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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 63

2013年09月15日 | 海南島史研究
(二〇) 二〇一一年一〇月~一一月 5
■保亭黎族苗族自治県保亭と加茂で
 一一月一日朝、陵水黎族自治県の陵水から、保亭黎族苗族自治県の保亭に向かった。
 保亭につき、張応勇さんの家に行った。はじめてこの家を訪ね、張応勇さんに会ったのは、二〇〇二年三月だった。張応勇さんは、二〇〇五年三月一六日の「海南島戦時性暴力被害訴訟」の口頭弁論のとき東京地方裁判所で林亜金さんとともに証言したが、その八か月後の一一月にとつぜん病死された。
 張応勇さんの家では、連れ合いの黄菊春さんが迎えてくれ、近くで黎族の織物や民芸品などを売る店を開いている娘の張熹さんも来てくれた。九年ぶりの再会だった。
 そのあと、加茂に行き、陳厚志さんに会った
 陳厚志さんは、こう話した。
   “張応勇先生とは、一九八六年からいっしょに仕事をしてきた。張応勇先生が保亭の政治
   協商会議の文史資料工作委員会にいたときからだ。
    張応勇先生は写真撮影ができる人を探していて、何人かといっしょに仕事をしたが、最
   後にはわたしがいっしょにすることになった。
    歴史をしっかり認識することがが大事だ。
    そうすれば、じぶんが何をやるべきかがわかるし、やり続けることがができる。
    「慰安婦」のことはいろいろ報道されて、注目されている。
    やめようと思っても、わたし一人の考えでやめられなくなった。
    世界の力がわたしを前に進める。
    被害者のためにできること、しなければならないことは、生活を守ることだ。
    みんな年を取って、貧しい。老後の生活を幸せに送れるようにしたい”。

 おそい昼食のあと、陳厚志さんに加茂の日本軍の侵略の跡を案内してもらった。加茂川にかかる橋の近くの河原で、陳厚志さんは、こう話した。
   “橋の基礎は日本軍がつくった。一九八〇年ころ、洪水で壊れた。
    橋の高さは、川面から六、七メートルだ。小学生のとき、学校の帰り、橋の上から川に飛
   び込んだりした。
    日本軍は、橋のこちら(加茂)に駐屯していた。国軍は橋の向こう側にいた。祖父から聞い
   た。
    近くの木のあたりが、慰安所があった場所だったという。わたしは見ていない。祖父に日
   本軍の軍営の場所や慰安所の場所を教えてもらった。慰安婦のことは、祖母から聞いた。
    小さいとき、いま給水塔があるところに、丸い形のものがあった。銃眼があった。
    炮楼ではなく、トーチカだったと思う。
    わたしの祖父は、日本軍のためにこの辺で馬の世話をしていた。日本軍のために銃をか
   ついだこともあると言っていた。銃を背負えというと、聞かないわけにはいかない。小さい
   から、銃の先が地面に着いたと言っていた。
    村の子どもたちは、何人も、日本軍の銃を背負ったそうだ。日本軍は子どもには警戒心
   がなく、子どもに背負わせた。お金はもらわなかったが、あめとか食べ物をもらったことが
   あったとそうだ。
    わたしは、黎族だ。いまも友だちと話すときは黎語で話す。
    年寄り同士が集まって酒を飲んだりすると日本軍の話をしていて、わたしはそばで聞い
   た。
    祖母はさいしょ、「慰安婦」のことはなにも話さなかった。重病になった。日本で裁判がは
   じまってから、祖母に、あなたは今病気だ、今話しておかないと、離せなくなるかもしれな
   い、そうなると本当のことが永遠にわからないままになってしまう、話したほうがいいと、
   言ったことがあった。
    そのあと、祖母は、わたしに、‘お前にだけ話す。ぜったいにほかの人に話してはいけな
   い’と言って、話してくれた。わたしが調べているのを知って……。二〇〇四年ころだった。
    黄月鳳さんのことはみんな知っていた。陳金玉さんのことはみんなには知られていな
   かったが、祖母が話してくれた”。

 一一月一日夕刻、陳厚志さんに案内されて、加茂の黄世真さんの自宅を訪ねた。黄世真さん(九〇歳)は、つぎのように話した。
   “日本兵は恐ろしい。一九四〇年、日本が加茂に来たとき、二〇歳だった。
    日本兵はわるいことばかりした。
    指三本だけで支えさせて四つんばいにさせ、腹の下に銃剣を置いた。力をぬくと、刃先が
   腹を切る。背中はまっすぐしなければいけない。姿勢を変えると殴られる。何回殴られたか
   覚えていないほどだ。
    日本兵の靴は、底がとがっている。それで蹴られると痛い。何回も蹴っとばされた。
    日本兵は女性を四つん這いにさせて、スカートをまくったりした。棒でスカートをまくりあげ
   た。
    父の弟の息子は、仕事を一生懸命しないといって、あの格好をさせられ、殴られて死ん
   だ。名前は、黄亜川。三〇歳くらいだった。
    共産党だといって日本兵が一七人を殺したことがあった。保亭ではもっと殺された。
    わたしは、加茂から陵水までの道路工事、水運び、田んぼしごと、いろいろさせられた。
    朝から軍営の方に、道路工事とか野菜作りで行った。金はもらったことがない。塩だけ少
   しもらった。昼食も自分で持っていった弁当を食べた。山でとったさつまいもなど。
    稲の栽培をしていたが、収穫すると、かならず日本軍にぜんぶ渡さなければならなかっ
   た。
    渡さないで見つかると、軍につかまる。拷問されて殺される。それでぜんぶ、日本軍に渡
   した。
    山に行って、自然になっているもの、いもなどを掘って食べた。
    日本兵がときどき、家を捜索した。米を炊いたあとが残っていたり、米粒でも見つかると、
   殺された。
    日本軍が来たときの家の場所はここだ。草ぶきの家だった。
    女性も道路工事とか、水運びとか、させられた。
    一〇代くらいの若い女性が見つかれば、性的な悪いことをしていた。何回も見たが、いま
   は年を取ってはっきり覚えていない。
    日本兵は、若い女性の手を引っ張って、林の方に連れていった。女性は声を出せない。
   声を出すとほかの人の注目を集めて、ひどい目にあう。黎族の女性は下はスカートをはい
   ただけなので、強姦するのはかんたんだった。
    道路工事をしているときに女性が引っ張られていった。陳金玉さんもいっしょに道路工事
   をしていたときに引っ張られていった。家に戻り、翌日また道路工事に出て連れて行かれ
   る。何日もこういうことが続いた。陳金玉さんが強姦されたのは一四歳のころ。わたしの
   方が年上だ。
    日本軍がはいって来る前は田んぼもあり、農業をして、食べ物はなんでもあった。
    日本軍が来てからは、道路工事を無料でしなければならないし、田畑でとれたものは出
   さなければならなくなった。農業をする時間もなくなった。山で取ったものを食べるだけ。服
   も着替えはないし、生活はたいへんだった。
    日本軍は豚やにわとりを見つけたら、すぐ捕まえた。にわとりは逃げるのが早く、捕まえ
   られなかったら、持ち主に怒った。
    父は甲長だった。日本軍の命令を、父を通して、村民に伝えた。仕事は年齢に応じて。工
   事にでるのは交代。父は、九〇歳くらいで亡くなった。母は、年寄りだったので、工事には
   出なかった。
    朝鮮人は見たことがない。台湾兵は服装の色がちがう。台湾兵はベージュ色。日本兵は
   藍色。ベンガル人はこのへんにはいなかった。
    田独の鉄の鉱山にはベンガル人、台湾人がいた。わたしは田独に七回行った。手押し車
   で、鉱石を運んだ。一台押したら、五角をもらった。軍票だった。一日に六台くらい運んだ。
   軍の命令で、交代で行った。このへんの道路が完成したあと、日本軍がトラックで山の方
   にわれわれを運んだ。一回行くと、一五日間。誰が行くかを甲長が決めたかどうか、知らな
   い。
    田独に行く人を捕まえるのは、中国人。トラックに乗せるのは偽政府の人。日本軍は見
   ているだけ。
    食べ物は自分で用意していった。売店でコメを買った人もいた。
    わたしの村から行ったなかでは、死んだ人はいなかった。保亭から行った人は、病気で
   おおぜいが死んだ。
    飛行機が飛んできた。日本軍のものではなかった。飛行機が飛んでくると、みんな逃げ
   た。  
    田独には、万寧、瓊海の人もいた。大陸から来た人もいた。大陸から来た人は、一年くら
   いでおおぜい死んだ。わたしの寝たところは板敷の建物で、一〇〇人くらい、いっしょだっ
   た。
    道路工事のときは、監視も多く、働く人も多く、殴られることが多かった。
    田独では、働く人が多く、監視は少ない。お金をもらえるので、みな熱心に働いた。監督
   は軍人で、あまり働く人を見ていない。台湾人が労働者を監視していた。
    おおぜいが共産党にはいった。死んだ人も多かった。男の人五人が入ったのを知ってい
   る。日本軍と戦って、二人か三人、死んだ。
    日本軍が降参したのを知ってうれしかった。知ったのが、いつだったかは覚えていない。
   多くのひとが、日本軍が降参したと話していた。さいしょは知らなかった。
    日本兵は長い行列をつくって村の前を通りすぎていった。二〇〇人~三〇〇人。おおぜ
   いいた。そのときは、銃を持っていなかった。日本軍は、保亭から屯昌に移動した。通って
   いったあと、さいしょはおかしいと思った。銃を持っていなかったし、仕事をしなければなら
   ないのに、何も言ってこないし、何もしなかった。一か月間くらい。
    日本兵がいなくなってから結婚して藤橋に一年くらい住んでいた。一九五七年に故郷に
   戻ってきた。
    日本が敗けたあと、共産党の道案内をして、国民党を襲撃したことがある。そのとき
   足に当った弾の傷の跡がいまも残っている。
                                              佐藤正人
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日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 62

2013年09月14日 | 海南島史研究
(二〇) 二〇一一年一〇月~一一月 4
■瓊海市中原鎮燕嶺坡と長仙村で
 一〇月三一日朝、瓊海市内から、曹靖さんと、中原の燕嶺坡の“三・一”被難公塚に向かい、午前九時半に着いた。
 燕嶺坡は、一九四五年農歴三月一日(普通暦四月一二日)に、日本海軍海南警備府佐世保第八特別陸戦隊の中原守備隊、陽江守備隊、橋園守備隊の将兵が、楽会県互助郷(現、瓊海市中原鎮)の坡村、長仙村、三古村、南橋村、雅昌村、佳文村、鳳嶺村、吉嶺村、官園村の村人を集めて殺害した現場である。
 一九四七年農暦三月に、その場に「“ 三・一” 被難公塚」が建てられた。墓碑には、「楽会県互助郷坡村長仙三古南橋雅昌佳文鳳嶺吉嶺官園等村抗戦死難民衆公墓」と刻まれている。
 その場で、幸存者のひとりである曹靖さんは、つぎのように話した。
   “日本軍はここに村人を連れてきて殺した。あらかじめ掘っておいた穴に遺体を捨てた。
    遺体は、村民に埋めさせた。生きている人もいた。深く埋めないでくれというのを、軍人が
   監視しているから、そうできなかった。
    長仙村では共産党組織が活動していた。坡村では、国民党組織が活動していた。長仙
   村を襲撃したあと、日本軍は、坡村も襲撃した。日本軍の通訳をしていた人が、陽江の部
   隊から機関銃やら武器を盗んで、坡村に逃げ込んだ。それで、日本軍が坡村を襲撃した。
   台湾人かもしれない。日本敗戦間際になっていたので、日本軍にいるとよくないと考えた
   のかもしれない 
    日本軍の駐屯地は、中原、陽江、橋園だった。人数は陽江がいちばん多かった。あのと
   きは、中原の部隊が指揮して襲撃したが、陽江、橋園の部隊も合流した。陽江、橋園の部
  隊は村から逃げた人を山の方に包囲して、子どもも老人も殺した。
    村民に中原の部隊に来させて、良民証をチエックした。良民証は一三歳以上は持たされ
   る。次兄は中原に行って良民証を持たされていたが、殺されなかった。
    子どもは一列、大人は二列に並ばせた。子どもを連れた母親は、大人の列に並び、子ど
   ももいっしょに殺された。
    若い女性が七人、どこかに連れていかれた。陽江のほうに連れていかれて、慰安婦にさ
   れたのだろう。見たことはないが、みんなそう言っていた。七人のうち、ふたりはいまも
   元気だ。日本が敗けたたあと、七人はみんな村に戻ってきた。村の人は、何も言わなかっ
   た。日本は慰安婦のことは否定できない。
    日本軍は村を三か月間、包囲した。村の人は、山に逃げて、夜中、日本軍がいなくなると
  食べ物などを取りに、家に戻った。
    わたしは親戚のところにも逃げることができなかった。母はこのころすでに、病気で亡く
   なっていた。父はシンガポールに行っていなかった。わたしは三番目。長兄は二一歳。共
   産党に入っていたかどうか知らないが、若者が村にいるとあぶないので、村に戻らず、放
   浪していた。
    日本軍の襲撃後、わたしは、次兄とふたりで、食べられず、村を出て、物乞いをしながら、
   生き延びた。 一時的に村に戻って、日本軍に見つかり殺された人もいた。 
    この碑ははじめ一九四七年に国民党が作った。その後、死者の名前が刻まれた四枚の
   碑の一枚が行方不明になった。文革のときまた壊されたが、一九八四年に修復した。二〇
   〇一年に土を盛った墓をセメントで固めた。二〇一一年はじめ、屋根、門などを改装し、新
   しく道を作った。
    わたしは、一九六七年から一九八七年まで昌江で仕事をしていたので、そのとき石碌鉱
   山に行ったことがある。日本軍の慰安所の建物が残っていた。
   日本の敗戦後、陽江で慰安所の場所を見たことがある。いまは残っていない。
   次兄は一五歳のとき、国民党に捕まって殺された”。
 
 一一時ころ、曹靖さんに、日本海軍海南警備府佐世保第八特別陸戦隊の中原守備隊本部があった所に案内してもらった。そこは、中原の中心部で、瓊海華僑医院の敷地内でした。そこで曹靖さんは、こう話した。
   “日本軍守備隊の本部の門は、いまの病院の門のあたりにあった。敷地全体が鉄条網で
   囲まれていた。鉄条網の内側に溝を掘って水を流していた。溝の内側に塀があった。大人
   の背丈より一〇高かセンチほど高かった。
    地下壕があった。日本軍がいなくなってからここに来て見た。
    ここには炮楼はなかった。炮楼は治安維持会にあった。
    日本軍は降伏したあと、国民党に建物や武器を渡した。その後、建物が共産党の時代に
   刑務所として使われたこともあった。いまはその建物は残っていない。この奥にいま高速
   道路がつくられているが、その向こう(北方向)に、“三・一”被難公塚がある”。

 そのあと、曹靖さんに案内されて、炮楼跡に行った。そこで曹靖さんはこう話した。
   “二本の通りがあって、それを見渡せる位置に炮楼があった。
    さいしょ、日本兵は村人を維持会に集めて、子どもと大人を二列に並ばせた。
    そのあと、大人を縄で数珠つなぎに縛って、機関銃をかまえながら、駐屯地に連れていっ
   た。
    それを何回もくりかえしたので、変に思った人が逃げたが、撃ち殺された。発砲のあと、
   もっとおおぜいの兵隊が来た”。
    炮楼の近くに治安維持会があった。治安維持会の建物は解放後、役場として使われた
   が、役場が新しく作られてからは使われなくなった”。

 維持会の建物があった場所は、塀に囲まれ、空き地になっていた。通りの向かい側の警察署のある場所は、日本軍が守備隊本部の建物を作るまえに、兵営とし「接収」していた建物があった場所だとのことだった。
 一〇月三一日午後、曹靖さんに案内されて、曹靖さんの故郷の長仙村に行った。
 村の中心部にある茶店を過ぎて五〇メートルほど歩いたとき、そばの空き地のまえで、曹靖さんは、つぎのように話した。
   “ここに家が七軒があったが、みんな焼かれた。
    この家では五人が殺された。祖母、二番目の祖母、祖父、母、兄嫁。祖母の頭は切られ
   て玄関につるされた。
    この家は四人家族だった。父、母が中原に連れていかれて殺された。兄ふたりは山に逃
   げたが、夜、家に戻ってきて食事の支度をしていたところを見つかって殺された。一番下の
   九歳の子がひとりになって、あちこちで物乞いをしながら生き延びた。
    この子は生活はたいへんだった。いまは、遠くの白馬井で結婚して暮らしているが、お金
   がなくて故郷に戻れない。
    山に逃げた人たちは、解放後みんな戻ってきたが、この人や何人かは故郷に戻れない
   ままだ。
    このときいっしょに、同じ村のふたりが殺された。食事の支度をしていて見つかり殺され
   た。ふたりは、ここで銃殺された。二、三日たって誰かがかんたんに埋めたが、においがし
   たのか、犬が掘りおこして死体を食べた。
    わたしは、子どものとき、このあたりに遊びに来て、頭や手の骨を見たことがある。
    この家では、母、兄嫁が殺された。ふたりの兄弟が生き残ったが、村をはなれ、親せきの
   家に行って、日本軍いなくなったあと、戻ってきた。弟がこの大きな家を新しく建てた。兄は
   結婚しなかった。兄弟はいまも元気で、ここに住んでいる。兄は、欧育援、七八歳くらい、
   弟は欧育河、七五歳くらいだ”。

 曹靖さんと歩いているとき、馮家煌さん(一九四三年生)に出会った。右目が白くなっていた。馮家煌さんは、
   “父と母は、他の人たちといっしょに中原で殺された。
    残ったのは子どもがふたり。兄の家金は六歳だった。
    世話してくれる人がいなかった。食べ物がなくて、おなかがすいて、水の中の食べられる
   ものを探しているとき、目にヒルがついて、目が見えなくなった。
    日本が敗けてから、村の親せきのおばさんがふたりを育ててくれた”、
と、静かな口調で話した。村はずれの檳榔樹の林のまえで、曹靖さんは、
   “ここにあった家の家族はすべて殺された。
    あそこには、八軒の家があった。家は二列に並んでいた。おとなは男も女もぜんぶ殺さ
   れた”
と話した。子どものとき日本軍が襲撃したとき住んでいた家(当時の柱を残して改築)で、曹靖さんは、つぎのように話した。
   “日本軍が向こうから(家に向かって左方向から。木立のなかに細い道がある)来て、門の
   ところで大きな声を出した。‘戸をあけろ’という大声。
    日本軍が村に入って家を焼いている煙がひどかった。隣のおばさんが、その声を聞いて
   出てきて、ひどいことはしないから大丈夫だと言ってじぶんの家に戻ったが、そのつぎに見
   たときには、じぶんの家で死んでいた。
    午後四時ころ、日本兵が一二人、家の前を通ってこの道を戻ろうとしていた。小さい犬が
   吠えるので、先頭の指揮官の人が突き刺そうとするかっこうをすると、犬がおばあさんの両
   足のあいだに入った。おばあさんは、‘殺さないで’と言った。
    先頭の幹部はそのまま行き、兵士たちが通りすぎようとするとき、最後尾のひとりが、早く
   逃げろというような身振りをして何かを言った。わたしは、意味がわからず、海南語で、“な
   んですか?” “なんですか?”と聞くと、首を切るかっこうをして、海南語に似たコトバでもそう
   いう意味のことを言った。
    それで理解できた。
    わたしとおばあさんに、逃げるようにと言ったのだ。日本軍が通りすぎていったあと、山の
   方に逃げた。隠れていたら、別のふたりの兵隊が、一二人の兵隊がいま行った方から来
   て、家に入って捜索しているのが見えた。逃げていなかったら、殺されていただろう。
    昔は家の前の畑の檳榔の木がなかった。田んぼとスイカ畑だけ。前の山から、家が見え
   た。
    陽江から近い村には、昔たくさんの骨が出てきた。この長仙村の大人は、おおぜいが中
   原の燕嶺坡で殺された”。
                                                 佐藤正人
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日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 61

2013年09月13日 | 海南島史研究
(二〇) 二〇一一年一〇月~一一月 3
■瓊海市長坡鎮楽古昌村で
 一〇月三〇日早朝、文昌市内から瓊海市の長坡鎮楽古昌村と南宝村に向かった。九時ころ長坡鎮の中心部に着き、道に立っていた人に楽古昌村と南宝村の場所を尋ねた。その人(黄兆民さん)は、楽古昌村の人だった。
 黄兆民さん(一九三一年生)は、
   “日本軍がきた当時のことを直接知っているのは、楽古昌村では自分だけだ”、
と言った。偶然、黄兆民さんに会えたので、楽古昌村での日本軍の侵略犯罪をくわしく知ることができた。
 近くの楽古昌村に案内してもらうようにお願いし、村に行く前に、息子の黄才超さんが経営している茶店で話しを聞かせてもらった。黄兆民さんは、つぎのように話した。
   “農歴一九四二年正月一三日、朝四時ころ、日本軍がトラック二台で村に来た。トラックは
   重興から来た。人数ははっきり覚えていない。
    日本軍は、人を見つけたら、縄で片腕だけ縛って、七、八人くらい、いっしょにつないだ。
    そのとき逃げた人もいた。女性が日本軍に、「シンシャントウリ」と挨拶し、おしっこしたいと
   言って、ほどいてもらって、別の場所に行って逃げたが、日本軍は追いかけなかった。この
  とき、ふたりの女性が逃げた。
    若い男八人くらいが、重興に連れていかれて殺されたと聞いた。共産党の疑いで、良民
   証を持っていなかった。
    日本兵は、女性でも子どもでも見つけたらすぐに捕まえた。捕まえたら、トラックに乗せ
   た。年寄りを集めて、この茶店の半分くらいの部屋に閉じ込めた。
    日本兵が一人、わたしの家に門から入ってきて、祖父に何か言って、家の捜索もしない
   で、裏口から出ていった。その日本兵が使っていたことばは何語かわからない。あそこに
   行きなさいというようなことを言ったが、あの人は台湾人だったかもしれない。わたしたちは
   家から逃げだした。
    わたしの家族は、兄嫁ふたり、いとこの子などあわせて八人だった。両親は亡くなってい
   た。いとこは、マレーシアに行っていた。わたしはひとり子だった。
    七時ころ、日本軍は、二台の機関銃で撃ったあと、村人が集められ閉じ込められた家を
   焼いた。焼かれた跡はそのまま残っている。その跡に家は建てていない。
    村で焼かれたのは、一軒だけだった。隣の東山村では何軒も焼かれた。
    焼き殺された人たちを(そのあと見たら)、頭だけだったり、足だけだったり、みんな真っ黒
   だった。だれかわからないので、家族や生きのこった人たちが、みんないっしょに、大きな
   葉につつんだり、袋に入れたりして、大きな穴を掘って埋めた。
    解放後、場所を移して、別のところに墓を作った。最初埋めた場所は、はっきりとはわか
   らないが、木が茂っている。新しい墓には、被害者ぜんぶの名前が書いてある。毎年四月
   一三日に、遺族が墓参りする。
    重興までの道路は、共産党の組織が日本軍の通信線を切ったり、道路に穴をあけたり、
   木を切り倒して道路に横たえトラックが通行できないようにすることがしばしばあった。
    そのたびに、日本軍は村人に道路改修をさせたので、村人は、日本軍が集まれといった
   ときも、警戒心がなく集まった。共産党は、川を渡る橋を破壊したこともあった。電柱が倒れ
   たり、電線が垂れているのを見たことがある。わたしは道路の復旧工事には行かなかっ
   た。
    生き残った黄家賛が、共産党に入った。三〇~四〇歳だった。家族のことは知らない。娘
   がいたが……。どんなことをしていたか知らない。
    そのあとまた日本軍が来て、共産党員がいたら差し出せ、差し出さなかったら、村、家、
   家族を全滅させるといってきた。黄家賛はそれを知って、みずから日本軍のところに行っ
   た。日本軍はこの人を殺さなかった。このことは村人がみんな知っている人。
    黄家賛は日本の敗戦後、国共内戦のとき、共産党側から国民党側と見られて、殺され
   た。雑貨売りのしごとなどをして暮らしていた”。

 茶店で黄兆民さんの話を聞き始めたとき、入ってきた来た人が、以前わたしをこの近くの白石嶺で案内したことがあると、話しかけてきた。その人は、二〇〇二年一〇月に追悼碑に案内してもらった文昌市重光鎮白石嶺村の林方徳さんだった。九年ぶりの再会だった。

 一〇時半に、黄兆民さんに楽古昌村に案内してもらった。林方徳さんもいっしょだった。
 村の入口に、日本軍に殺された村人の墓があった。墓前の碑の前面に、
    嘆亡霊含冤地下
    楽古埆村同胞於一九四二年正月十三日晨惨遺日冠焼殺
    而死亡者友六十八人葬於檳榔園地
    深仇血海永世不忘
      公元一九八八年正月十三日重立碑紀念
    吊英魂遺恨人間
と刻まれていた。裏面には、「諸亡者名氏順序排列於下」という文字のあとに、犠牲者六八人の名が刻まれていた。楽古昌村ではなく楽古埆村と刻まれているのは、海南語では、昌と埆は同じ発音だからとのことだった。
 墓の前で、黄兆民さんは、
   “さいしょの墓にも碑があった。そこにも名前を書き入れていた。小さかったが。さいしょは
   土盛りだった。
    シンガポールかマレーシアの華僑がお金を出してつくった”、
と話した。そのあと、黄兆民さんに、村人が閉じ込められ焼かれた家の跡に案内してもらった。そこで、黄兆民さんは、
   “村の北側の道路から、日本軍が来た。その道路は日本軍が来る前からあった焼かれた
   家の入り口にリュウガンの木があって、村人はさいしょこの木の下に集められた。
    蹴飛ばしたりして、家の中に行けと、むりやり入れた。
    木の下から日本軍が銃を撃った。
    ふたりが逃げた。ひとりは窓から逃げて、一〇〇メートルくらい逃げたところで、日本軍に
   撃たれて死んだ。ひとりは天井の屋根瓦をはずして、屋根に上がって、隣の家の屋根伝い
   に逃げようとしたが、見つかって、撃ち殺された。窓から逃げて射殺されたのは黄兆昆、屋
   根から逃げて撃ち殺されたのは黄兆斌だった”、
と話した。
 瓊海市政協文史資料研究委員会編『瓊海文史』第6輯(日軍暴行録専輯、一九九五年九月)に掲載されている林斯炳整理「長坡鎮楽古昌村“一・一三”惨案」には、つぎのように書かれている。
   「一九四二年正月初十、共産党抗日遊撃隊配合抗日群衆拆毀了文子大橋、破壊日軍交
   通要道、実施焦土抗戦。駐三牛(今重興)之日軍聞悉大為悩怒、于十三日包囲了大橋附
   近的楽古昌村、挨戸捜捕、把六十九位無辜群衆関押在該村黄氏祠堂里、然后以火活活
   焼死、竝焼毀民房十余間。之后、村中民衆六十九位罹難同胞的骸体合葬在村前、竝立
   碑志之」。
 農暦一九四二年一月一三日は、普通暦一九四二年三月一日である。

■瓊海市長坡鎮南宝村で
 一〇月三〇日午後三時に、瓊海市長坡鎮南宝村を訪ねた。
 村の入口の三叉路に着いて、右側の細い道を入っていくと、村人の林斯陽さんに出会あった。林斯陽さん(一九六〇年生)は、
   “父の林道彬は一九三〇年生れで、長坡鎭の政府に勤めていたが、退職して家にいる。
    足が弱っていて寝たきりで、耳がとおくなっているが、話は聞くことができる。
    父は、昔のことをよく知っている”
と話した。林道彬さんに会う前に、林斯陽さんに、犠牲者の墓に案内してもらうことにした。来た道を三叉路にもどるとき、林斯陽さんは、左側のゴムの樹の林を指差して、
   “このあたりが、むかしの村の中心だった。家がたくさんあったが、日本軍に焼かれてし
   まったそうだ。
    わたしが子どものときから、ずってここには家は建てられていない”
と話した。
 墓地は三叉路のすぐ近くだった。墓には、焼き殺された犠牲者の遺骨が埋められているという。高さ二メートルほどの墓碑の中央に、「紀念南福老蘇村「四二七二」惨案七星墳」と刻まれており、その右に、
   殉難者 林明日青抗会委員民運隊長
       林道虎青抗会委員甲長
       林李氏道虎母 林李氏道漢母 林黄氏道江母 林黄氏資茂2伯母 ○(女+不)鳳道
      虎次女
と刻まれていた。
 「四二七二」(農暦一九四二年七月二日。普通暦一九四二年八月一三日)に日本軍に殺された「七星」(七人)の「南福老蘇村」の村人の墓で、「老蘇」とは、老(古くからの)蘇(ソビエト:革命根拠地)という意味だ。
 墓碑の左には、「公元一九九三年清明 立」と刻まれていた。
 墓碑の裏面に刻まれていた墓誌の全文はつぎのとおりである。
    南掘村『四二・七・二』惨案殉難者義家『七星墓』墓誌
    曁南大学栞授生・中国書画家林斯炳譔竝書於癸酉年孟春
    南掘村亦曰南福村、抗日戦争時期、本村人民在中国共産党的領導之下、成立了着抗
   会、婦救会、民運交通站抗日組織、堅持抗戦、不屈不撓。村中常駐党的交通站、県区、
   郷人民政府及武装部隊、乃為抗戦之堡壘。 
    一九四一年春、王京瓊崖蘇維埃政府主席符明経、東定県民運部長符昌文等率部進駐
   本村領導抗日闘争。於此、倭寇加緊対南掘村大肆囲剿、実行『三光政策』、於け一九四
   二年七月二日晨、日軍大隊進村、殺死無辜民衆六名、焼毀民房三十四間、史称南掘村
   『四二・七・二』惨案。
    此外日寇及国民党反動派還殺害本村青抗会委員、民運隊長林明日:開槍打傷偵本村
   察排長黄順月婦救会員王春香。
    在長期革命戦争中南堀村人民不惜犠牲、做出了重大的貢献、気節悲壮、可歌可泣、人
   民政府追認為抗日根拠地老区村荘。
     為悼念罹難同胞之英魂特樹碑緬懁先烈以永誌
     革命精神永垂不朽!
                    本村民衆 立

 墓碑に書かれている殉難者の一人、林明日青抗会委員民運隊長は、林斯陽さんの叔父だとのことだった。林斯陽さんは、
   “父は三人兄弟の長男で、林明日は二男だ。
    父のいちばん下の弟はマレーシアに行ったまま戻っていない。行方不明だ。
    父は、弟の明日が共産党の活動をしているのは知っていたが、どんな仕事をしていたか
   ははっきり知らなかったようだ。
    碑文に書かれていることとは少しちがう。民運は、米とか塩とか。組織で使うものを調達
   する組織だ。
    父は、母がいるので、このとき、組織に入れなかったようだ”。
と話した。
 墓地を離れ、林斯陽さんの家に行った。林道彬さんが寝たままわたしたちを迎えてくれたが、ほとんど話をすることができないようすだった。
 父の林道彬さんから聞いたことだと言って、そばで、林斯陽さんがつぎのように話してくれた。
   “林道虎が町で塩や薬を買ったとき、漢奸が後をつけてきた。
    日本軍が来たとき、遊撃隊は撤退していたが、日本軍は林道虎の家を捜索した。塩や肉
   が発見された。
    量が多かったので、共産党に渡そうとしていたものだろうと思われた。
    日本軍が来たとき、多くの人は山の方に逃げることができたが、逃げられなかった七人
   が捕まって、一つの部屋に入れられて、焼き殺された。
    家は、甲長の家以外は、残らず焼かれた。甲長もみんなといっしょに逃げた。甲長の姉
   は日本人と関係のいい人と結婚していた。
    墓誌に書かれている○(女+不)鳳道虎次女は、銃剣で刺し殺され、火の中に放り込まれ
   た。
    家畜などもいっしょに焼かれた。
    山に逃げた人は、山で自然にできたさつまいもや葉っぱを食べた。
    根拠地だから山にも米とか食料は、隠していたので、それを食べた。
    田んぼが少しあったので耕したり、親せきに助けてもらったりして暮らした。
    日本軍のスパイがいて、日本軍に誰か共産党の活動をしていると教えた。日本軍が来た
   とき共産党員はいなかったが、銃の筒を掃除する鉄棒が見つかった。日本軍はさらにくわ
   しく捜索して、大量の塩や肉を発見した。その間に村民のほとんどは逃げたが、七人が逃
   げられず、捕まった。山にいったん逃げて、二、三歳の子どもがいたので、戻って見つか
   り、捕まって殺された人もいた。
    日本軍に襲われ家を焼かれた直後は、また襲われるかもしれないし、村人が殺されたと
   ころにいたくないし、メシを用意したらすぐにまた山に戻った。田畑のしごとをしに来ても、す
   ぐにまた山に戻った。
    この村は、当時は、一一家族で、住民は四六人くらいだった。
    この辺は山が深く、大人が二、三人でも抱えきれないほど太い荔枝の樹もあった。川も
   すぐ近くにあって、水には困らなかった。だからこの辺の村は、抗日軍の根拠地になっ
   た”。
 
 南宝村は、日本軍に襲撃されたあとは、南掘村と改名したという。南福村とも呼ばれている。この村には、共産党の瓊海県根拠地が置かれていたという。
 瓊海市政協文史資料研究委員会編『瓊海文史』第6輯(日軍暴行録専輯、一九九五年九月)に掲載されている林斯炳整理「長坡墟南宝村“七・二”惨案」には、つぎのように書かれている。林斯炳さんは、墓誌を書いた人である。
   「一九四二年月七月二日晨、駐(沙老)大橋炮楼的日軍小阿部進入長坡墟南宝村掃蕩、
   発現該村林道虎家有食塩、認為該村蔵共抗日、先用刺刀刺林道虎全家、用辣椒冲水灌
   村婦王春香、強迫供認村中蔵共、王春香不認、日寇又把所有在村的男女老幼(当時不
   在村内的一些群衆幸免外)共十二人抓起来(其中一名女孩僅八歳)押到林明日、林道
   虎家関起来、揚言如不認就焼死。被押群衆寧死不供、接着日寇就搬来柴草、燃起熊熊
   大火把這些村民活活焼死、竝継続焼毀民房三十余間、十多戸人家満門遭惨殺、成為南
   宝村“四二・七・二”大惨案。僅存六戸(其中三戸当時選已逃往南洋)人家十五個人。村
   庄三日火焚不滅、村民流離失所、目不忍睹、被毀壊的残墻断壁至一九六二年尚何見
   到。南宝村遭日寇摧残后改名為南掘村」。
                                                     佐藤正人   
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日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 60

2013年09月12日 | 海南島史研究
(二〇) 二〇一一年一〇月~一一月 2
■文昌市東閣鎮金牛流坑村で
 一〇月二九日午後四時すぎに金牛流坑村に着いた。
 この村を訪問したのは、海南島で発行されている日刊新聞『商旅報』二〇〇八年一二月二九日号の記事「文昌村民立日寇跪像在墓前 日軍六六年前在文昌大肆,流坑村一天被殺害、焼死村民七二人,今人発誓銘記歴史」を見たからだった。
 村のなかの墓地に、「家仇郷恨」と刻まれた一九八五年に建てられた凌緒忠さんの母の墓碑があり、その前に、墓に向かって座って頭を下げている四個の日本軍人の等身大より少し小さめの石像が置かれてあった。その背中には、「海軍中将 迈勝信竹」、「陸軍中将 佐賀」、「陸軍少将 安藤利吉」、「旅団長少将 飯田祥二郎」と刻まれていた。「海軍中将 迈勝信竹」は、近藤信竹のことだと思われる。近藤は、一九三九年二月一〇日に海南島に奇襲上陸した日本海軍の第五艦隊司令長官だった。
 一九三九年一月一七日に天皇ヒロヒトは海南島への日本軍の奇襲上陸を「裁可」し、同じ日に大本営陸軍部と大本営海軍部は、「北部海南島作戦陸海軍中央協定」をむすび、海南島奇襲上陸の「時期」を「二月中旬ノ頃ト予定ス」とし、「作戦兵力」を「陸軍 飯田支隊ヲ基幹トスル部隊。 海軍 第五艦隊ヲ基幹トスル部隊」としていた。
 日本軍人の石像の後ろには、碑文が刻まれた大きな石が置かれていた。そこには、細かな文字で、
   「勤労善良的老百姓、不知道日出而耕、日落而息、却不知道有着一介大和民族和日本
   天皇、更談不上与他們結下血海深仇、然而却遭受到了、日本帝国主義惨無人道的殺
   害……」、
   「据当地的村民介绍,六〇多年前,侵略海南的日本军人在海南文昌东阁镇金牛流坑村
   一天里就杀死、烧死七二名男女老人,惨绝人寰,骇人听闻……」
と刻まれていた。
 凌緒忠さん(一九三四年生)は、墓近くの自宅の前で、
   “日本軍が来たとき、わたしはマレーシアにいた。
    村に戻ったのは日本軍がいなくなってからだった。一八歳のときだった。
    母は、日本兵に性的暴行を受けたあと、殺された。墓は、わたしがつくった。
    いまの墓石は、一九八五年に新しく建てたものだ。
    碑文は、目撃者の話を聞いて、さいしょはわたしが書いた。そのあと、何人もの人が直し
   てくれた”、
と話した。
 そのあと、多くの村人が農暦一九四二年三月六日(普通暦四月二〇日)に日本海軍海南警備府第一五警備隊の兵士によって殺された村の中央部にいき、幸存者の邢谷煌さん、邢福虎さん、符和如さんに話を聞かせてもらうことができた。
 邢谷煌さん(一九三四年生)は、つぎのように話した。
   “このへんでいちばんたくさん殺された。このあたりに集められた。楊桃の木が三本あっ
   た。
    逃げた人もいたが、日本軍は、逃げた人に発砲した。それで死んだ人、けがした人もい
   た。
    家に逃げた人、家に隠れた人もいたが、ひとりづつ、追い出されてきて、集められ、みん
   な、一つの部屋に閉じ込められた。
    部屋に隠れていた子ども、女性、みんな追い出されてきた。さいしょに、子どもたちが殺さ
   れた。殺された子どもはみんな小さかった。
    日本兵は、女性を強姦し、若い人も年よりも銃で刺し殺した。
    わたしは、おとながお尻を押し上げてくれて、屋根の瓦を外し、逃げ出すことができた。
    農歴一九四二年三月六日だった。
    父(邢定平)、母(黄氏)、妹が殺された。妹の名は覚えていないが、三歳くらいだった。叔
   父(邢定河)も殺された。
    何日かたってまた日本軍が戻ってきたとき、兄(邢谷堂)が殺された。一六歳くらいだっ
   た。
    兄嫁(符氏)も殺された。みんないっしょに村からすこし離れたところに埋めた
    ほかにふたりの兄がふたりいたが、ふたりともマレーシアに行っていた”。
 邢福虎さん(一九二七年生)は、つぎのように話した。
   “日本兵は、逃げられなかった人たちをこのあたりに集めた。
    日本兵のひとりが家の外で銃を構え、ひとりが家の中を探して人を見つけると、外に追い
   出して、外にいた兵士が殺した。
    人の血が、上からここらへんまで流れてきた。
    日本兵は、はとても残酷だった。四〇歳以下の女性はみんな強姦した。
    女性の乳房を切り取って、陰部に何かを差し込んだりした。
    日本軍がきたとき、わたしは、隣の美柳村に逃げた。
    日本軍が引き上げたあと、村に戻って母(立卿)の死体を見つけた。乳房が切り取ら
   れ、銃で二か所撃たれていた。
    ふたりの兄が共産党に入っていた。父はマレーシアに行っていた。
    日本軍が引き上げたあと、兄ふたりといっしょに三人で、板に母の遺体を乗せて、学校の
   ところに埋めた。
    その後、共産党にはいった。馮白駒、陳青山のために食事の支度をしたり、伝令をしたり
   した。陳青山は海南島人ではなく、ことばがわからなかった。わたしが通訳をした。
    東閣鎮や宝芳鎭では、共産党が活動していた。一九二七年に、革命運動に参加した人
   がかなりいた。
    馮白駒は正司令。庄田は副指令。馬白山は政治関係主任。陳青山は組織部長。第一支
   隊は臨高や白沙の村に司令部があった。司令部は何か所も移動した。白沙でも何か所か
   移った。
    共産党に参加して何か月かたって、日本が降参した。そのときは白沙にいた。そのころ、
   (食べるものがなく)生活はとてもたいへんだった。山にいるとき、サルが食べるものを見て、
   これは食べてもだいじょうぶと思って、食べた。
    勤務員だったので、日本兵との戦闘に参加したことはなかった。ずーと同じ支隊の司令
   部にいた。
    日本軍がいなくなったあとは国民党軍と戦った。そのとき左ほほ、右ももを弾がかすっ
   た。顔に弾丸が当り、歯を二本なくした。
    一九四七年に病気になって、しかたなく故郷にもどった”。
 符和如さんは、
   “七人家族で暮らしていた。ひとつの部屋に集められ、火をつけられた。自分ひとりだけ生
   き残り、家族六人の遺体を埋葬した”
と話した。
                                                     佐藤正人
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日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 59

2013年09月11日 | 海南島史研究
(二〇) 二〇一一年一〇月~一一月 1
■文昌市錦山鎮で
 海南島に着いた翌日、一〇月二九日に、はじめ、文昌市錦山鎮に行った。かつて錦山鎮には、日本海軍海南警備府15警備隊の守備隊が「駐屯」していた。
 午前一〇時ころ錦山鎮の中心部にある錦山中学校前に着いた。校内に入って日本軍守備隊が「駐屯」していた場所を尋ねると、五〇歳代の教師が、
   “ここには日本軍の兵舎はなかったが、校庭の隅で日本軍が抗日部隊の兵士だとして人
   の首を切ったことがあると聞いたことがある”
と話した。
 錦山中学校の近くに、「裕源楼」という日本軍が司令部を置いたという建物があった。そこにいた黄冠瓊さん(一九五四年生)は、つぎのように話した。
   “夫の祖父(潘先璧)が、一九三二年か三三年ころ、この家を建てた。
    日本軍が攻めてきて、家を奪った。このへんでいちばん立派な家だったので。
    祖父の故郷は南坑村。商売をためにここに来て、家を建てた。
    日本軍に家をとられてまた故郷にもどった。
    祖父は、対亜州の商売をしていた。タイ、上海、広州、湛江など。
    解放後、共産党に占領されて、一九八四年に祖父に返された。
    日本軍は、抗日運動をした人を殺したこともある。夜、遊撃隊が攻撃して、爆弾を撃っ
   た。遊撃隊は何人も死んだ。近所の年寄りたちから聞いた”。
 「裕源楼」の近くに住む陳文林さん(一九二五年生)は、
   “錦山で生まれた。日本軍にたくさんの人が殺された。
    あの家(「裕源楼」)に、日本兵一〇人あまりが住んでいた”、
と話した。

■文昌市錦山鎮排坑村 
 「熱帯先生」 が二〇〇八年三月二三日にブログに発表した「放牛娃発現日本军隊侵華鉄証」 に、排坑村の畑のなかに残されている石の写真が掲載されている。その長さ70センチほどの細長い石には、「激戦之跡」、「海軍山崎部隊鈴木隊 一九四一年五月九日(原文「元号」)」と刻まれている。
 一〇月二九日一一時半に錦山鎮排坑村に着き、村人にその石のありかを尋ねた。
 村の中心にある大きな樹の下で、陳川英さん(一九三四年生)は、つぎのように話してくれた。
   “石碑はなくなった。どこにいったかわからない。
    石碑があったところは、いま魚の養殖場になっている。
    わたしが一〇歳くらいのときだった。あのとき、日本兵が一〇人以上死んだ。連隊の
   責任者も死んだ。共産党と戦って。
    そのあと、日本軍のたくさんの車、軍隊がきた。飛行機も飛んできた。生き残った日
   本兵が錦山に逃げて、またきた。
    日本軍が二台のトラックで通るのが情報でわかって、共産党が道の両側に隠れて待ち
   伏せしていたと、あとから村の大人に聞いた。
    共産党は(トラックがまだ近づいてこない)離れたところから撃ちはじめたので、逃げ
   た人が多かった。
    わたしは、そのとき共産党が隠れていたことは知らなかった。牛追いをしながら、日
   本軍のトラックが通るのを見ていた。銃撃の音を聞いて、すぐに家にもどった。
    日本軍がトラックで来た道は、錦山から馮坡に行く道。日本軍が村人を働かせて作ら
   せた道だった。日本軍は錦山の方から来た。
    この村に何回も日本軍が攻めてきたが、殺された村人はいなかった。共産党に参加し
   た人は、逃げて村にいなかった”。
 陳貽学さん(八二歳)は、つぎのように話した。
   “戦いがはじまったとき、見た。
    弾丸が飛び交っているのが恐くて、逃げた。
    共産党側は何人が死んだのか、わからない。共産党が襲撃したのは、朝八時ころ。(草
   むらで隠れているので)なにかと思って、そばに寄っていくと、早く逃げなさい、と言った。
    (日本軍を攻撃した人たちは?)隣の浜辺の村から来たのではないか? 海辺の村は、
   遊撃隊が活動していた。
    (海辺の村の名前は?)見山、西山、見亮、山雅。
    この村からも、遊撃隊に参加した人がいた。
    日本軍が村に来たとき、さいしょは恐かった。村人を全員集めた。わたしも集められた。
    村の人で、錦山で日本軍に捕まって殺された人がいる。共産党組織に参加したといって。ふたりとも二〇歳あまりだった。陳文輝、林克緯。二人の家族から聞いた。ひとりは遺体を返してもらったが、もうひとりは返してもらったかどうか、わからない。ふたりとも、知ってる人だ。
    陳文輝の遺族は錦山にいる。林克緯の遺族はマカオにいる”。

 陳川英さんが、村の中の小道を抜けて、日本軍を襲撃した場所の近くを通って石碑があったという養魚場まで案内してくれた。
 養魚場を経営している陳貽順さん(四七歳)は、つぎのように話した。
   “昔、左の方からいまの池を通って行く道があった。戦闘の場所は、いまは池の中。石碑
   があった場所もいまは池の中だ。
    養魚場ができたのは、二〇〇九年。小さいころ、牛追いをしてしょっちゅう来ていた
   ので、石碑は見ていた。さいしょ、スイカ畑をつくっていた人が石碑を移した。
    この人から土地の権利を買って養魚場をつくったとき、石碑をブルドーザーで向こう
   の土手に埋めた”。
                                        佐藤正人
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日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 58

2013年09月10日 | 海南島史研究
(一九) 二〇一一年二月~三月 9
■海口市長流鎮で
 三月四日に、長流鎮で張景秋さん(一九二〇年生)に話をきかせてもらった。張景秋さんは、東方市板橋鎮(旧感恩県板橋)出身の人で、三月二日に板橋鎮の自宅で話を聞かせてもらった王愛花さんと同郷の同志である。張景秋さんは、つぎのように話した。
   “一六歳のとき革命に参加した。一六歳のとき、自分の家は焼かれてしまった。家を焼か
   れたのは、自分のせいだといわれた。
    一九三八年に板橋の一三人がいっしょに共産党に加入した。うち、女性が七人、男性は
   六人。男の人ひとりは、自分より年上で、二〇歳くらいだった。一九三八年、広州に日本軍
   が入ってきたという話が伝わってきて、抗日のために共産党にはいった。
    日本軍が板橋に攻めてきたとき、一三人のうち三人の家族を殺した。日本軍はスパイを
   使って、共産党員を探した。
    日本軍は板橋を攻めてきたとき、すぐにスパイを使って黄国栄さんをつかまえて、感城に
   連行した。黄国栄さんの家で一三人の会議を開いていたからだ。黄国栄さんは仲間の名
   前を言えといわれたが、言わなかった。黄国栄さんはそれから戻らなかった。黄国栄さん
   の妻はそのあと、革命に参加した。妻の名前は、陳秋月。一九四二年か一九四三年、弾
   が目にあたって見えなくなった。去年亡くなった。
    黄国栄さんの兄は首を切られ、穴に埋められた。妹は、腹を切られて内臓が飛び出し
   た。日本兵はそれを周りにいる人に見せつけた。黄国栄さんの母は、その場面を見て、衝
   撃を受けその場で死んでしまった。
    黄国栄さんの妹は、年は自分と同じくらいだった。黄国栄の父はその前に亡くなってい
   た。
    一三人が共産党に参加しなかったら、この板橋に被害はなかった。
    家に戻らず活動していた。家に戻ったら、村に被害がおよぶので家には戻らなかった。
    一九四〇年から会議に参加した。会議は毎晩だった。革命運動をどう進めるのか、参加
   者を増やすためにどうするか……などを話し合った。共産党に入って戦おう、と宣伝した。
   王愛花さんも会議に参加した。
    さいしょは遊撃隊にはいった。ときどき日本軍に包囲された。
    一九四一年、一九四二年、一九四三年はいちばん困難な時期。バナナの葉を食べてい
   た。三、四日間米粒ひとつも食べず、あちこち移動しながら……。
    日本軍と直接戦ったのは数えきれない。七〇~八〇回。
    一九四一年、黒眉村が日本軍に包囲されたときの戦いで、右くるぶしを負傷した。いまも
   鉄片が入っている。聯長が負傷したので包帯をまいていたとき、弾にあたった。一九四五
   年、石碌近くの戦闘で左手も負傷した。
    日本軍と戦った共産党の人数は、一〇〇〇人位。一団、文昌。二団、五指山。三団、万
   寧。四団、臨高。五団、憺州。五団は人数が少ないので、あとから四団にはいった。
    日本が敗けた後、共産党軍は、感城にいた日本軍に武器を渡せといったが、渡さないの
   で、麦家祠で待機していた。麦家祠が日本軍と国民党に包囲され、一三〇人位が殺され
   た。ふたり生きのこった。女性と男性。死体の下にいたので生きのこった。日本軍の人数は
   知らない。国民党軍は一〇〇〇人位。
    国民党は山中にいたので、共産党が先に日本軍と折衝したが、日本軍は、共産党に武
   器を渡したがらず、それを知った国民党が五指山から一団を感城に行かせた。北黎で、共
   産党は日本軍と何回も交渉したが、日本軍は武装解除しなかった。史丹が日本軍のところ
   に行って話をしたが、最後まで武器を渡さなかった。国民党が、四六軍の韓煉成軍長を日
   本軍のところに送り、日本軍はすぐに武器を渡した。日本軍と国民党が協力して、麦家祠
   にいた共産党軍を攻撃した。国民党が来たとき、共産党はすぐに撤退した。国民党軍の人
   数が多かったからだ。共産党が上部からの命令で先に攻撃したということはなかった。
    わたしはそのときは、北黎にいた。
    一三〇人の犠牲者にたいし、政府はなにもしていない。紀念碑もない。記録は少しある
   だけだ。
    日本軍の部隊に台湾人がおおぜいいた。その台湾人のなかに日本軍から離れて共産
   党の部隊にはいった人たちがいた。一〇〇人位だ。
    日本軍は海南島でどれほどひどいことをしたか、ことばでは言いあらわせない。
    日本は中国人におおきな災難をもたらした。
    革命に参加したあとずっと板橋を離れていた。はじめて板橋に帰ったのは二〇〇四年に
   なってからだった。わたしたち一三人が革命に参加したせいで、日本軍に板橋を焼き払わ
   れ、何もなくなったので……。
                                         佐藤正人
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日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 57

2013年09月09日 | 海南島史研究
(一九) 二〇一一年二月~三月 8
■澄邁県橋頭鎮沙土の欽帝村で
 二〇〇八年一〇月と二〇〇九年六月に沙土をなんども訪ねた。沙土には、一三個の村(昌堂、美梅、那南、北山、昌表、聖眼、福留、欽帝、上帝、文旭、小美良、木春、扶里)がある。
 三月四日と六日に、一年八か月ぶりに沙土に行き、はじめて欽帝村を訪ねた。
 侵入してきた日本兵に機関銃で射殺される寸前に逃げて生き残ることができた王世杰さんと王徳林さんから話を聞かせてもらうことができた。
 王世杰さん(一九三二年生)は、つぎのように話した。
   “日本兵が来たとき村人は出迎えてあいさつをした。はじめ日本兵は子どもたちには優しく
   した。逃げた村人は少なかった。村に来た日本兵は五〇人ほどだったと思うが、はっきりは
   わからない。暑い日の昼間だった。
    この村に住んでいたのは一三〇人ほどだった。そのうち、七六人が殺された。わたしの家
   族は、あのとき、みんな家にいた。
    日本兵は、子どもや年寄り以外の村人を集め、三人をどこかに連れて行き、戻ってはま
   三人を連れていった。
    そのようにして、日本兵は三人ずつ村人を殺していった。そうしないと、村人が抵抗すると
   考えたのだろう。
    音がする銃ではなく、銃剣で刺し殺した。刺されても生き残った人もいた。逃げた人もい
   た。
    わたしの父(王元興)は三〇歳あまりで、母(呉氏。橋頭の人)は三〇歳になっていなかっ
   た。父と母も連れていかれて殺された。母は妊娠していた。
    わたしと七歳の妹(王不昌)と五歳の妹王不恒)の三人は、村はずれの祠堂の前の小さな
   広場に連れていか れた。村の子どもや年寄りは、みんな、そこに集められた。
    年寄りが前列に並ばされ、後ろに子どもたちが二列に並ばされた。
    祠堂の横の大きな樹のそばの地面に機関銃が据えられ、そのそばに小銃を持った日本
   兵が立った。
    機関銃の後ろに腹ばいになった日本兵が発射し、前列の年寄りたちが撃たれて殺され
   た。二列目の人たちが撃たれはじめたとき、機関銃の弾丸がなくなった。
    日本兵が弾丸をこめているすきに、わたしはみんなに逃げようと声をかけて、逃げ
   た。
    六、七人が逃げた。逃げた一人が頭を撃たれて何日かたってから死んだが、あとは助
   かった。小道を走りぬけて竹やぶの奥を通って田んぼの水草の陰に隠れた。ヒルに血を
   吸われたが、じっとしていた。 
    日本兵は、狭い竹やぶの間を通りぬけることができなかった。
    妹二人も逃げて助かった。しかし、上の妹は、次の年に海でおぼれて死んだ。
    日本兵がいなくなってから、父と母を捜した。遺体を見つけた。わたしは子どもだったの
   で、生き残った村の人たちが埋葬してくれた。
    父も母も殺されたので、食べていくことができなかった。海岸沿いに歩いて臨高まで行っ
   て、物乞いしながら生きた。四年くらいたってから村に戻った。
    殺された七六人の名前は、記録されていない。これからわたしがひとりずつ確かめて記
   録する”。

 三月六日朝一〇時過ぎか一時間ほど王世杰さんに話を聞かせてもらったあと、王世杰さんが機関銃を向けられた現場に案内してもらった。
 そこは、村の中心から二〇〇メートルほど離れた祠堂の前だった。石造の祠堂とその周りの囲いの石の壁は、ほぼ当時のままだとのことだった。この日はちょうど村の土神の祭日で、供え物が置かれ、ろうそくの火がともされていた。王世杰さんから当時のことを話してもらっているとき、爆竹が鳴らされました。
 そのとき、とつぜん、王徳林さんが来て、当時日本兵が機関銃を置いたあたりに走って行き、日本兵がどのように年寄りや子どもたちを殺そうとしていたかを、身体で示してくれた。
 王徳林さんは、つぎのように話した。
   “ここに、日本兵は、年寄りと女の人と子どもを三列に並ばせた。前列は年寄り、二列目は
   女の人、三列目は子ども。
    日本兵は腹ばいになって機関銃を撃った。そのそばで小銃を持った日本兵が立って撃っ
   た。撃たれた後も生きていた年寄りを銃剣で刺して殺した。
    わたしは、王世杰さんたちといっしょに逃げた。妹も逃げたが、小銃で撃たれて殺されて
   しまった。
    竹やぶの間に隠れた。しばらくたってから、イ、ウオ、サン、シと言いながら、日本兵は
   去って行った。午後三時ころだったと思う。
    まもなく、遠くの村のほうから銃の音が聞こえた。
    日本兵がいなくなってから、家族をさがした。
    父(王世桐)の遺体を見つけた。背中から撃たれて殺されていた。祖父(王元享)は父か
   ら二〇メートルほど離れたところで殺されていた。母(王氏)の遺体はそこからすこし離れ
   たところにあった。
    わたしの家では、祖父、父、母、妹2人、伯父(父の兄)、伯父の妻、叔父(父の弟)二人、
   ぜんぶで九人が殺された。
    その後も、日本兵はなんども村に来た。井戸端で洗濯している女性を強姦してから殺し
   たこともあった。その井戸はいまも残っている。
    両親が殺されてから、生きていくのに苦労した。牛の糞を拾って乾かして売ったりして暮
   らした”。 
 王徳林さんは、祖父と両親が殺されたところに連れていってくれた。
 村はずれの小道をたどって樹木がまばらに生えているところにきて、王徳林さんは、立ち止まり、“ここだ”、と言った。そして、祖父が倒れていた地点、母の遺体を見つけた地点を示した。そのあたりには、一〇人ほどの人が倒れており、銃で撃たれて殺された人も、銃剣で刺されて殺された人もいたという。
 その近くに石でつくられた家があった。その家は、当時もあったとのことだった。石組みのしっかりした家で、人は住んでいなかった。その家の前から、虐殺現場が見えた。
 そのあと、王徳林さんたちが、逃げて隠れた地点に案内してもらった。
 祠堂の前の道を右にそれ、大きな樹が何本も茂っている樹林の間をぬけたところに細い竹が密集している竹林があり、数百メートルかなたに海(沙土湾)が見えた。王徳林さんたちは、その竹林の奥に隠れたという。当時は、いまより竹林の地面が低く、水があふれていたという。

 王徳林さんと別れて村に入っていくと、日本兵が機関銃で村人を殺害した現場から近いところにある自宅のそばの豚小屋の前で、王徳信さん(一九五四年生)が、
   “兄が日本兵に腹を切られ、まもなく死んだ、腹から腸が流れ出していたと、父から聞い
   た。父は銃剣で三回刺されたが生き残った。母はそのとき村にいなかったので助かった。
   姉は日本兵に強姦されて殺された”、
と話した。

 日本政府は、海南島沙土での日本政府と日本軍の犯罪記録をも公開していない。当時、沙土地域を占領していたのは、日本海軍舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊の部隊であった。
 澄邁県政協文史資料委員会が一九九五年ころ編集発行した『澄邁文史』第十期(『日軍侵澄暴行実録』)に掲載されている、温家明・温明光口述「血海深仇 永不忘懐(侵瓊日軍制造“沙土惨案”実況)」には、欽帝村でのことが、つぎのように書かれている。
   「欽帝村幼儿王徳林(現県農業局幹部)母親生了一対双胎的弟弟、父母被殺后村人用箩
   筐将其吊在母親的墓傍、祈求路過的行人収留撫養、但外人哪敢行進鬼門関? 結果这
   対嬰儿活活餓死在箩筐里」。
 三月六日に欽帝村で王徳林さんに会ったとき、わたしは、この記述に触れなかった。王徳林さんも話さなかった。 
 三月六日に欽帝村で王世杰さんは、
   “あの日、双子のあかんぼうを抱いて女性が逃げたが、殺されてしまった。あかんぼうは、
   生まれて一か月くらいだった。父親も殺されており、乳を飲ませる人もおらず、生きてい
   けないので、村人が、母親といっしょに埋葬した”、
と話した。
                                              佐藤正人
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日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 56

2013年09月08日 | 海南島史研究
(一九) 二〇一一年二月~三月 7
■東方市新龍鎮新村で
 「一九四五年三月二日龍衛新村ノ戦闘」(原題は、「元号」使用)と副題がつけられた「横鎮四特戦闘詳報第五号」が東京の防衛研究所図書室で公開されている。この文書は、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊が作製したもので、一九四五年三月二日に、海南島感恩県龍衛新村を襲撃したときの「戦闘詳報」である。この「戦場ノ状況」と題する個所には、
   「海岸線ヨリ東方一粁ニ位置スルニシテ戸数約八〇戸人口約三〇〇ヲ有シ農業ヲ主
   トスル一寒村ナリ
    周囲ハ高サ一乃至二米巾約二米ノ潅木ニヨル二重垣ヲ以テ防壁トナシ東西南ノ三方ニ
   出入門ヲ有シ西北ノ一部ニ高サ約二米ノ石造城壁アリ」
と書かれている。日本海軍は、住民三〇〇人ほどの村を「戦場」と規定して、襲撃した。この村を襲撃したのは、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊第七小隊長猪瀬正信(日本海軍一等機関兵曹)ら一一人で、全員が「便衣」を着ていた。この一一人が二組に分かれて村を襲撃したのは、一九四五年三月二日午前一〇時三〇分であった
 三月二日一二時四〇分に、新村を訪ねた。一九四五年三月二日の六六年後だった。
 「横鎮四特戦闘詳報第五号」には、「敵ニ與ヘタル損害」として、「遺棄死体四(共産党第二支隊指揮中隊長及同軍需主任ヲ含ム)」と書かれているが、新村で聞きとりをして、その「共産党第二支隊指揮中隊長」が湯主良さんで、「共産党第二支隊軍需主任」が王文昌さんであることがわかった。
 湯主良さんの妻の張亜香さんに話を聞かせてもらうことができた。張亜香さん(一九二二年二月二一日生。農暦一月二五日生)の八九歳の誕生日の九日後だった。
 話を聞かせてもらった場所は、小学校の校庭の塀の内側で、その塀の向こう側には、六六年前に夫の湯主良さんら四人が日本兵に包囲され爆死した地下室があった。
 張亜香さんは、静かなしっかりした口調で、当時のことをつぎのように話した。その場にいたたくさんの小学生が周りを囲んで、張亜香さんの証言をいっしょに聞いた。
   “夫は、一七歳のときに革命に参加した。ここにあった家の地下室で死んだとき、二三歳
   だった。子どもは二歳半だった。わたしは一八歳のときに結婚した。夫が死んだときは二二
   歳だった。夫が死んだのは、正月一八日だった。
    夫は、夜もの運んだり、情報を伝える仕事をしていた。隊長と呼ばれていた。
    夫が、共産党の活動をしていることは知っていたが、具体的なことは、はっきりとは解らな
   かった。夫は家にいる時間は少なかった。ほとんど家を離れていた。わたしは、夫の両親
   と、農作業をして暮らしていた。
    夫が地下室で爆死した日、日本軍が来るというので、わたしは子どもを連れて逃げてい
   た。このころわたしも子どももほとんど家に戻らなかった。
    わたしの家では、ときどき共産党の人たちが休憩や会議をした。しかし、安全な場所では
   なかったので、なにかあったらすぐ隠れる地下室をつくってあった。家の中では、食事や話
   ができるが、急になにか変なことがあったら、すぐに地下室に入る。狭いが、二~三人は
   ゆっくり入れるほどの広さだった。
    あの日、日本軍が来たとき村にいた六人のうち、文昌からきていた党員は日本軍を見て
   逃げた。愚かなことに、逃げて、地下室の方に戻ってきた。この党員を日本軍が追いかけ
   てきた。逃げるときには、絶対に自分の同志の方に行ってはならないのに……。この人
   は逃げるのが遅かったので、日本軍につかまってしまった。つかまって、少し聞かれて
   から、すぐに、中のことを日本軍に教えた。
    日本兵は、地下室に声を掛けたが、誰も返事をしなかった。
    日本兵は、村人に命令して、地下室の天井には板がはってあってその上に土をのせて
   床にしていた。その床の土を掘っていくと板にぶつかる。
    その音を聞いて、地下室にいた四人は、自殺することにした。地下室から出て日本兵と
   銃撃戦で闘ったら、あとで村民たちがひどい目にあうと判断したようだ。日本兵は、このと
   き平服で七~八人だったから、闘うこともできたが、四人はそうせずに、自死の道を選ん
   だ。
    日本軍と直接戦うことをやめ、もっていた銃と手りゅう弾で地下室の中で自殺した。銃を
   自分に撃った人がいた。手榴弾を爆発させた人もいた。
    日本兵は、村人に地下室で倒れている四人を掘り出させた。
    ひとりはまだ生きていたので、村人が息をしているのが日本兵にわからないように顔を下
   に向けさせた。
    しかし、日本兵は顔を見て生きているのがわかったので、拳銃で頭を何発も撃って殺し
   た。脳が砕けて飛び散ったという。三人の遺体は手も足も爆弾で砕かれていた。
    日本兵は、家に火をつけてからすぐ帰った。
    朝八時ころに爆弾の音が聞こえ、煙が上がるのが見えた。わたしは、日本軍がいなく
    なってから、村に戻り、死んだ四人の遺体を見た。夫の頭に弾の穴があいており、手が
   無かった。
    それあと日本兵は、二~三日ごとに村に様子を見に来た。
    隠れ家を教えた文昌出身の党員は同志を裏切ったということで、あとで共産党に処刑さ
   れた”。

 張亜香さんは、夫の湯主良さんらが死んだのは、正月一八日だと話した。「横鎮四特戦闘詳報第五号」には、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊第七小隊が龍衛新村を襲撃したのは、一九四五年三月二日であったと書かれている。一九四五年の三月二日は、農暦では一月一八日であった。
 湯主良さんの遺児の湯祥文さん(一九四二年生)に、湯主良さんの墓に案内してもらった。
 墓は村から一キロあまりはなれた広い墓地の中にあった。以前は、村の近くに埋葬されていたが、二〇〇六年にこの場所に改葬されたという。
 高さ二メートルあまりの墓碑に、
   「永垂不朽」
   「生于一九二一年辛酉二月二十七日辰時為人正直思想進歩一九三八年投身革命曾任
   村党支部幹事娶同村邦直公次女為妻夫妻恩愛傳男一丁女一口一九四五年正月十八日
   為掩護群衆撤退被日軍囲困寧死不屈而光栄犠牲年僅廿四歳」
と刻まれていた。
                                                      佐藤正人
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日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 55

2013年09月07日 | 海南島史研究
(一九) 二〇一一年二月~三月 6
■東方市板橋鎮高園村で
 三月一日に邢亜响さんと別れたあと、午後五時過ぎに高園村の周亜華さん(一九一九年生。黎族)の家に向かった。前回訪ねたのは、五年あまり前の二〇〇六年三月三〇日午後四時過ぎだった。
 途中、道路改修をしている人たちに聞くと、孫がそこで仕事をしていた。孫がオートバイで先導してく。
 周亜華さんは認知症だった。
 家族の話によれば、二〇〇九年に妻を亡くしてから、こうなったという。
 抗日戦争のときに使ったと五年前に見せてくれた弓矢は残っていなかった。あれからまもなく二〇〇五年に公安(警察)が回収していったという。家も五年前とちがい、いまの家には二〇一〇年に来た、前は六番目の息子といっしょに住んでいたが、いまは三番目の息子といっしょに住んでいるという。
 周亜華さんは、そばで話しているのを、軒下の椅子に静かに座って聞いているようだった。からだはほとんど動かさないが、頭をわずかにこちらにむけていた。そのうち、話しはじめた。
   “山に逃げた。昔は苦しかった。そのときおおぜい死んだ。板橋で戦った。戦争をがんばっ
   てして、勝利しなかったら、いまはなかった。戦争のことを知っている人は少ない。生きて
   いる人は少なくなった”。
 午後五時半過ぎに周亜華さん家を辞するとき、板橋鎮政府民政局に勤務している三番目の息子の周主華さんが、昔抗日運動をした女性が板橋鎮にいるというので、案内してもらうことにした。
 その人は王愛花さんで、家は板橋鎮政府の近くだった。午後六時になっていたので、周主華さんに紹介してもらい、あいさつをし、短時間話を聞いてから、翌朝再訪することにした。

■東方市板橋鎮で
 三月二日朝八時から一〇時半まで、板橋鎮の自宅で王愛花さん(九二歳くらい)に話を聞かせてもらった。王愛花さんは、ゆっくりとした口調で、つぎのように話した。
   “はっきり覚とは覚えていないが、一七歳くらいのとき、児童団に入った。黄愛菊が紹介し
   てくれた。
    入ったことはないしょだった。わかったら家族みんなが殺される。
    児童団を大きくするために同じ年ごろの子どもたちを誘った。
    児童団に入って少し経ったころ、共産党の組織に入り、他の村の人も集め、一〇〇人くら
   いになった。そのうち一〇人が女性で、ふたりは衛生排(衛生班)、八人は炊事排だった。
    わたしは衛生兵のしごとをした。薬はなかった。野草をとって、けがした人に塗って治し
   た。赤チンをぬって消毒した。
    ずっと衛生兵のしごとだった。児童団は、共産党員ではない。一九四二年に共産党に入
   党した。
    日本軍は新街に駐屯していて、石碌に車でときどき移動した。われわれは一〇〇人で武
   装していた。武器は機関銃二台、銃何丁か。道路に穴を掘っておいた。日本軍が石碌に
   移動するとき日本軍の車が落ちた。道路の両側から発砲して、日本軍の機関銃を四台入
   手した。こちらは、兵士が四人死んだ。日本軍はすぐ撤退したから、何人死んだかわか
   らない。
    張恩還が部隊を組織した。わたしは衛生兵として参戦した。
    われわれの部隊はさいしょ機関銃がなかった。共産党の上部に報告して、機関銃を二台
   もらった。二台と四台で、六台になり、二台を上部に渡した。
    戦闘のとき衛生兵はいっしょに同行する。炊事班はついていかない。軍隊の中の男の人
   も、何人かしか、銃を持っていない。女性はまったく銃をもつことができない。銃はすくな
   かった。
    部隊には、宣伝する人は来なかった。
    部隊は、この近辺の人ばかりだったが、他の地域から指導員がはいった。
    一三〇人の遺族に何もしてあげられないのが残念だ。夢の中でも昔のことが出てくる。
   戦友のこと、村のことを思いだすと涙が出てくる。
    両親は日本軍が来る前に死んでいた。兄と妹がいた。
    兄は殺された。妹は家に帰らせろといって、殴られて重傷を負い、薬もなく死んだ。
    わたしは馮白駒と五指山にいたことがある。馮白駒は、‘安心しろ。最後は勝利していい
   生活ができる’と言っていた。
    共産党は最後には勝利した。
    六年半の戦争はたいへんだった。食べ物もないし、着るものもなかった。
    夫とは同じ部隊にいた。文化大革命のときに殴られ重傷を負った。二〇〇七年に八八歳
   で亡くなった。
                                             佐藤正人
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日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 54

2013年09月06日 | 海南島史研究
(一九) 二〇一一年二月~三月 5
■楽東黎族自治県尖峰鎮黒眉村で
 三月一日午後二時半に、黒眉村の邢亜响さんの家を訪問した。二〇〇六年三月三一日にはじめて訪問してから五年が過ぎていた。
 五年前に自宅で話を聞かせてもらった邢亜响さん(一九二三年生)が、すぐに近くからしっかりした足どりで戻ってきて迎えてくれた。あいかわらずやせていたが握手する手の力が強かった。
 黒眉地域での戦いにかんしては、黎王簡「黒眉村黎族人民革命闘争片断」(『瓊島星火』第九期、瓊島星火編輯部出版、一九八二年)、邢力新「黒眉反撃戦」(中国人民政治協商会議海南省東方黎族自治県委員会文史組編『東方文史』第四輯、一九八八年)、程昭星「英雄抗撃日本侵略者的黒眉村黎族人民」(中共海南省委党史研究室編『瓊崖抗日英雄譜』海南出版社、一九九五年)、文配山「尖峰岭黎族地区的革命斗争」(中共海南省委党史研究室編『瓊崖革命根据地』〈『瓊島星火』第二一輯〉、瓊島星火編輯部出版、一九九六年)、「黒眉岭战斗」(海南省軍事志領導小組辧公室編『海南戦事一〇〇例(一八二九~一九八八)』南方出版社、二〇〇四年)などがある。海口市委宣伝部・海口警備区政治部・海口市委党史研究室『勿忘歴史 警鐘長鳴――紀念抗日戦争勝利六〇 周年展覧』(二〇〇五年九月)には、「黒眉嶺根据地的民兵」の写真が掲載されている。
 邢亜响さんは、つぎのように話した。
   “遊撃隊に入って日本軍と戦った。黒眉村の村人のなかから何人が遊撃隊に入ったかは、
   はっきりとは言えないが、二〇人ほどだったと思う。銃を持った人はいなかった。
    日本軍が村を攻めてきたら、共産党の組織がみんなを山のほうに逃がした。
    遊撃隊に入った村人は、みんな弓と矢で戦った。
    日本軍が追いかけてくると場所をすぐに変えて戦った。何度も戦った。日本兵が近づいて
   くるのを狙って矢を撃った。撃ってすぐに場所を変えた。
    遊撃隊には女性もいた。はじめは弓矢で日本軍と戦ったが、負傷した隊員の治療をする
   ようになった。日本軍が敗けたあと、海南島の政府が勉強させて、医者になったひともい
   る。今は退職しているが、まだ元気だと聞いている。昌江県のほうにいるらしいが、くわ
   しい住所は知らない。
    遊撃隊は、山の中に隠れて暮らしていた。食べ物は少なかった。周りの村人が食べ物や
   薬を届けてくれた。
    スパイに案内させて日本軍が山のなかに来ても、すぐに隠れて弓矢で戦った。七日間
   続けて戦ったこともあった。日本軍は小銃、機関銃をもっており、短い大砲ももっていた。
    遊撃隊は、日本軍から奪った銃をもっていた。手榴弾や地雷は、日本軍から奪ったもの
   もあるが、遊撃隊がつくったのもあった。火薬は、共産党の組織が運んできた。どこから
   運んできたかはわからない。
    遊撃隊が捕虜にした日本兵のなかに台湾人が二人いた。嶺頭からきた兵士だった。その
   二人は、遊撃隊の上の組織にわたした」。

 当時、黒眉村から七キロほど西の嶺頭には横須賀鎮守府第四特別陸戦隊の守備隊本部があった。遊撃隊で歌った歌がありますか、と聞くと、邢亜响さんは、大きな声で歌ってくれた。記録したいと言うと、なんども歌ってくれた
     日本鬼的大砲 カッ カッ カッ コン コン コン
     衝向敵人獲機槍 打敵人
     拿起鋤頭 守着陣地 不做忘国奴
     中国我母親 向前方 向前方 為了祖国的光栄

 「カッ カッ カッ コン コン コン」は、大砲の音だとのことでだった。
 邢亜响さんは納屋から弓と矢をもってきて、柱の陰から射る構えをした。やじりの部分に黄色の薬きょうがついている矢、やじりの部分に黒色の薬きょうがついている矢、尖った鉄片がついている矢があった。黄色の薬きょうがついている矢を示しながら、邢亜响さんは、
   “この矢は、当たったら日本兵は手では抜き出せない。手術しなければならない。深く
   入ったら、そのまま死んでしまう。矢じりの薬きょうは日本軍のものだ”、
と話した。
 弓と矢はすべて邢亜响さんが自分でつくったもので、薬きょうの矢じりのついた矢は当時のもので、尖った鉄片の矢じりのついた矢と弓は一〇年ほどまえに鳥などを撃つために遊撃隊のときつくったものと同じものをつくったとのことだった。鳥を弓矢で獲るのは、いまは禁止されているという。
 邢亜响さんの右足の太ももには、傷跡が残っていた。邢亜响さんは、つぎのように話しました。
   “この傷は、嶺頭で日本軍と戦ったときの傷だ。
    交戦中に日本軍の銃を奪おうとして、三人で前に出た。そのとき、二人が射殺され、
   わたしは太ももを撃たれ弾が貫通したが、生き残った。日本軍と戦っているときには、
   死を恐れなかった。あのとき、日本兵も何人か死んだらしい。
    山にいる遊撃隊に、日本軍は飛行機から機関銃を撃ってきたこともあった。爆弾を落とし
   たこともあった。
    山で、遊撃隊の歌を教えてもらった。教える人がどこからきたかは知らない。
    歌ってから日本兵と戦うと怖くない。
    わたしの父は、黒眉村で日本軍に頭を銃で撃たれて殺された。ここではない。もと黒眉
   村はここからもっと山のほうにあった。二〇年ほどまえにここに村ごと引っ越してきた。
    もとの黒眉村では、日本軍に家を焼かれた。父が殺されたとき、村人がたくさん殺され
   た。そのあと、わたしは、共産党の遊撃隊に入った。一八歳だった。村の若者で遊撃隊に
   入った人は多い。日本軍がなんども村を襲って人を殺し家を焼くから、戦争しなければな
   らない。そのまま座っていても死ぬ。
    日本軍がいなくなってから村にもどって農業をした。結婚して男の子が二人、女の子が
   一人生まれた”。
 邢亜响さんは、一九九三年七月一日に共産党からもらった「共産党参加五十年栄誉賞」と刻まれた金色のメダルを見せてくれた。
 別れ際に、邢亜响さんは、“前にここに来たとき、納屋のかもいに頭をぶつけた人だね”、と言った。話をしている間に、五年前のことを思い出してくれたようだった。
                                                     佐藤正人
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