともあると言っていた。銃を背負えというと、聞かないわけにはいかない。小さい
から、銃の先が地面に着いたと言っていた。
村の子どもたちは、何人も、日本軍の銃を背負ったそうだ。日本軍は子どもには警戒心
がなく、子どもに背負わせた。お金はもらわなかったが、あめとか食べ物をもらったことが
あったとそうだ。
わたしは、黎族だ。いまも友だちと話すときは黎語で話す。
年寄り同士が集まって酒を飲んだりすると日本軍の話をしていて、わたしはそばで聞い
た。
祖母はさいしょ、「慰安婦」のことはなにも話さなかった。重病になった。日本で裁判がは
じまってから、祖母に、あなたは今病気だ、今話しておかないと、離せなくなるかもしれな
い、そうなると本当のことが永遠にわからないままになってしまう、話したほうがいいと、
言ったことがあった。
そのあと、祖母は、わたしに、‘お前にだけ話す。ぜったいにほかの人に話してはいけな
い’と言って、話してくれた。わたしが調べているのを知って……。二〇〇四年ころだった。
黄月鳳さんのことはみんな知っていた。陳金玉さんのことはみんなには知られていな
かったが、祖母が話してくれた”。
一一月一日夕刻、陳厚志さんに案内されて、加茂の黄世真さんの自宅を訪ねた。黄世真さん(九〇歳)は、つぎのように話した。
“日本兵は恐ろしい。一九四〇年、日本が加茂に来たとき、二〇歳だった。
日本兵はわるいことばかりした。
指三本だけで支えさせて四つんばいにさせ、腹の下に銃剣を置いた。力をぬくと、刃先が
腹を切る。背中はまっすぐしなければいけない。姿勢を変えると殴られる。何回殴られたか
覚えていないほどだ。
日本兵の靴は、底がとがっている。それで蹴られると痛い。何回も蹴っとばされた。
日本兵は女性を四つん這いにさせて、スカートをまくったりした。棒でスカートをまくりあげ
た。
父の弟の息子は、仕事を一生懸命しないといって、あの格好をさせられ、殴られて死ん
だ。名前は、黄亜川。三〇歳くらいだった。
共産党だといって日本兵が一七人を殺したことがあった。保亭ではもっと殺された。
わたしは、加茂から陵水までの道路工事、水運び、田んぼしごと、いろいろさせられた。
朝から軍営の方に、道路工事とか野菜作りで行った。金はもらったことがない。塩だけ少
しもらった。昼食も自分で持っていった弁当を食べた。山でとったさつまいもなど。
稲の栽培をしていたが、収穫すると、かならず日本軍にぜんぶ渡さなければならなかっ
た。
渡さないで見つかると、軍につかまる。拷問されて殺される。それでぜんぶ、日本軍に渡
した。
山に行って、自然になっているもの、いもなどを掘って食べた。
日本兵がときどき、家を捜索した。米を炊いたあとが残っていたり、米粒でも見つかると、
殺された。
日本軍が来たときの家の場所はここだ。草ぶきの家だった。
女性も道路工事とか、水運びとか、させられた。
一〇代くらいの若い女性が見つかれば、性的な悪いことをしていた。何回も見たが、いま
は年を取ってはっきり覚えていない。
日本兵は、若い女性の手を引っ張って、林の方に連れていった。女性は声を出せない。
声を出すとほかの人の注目を集めて、ひどい目にあう。黎族の女性は下はスカートをはい
ただけなので、強姦するのはかんたんだった。
道路工事をしているときに女性が引っ張られていった。陳金玉さんもいっしょに道路工事
をしていたときに引っ張られていった。家に戻り、翌日また道路工事に出て連れて行かれ
る。何日もこういうことが続いた。陳金玉さんが強姦されたのは一四歳のころ。わたしの
方が年上だ。
日本軍がはいって来る前は田んぼもあり、農業をして、食べ物はなんでもあった。
日本軍が来てからは、道路工事を無料でしなければならないし、田畑でとれたものは出
さなければならなくなった。農業をする時間もなくなった。山で取ったものを食べるだけ。服
も着替えはないし、生活はたいへんだった。
日本軍は豚やにわとりを見つけたら、すぐ捕まえた。にわとりは逃げるのが早く、捕まえ
られなかったら、持ち主に怒った。
父は甲長だった。日本軍の命令を、父を通して、村民に伝えた。仕事は年齢に応じて。工
事にでるのは交代。父は、九〇歳くらいで亡くなった。母は、年寄りだったので、工事には
出なかった。
朝鮮人は見たことがない。台湾兵は服装の色がちがう。台湾兵はベージュ色。日本兵は
藍色。ベンガル人はこのへんにはいなかった。
田独の鉄の鉱山にはベンガル人、台湾人がいた。わたしは田独に七回行った。手押し車
で、鉱石を運んだ。一台押したら、五角をもらった。軍票だった。一日に六台くらい運んだ。
軍の命令で、交代で行った。このへんの道路が完成したあと、日本軍がトラックで山の方
にわれわれを運んだ。一回行くと、一五日間。誰が行くかを甲長が決めたかどうか、知らな
い。
田独に行く人を捕まえるのは、中国人。トラックに乗せるのは偽政府の人。日本軍は見
ているだけ。
食べ物は自分で用意していった。売店でコメを買った人もいた。
わたしの村から行ったなかでは、死んだ人はいなかった。保亭から行った人は、病気で
おおぜいが死んだ。
飛行機が飛んできた。日本軍のものではなかった。飛行機が飛んでくると、みんな逃げ
た。
田独には、万寧、瓊海の人もいた。大陸から来た人もいた。大陸から来た人は、一年くら
いでおおぜい死んだ。わたしの寝たところは板敷の建物で、一〇〇人くらい、いっしょだっ
た。
道路工事のときは、監視も多く、働く人も多く、殴られることが多かった。
田独では、働く人が多く、監視は少ない。お金をもらえるので、みな熱心に働いた。監督
は軍人で、あまり働く人を見ていない。台湾人が労働者を監視していた。
おおぜいが共産党にはいった。死んだ人も多かった。男の人五人が入ったのを知ってい
る。日本軍と戦って、二人か三人、死んだ。
日本軍が降参したのを知ってうれしかった。知ったのが、いつだったかは覚えていない。
多くのひとが、日本軍が降参したと話していた。さいしょは知らなかった。
日本兵は長い行列をつくって村の前を通りすぎていった。二〇〇人~三〇〇人。おおぜ
いいた。そのときは、銃を持っていなかった。日本軍は、保亭から屯昌に移動した。通って
いったあと、さいしょはおかしいと思った。銃を持っていなかったし、仕事をしなければなら
ないのに、何も言ってこないし、何もしなかった。一か月間くらい。
日本兵がいなくなってから結婚して藤橋に一年くらい住んでいた。一九五七年に故郷に
戻ってきた。
日本が敗けたあと、共産党の道案内をして、国民党を襲撃したことがある。そのとき
足に当った弾の傷の跡がいまも残っている。
佐藤正人
■保亭黎族苗族自治県保亭と加茂で
一一月一日朝、陵水黎族自治県の陵水から、保亭黎族苗族自治県の保亭に向かった。
保亭につき、張応勇さんの家に行った。はじめてこの家を訪ね、張応勇さんに会ったのは、二〇〇二年三月だった。張応勇さんは、二〇〇五年三月一六日の「海南島戦時性暴力被害訴訟」の口頭弁論のとき東京地方裁判所で林亜金さんとともに証言したが、その八か月後の一一月にとつぜん病死された。
張応勇さんの家では、連れ合いの黄菊春さんが迎えてくれ、近くで黎族の織物や民芸品などを売る店を開いている娘の張熹さんも来てくれた。九年ぶりの再会だった。
そのあと、加茂に行き、陳厚志さんに会った
陳厚志さんは、こう話した。
“張応勇先生とは、一九八六年からいっしょに仕事をしてきた。張応勇先生が保亭の政治
協商会議の文史資料工作委員会にいたときからだ。
張応勇先生は写真撮影ができる人を探していて、何人かといっしょに仕事をしたが、最
後にはわたしがいっしょにすることになった。
歴史をしっかり認識することがが大事だ。
そうすれば、じぶんが何をやるべきかがわかるし、やり続けることがができる。
「慰安婦」のことはいろいろ報道されて、注目されている。
やめようと思っても、わたし一人の考えでやめられなくなった。
世界の力がわたしを前に進める。
被害者のためにできること、しなければならないことは、生活を守ることだ。
みんな年を取って、貧しい。老後の生活を幸せに送れるようにしたい”。
おそい昼食のあと、陳厚志さんに加茂の日本軍の侵略の跡を案内してもらった。加茂川にかかる橋の近くの河原で、陳厚志さんは、こう話した。
“橋の基礎は日本軍がつくった。一九八〇年ころ、洪水で壊れた。
橋の高さは、川面から六、七メートルだ。小学生のとき、学校の帰り、橋の上から川に飛
び込んだりした。
日本軍は、橋のこちら(加茂)に駐屯していた。国軍は橋の向こう側にいた。祖父から聞い
た。
近くの木のあたりが、慰安所があった場所だったという。わたしは見ていない。祖父に日
本軍の軍営の場所や慰安所の場所を教えてもらった。慰安婦のことは、祖母から聞いた。
小さいとき、いま給水塔があるところに、丸い形のものがあった。銃眼があった。
炮楼ではなく、トーチカだったと思う。
わたしの祖父は、日本軍のためにこの辺で馬の世話をしていた。日本軍のために銃をか
ついだこともあると言っていた。銃を背負えというと、聞かないわけにはいかない。小さい
から、銃の先が地面に着いたと言っていた。
村の子どもたちは、何人も、日本軍の銃を背負ったそうだ。日本軍は子どもには警戒心
がなく、子どもに背負わせた。お金はもらわなかったが、あめとか食べ物をもらったことが
あったとそうだ。
わたしは、黎族だ。いまも友だちと話すときは黎語で話す。
年寄り同士が集まって酒を飲んだりすると日本軍の話をしていて、わたしはそばで聞い
た。
祖母はさいしょ、「慰安婦」のことはなにも話さなかった。重病になった。日本で裁判がは
じまってから、祖母に、あなたは今病気だ、今話しておかないと、離せなくなるかもしれな
い、そうなると本当のことが永遠にわからないままになってしまう、話したほうがいいと、
言ったことがあった。
そのあと、祖母は、わたしに、‘お前にだけ話す。ぜったいにほかの人に話してはいけな
い’と言って、話してくれた。わたしが調べているのを知って……。二〇〇四年ころだった。
黄月鳳さんのことはみんな知っていた。陳金玉さんのことはみんなには知られていな
かったが、祖母が話してくれた”。
一一月一日夕刻、陳厚志さんに案内されて、加茂の黄世真さんの自宅を訪ねた。黄世真さん(九〇歳)は、つぎのように話した。
“日本兵は恐ろしい。一九四〇年、日本が加茂に来たとき、二〇歳だった。
日本兵はわるいことばかりした。
指三本だけで支えさせて四つんばいにさせ、腹の下に銃剣を置いた。力をぬくと、刃先が
腹を切る。背中はまっすぐしなければいけない。姿勢を変えると殴られる。何回殴られたか
覚えていないほどだ。
日本兵の靴は、底がとがっている。それで蹴られると痛い。何回も蹴っとばされた。
日本兵は女性を四つん這いにさせて、スカートをまくったりした。棒でスカートをまくりあげ
た。
父の弟の息子は、仕事を一生懸命しないといって、あの格好をさせられ、殴られて死ん
だ。名前は、黄亜川。三〇歳くらいだった。
共産党だといって日本兵が一七人を殺したことがあった。保亭ではもっと殺された。
わたしは、加茂から陵水までの道路工事、水運び、田んぼしごと、いろいろさせられた。
朝から軍営の方に、道路工事とか野菜作りで行った。金はもらったことがない。塩だけ少
しもらった。昼食も自分で持っていった弁当を食べた。山でとったさつまいもなど。
稲の栽培をしていたが、収穫すると、かならず日本軍にぜんぶ渡さなければならなかっ
た。
渡さないで見つかると、軍につかまる。拷問されて殺される。それでぜんぶ、日本軍に渡
した。
山に行って、自然になっているもの、いもなどを掘って食べた。
日本兵がときどき、家を捜索した。米を炊いたあとが残っていたり、米粒でも見つかると、
殺された。
日本軍が来たときの家の場所はここだ。草ぶきの家だった。
女性も道路工事とか、水運びとか、させられた。
一〇代くらいの若い女性が見つかれば、性的な悪いことをしていた。何回も見たが、いま
は年を取ってはっきり覚えていない。
日本兵は、若い女性の手を引っ張って、林の方に連れていった。女性は声を出せない。
声を出すとほかの人の注目を集めて、ひどい目にあう。黎族の女性は下はスカートをはい
ただけなので、強姦するのはかんたんだった。
道路工事をしているときに女性が引っ張られていった。陳金玉さんもいっしょに道路工事
をしていたときに引っ張られていった。家に戻り、翌日また道路工事に出て連れて行かれ
る。何日もこういうことが続いた。陳金玉さんが強姦されたのは一四歳のころ。わたしの
方が年上だ。
日本軍がはいって来る前は田んぼもあり、農業をして、食べ物はなんでもあった。
日本軍が来てからは、道路工事を無料でしなければならないし、田畑でとれたものは出
さなければならなくなった。農業をする時間もなくなった。山で取ったものを食べるだけ。服
も着替えはないし、生活はたいへんだった。
日本軍は豚やにわとりを見つけたら、すぐ捕まえた。にわとりは逃げるのが早く、捕まえ
られなかったら、持ち主に怒った。
父は甲長だった。日本軍の命令を、父を通して、村民に伝えた。仕事は年齢に応じて。工
事にでるのは交代。父は、九〇歳くらいで亡くなった。母は、年寄りだったので、工事には
出なかった。
朝鮮人は見たことがない。台湾兵は服装の色がちがう。台湾兵はベージュ色。日本兵は
藍色。ベンガル人はこのへんにはいなかった。
田独の鉄の鉱山にはベンガル人、台湾人がいた。わたしは田独に七回行った。手押し車
で、鉱石を運んだ。一台押したら、五角をもらった。軍票だった。一日に六台くらい運んだ。
軍の命令で、交代で行った。このへんの道路が完成したあと、日本軍がトラックで山の方
にわれわれを運んだ。一回行くと、一五日間。誰が行くかを甲長が決めたかどうか、知らな
い。
田独に行く人を捕まえるのは、中国人。トラックに乗せるのは偽政府の人。日本軍は見
ているだけ。
食べ物は自分で用意していった。売店でコメを買った人もいた。
わたしの村から行ったなかでは、死んだ人はいなかった。保亭から行った人は、病気で
おおぜいが死んだ。
飛行機が飛んできた。日本軍のものではなかった。飛行機が飛んでくると、みんな逃げ
た。
田独には、万寧、瓊海の人もいた。大陸から来た人もいた。大陸から来た人は、一年くら
いでおおぜい死んだ。わたしの寝たところは板敷の建物で、一〇〇人くらい、いっしょだっ
た。
道路工事のときは、監視も多く、働く人も多く、殴られることが多かった。
田独では、働く人が多く、監視は少ない。お金をもらえるので、みな熱心に働いた。監督
は軍人で、あまり働く人を見ていない。台湾人が労働者を監視していた。
おおぜいが共産党にはいった。死んだ人も多かった。男の人五人が入ったのを知ってい
る。日本軍と戦って、二人か三人、死んだ。
日本軍が降参したのを知ってうれしかった。知ったのが、いつだったかは覚えていない。
多くのひとが、日本軍が降参したと話していた。さいしょは知らなかった。
日本兵は長い行列をつくって村の前を通りすぎていった。二〇〇人~三〇〇人。おおぜ
いいた。そのときは、銃を持っていなかった。日本軍は、保亭から屯昌に移動した。通って
いったあと、さいしょはおかしいと思った。銃を持っていなかったし、仕事をしなければなら
ないのに、何も言ってこないし、何もしなかった。一か月間くらい。
日本兵がいなくなってから結婚して藤橋に一年くらい住んでいた。一九五七年に故郷に
戻ってきた。
日本が敗けたあと、共産党の道案内をして、国民党を襲撃したことがある。そのとき
足に当った弾の傷の跡がいまも残っている。
佐藤正人