三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

国民国家日本の侵略史に対決する民衆運動 8

2013年06月08日 | 個人史・地域史・世界史
3、紀州鉱山の真実を明らかにする会 4
■海南島での石原産業の侵略犯罪
 石原産業が紀州鉱山を創業したのは、1934年7月であった。
 その5年後、1939年2月に日本軍が海南島に上陸してから、石原産業は海南島の田独鉱山の鉄鉱石略奪を日本軍とともに開始した。
 1998年6月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、はじめて海南島に行き、石原産業が海南島で経営していた田独鉱山における強制労働の調査をおこなった。その後、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、海南島での侵略犯罪の「現地調査」を継続的に進めるとともに、日本の海南島侵略に抗する抗日反日闘争の歴史を研究した。
 石原産業は、田独鉱山で、朝鮮人を、海南島の人たちや中国大陸やホンコンから連行してきた人たちとともに働かせていた。その朝鮮人は、朝鮮各地の刑務所から「朝鮮報国隊」に入れられて海南島に連行された人たちであった。田独鉱山近くの「朝鮮村」では、1945年に「朝鮮報国隊」の人たちの多くが日本軍に虐殺された。
 これらの事実を明らかにし伝達するために、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会は、2002年11月に、『紀伊半島・海南島の朝鮮人――木本トンネル・紀州鉱山・「朝鮮村」――』を編集・発行した。
 日本がアジア太平洋戦争に敗北したあと、1948年4月に、田独鉱山の山麓に、犠牲者を追悼する「日冦時期受迫害死亡工友紀念碑」が、海南鉄礦田独礦区の労働者によって建てられた。
 2002年に、そのそばに、海南省人民政府と三亜市人民政府が、「田独万人坑死難坑砿工記念碑」を建てた。その碑文には、「朝鮮、印度、台湾、香港、および海南省各市県から連行されてきた労働者がここで虐待され労働させられて死んだ」と書かれている。

■「朝鮮報国隊」・「朝鮮村」
 1943年~44年に、朝鮮の各地の刑務所から、朝鮮人獄中者約2000人が、「南方派遣報国隊」(「朝鮮報国隊」)の隊員として海南島に送られた。
 この人たちは、海南島で、鉱石採掘、飛行場建設、道路建設、橋梁建設などを強制され、おおくの人が命を失わされた。
 日本敗戦近くまでに生き残っていた「朝鮮報国隊」の人びとは、海南島南部の三亜市郊外の南丁村に集められ、軍用道路建設、軍用洞窟掘りなどをさせられたあと、1945年夏に殺された。その名は、まだ、一人も明らかになっていない。日本軍がいなくなってから、南丁村は、そこで殺された朝鮮人を悼んで、「朝鮮村」と改名された。「朝鮮村」には、いまも、殺された朝鮮人が埋められている。
 「朝鮮村」における朝鮮人大虐殺は、村人たちが目撃していた。しかし、その事実を、虐殺した者たちは、隠しつづけてきたため、韓国や日本では知られていなかった。
 金靜美氏は、海南島に出発する直前に、在日朝鮮人にとっての故郷の意味を考える文章を書き終えていたが、そのなかで、「朝鮮村」虐殺について述べていた(金靜美「侵略の共同体と抵抗の共同体――故郷と他郷のかなたに――」、『在日朝鮮人「ふるさと」考』(『ほるもん文化』8)、新幹社、1998年12月)。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1998年6月に「朝鮮村」に行き、村人たちから証言を聞いた。
 1998年7月に韓国KBSは「朝鮮村」で遺骨の一部を発掘し、8月31日に、「朝鮮報国隊」にかんするドキュメンタリー「海南島に埋められた朝鮮の魂」を放映した(この番組制作に、佐藤正人がコーディネイターとして参加した)。
 1999年8月にソウルで発行された朴慶植先生追悼論文集『近現代韓日関係와 在日同胞』(ソ
ウル大学校出版部)に、金靜美氏は、「일본점령하 중국海南島에서의 강제노동」を発表した。これは、1998年12月末に、国民国家日本の海南島における侵略犯罪、とくに「朝鮮報国隊」と「朝鮮村虐殺」についての紀州鉱山の真実を明らかにする会を中心とするそれまでの民衆運動のなかで書きあげられたものであった(その日本語版は、『戦争責任研究』27号・28号〈日本の戦争責任資料センター、2000年3月・6月〉に連載された)。
 2000年春に「朝鮮村」を訪問したとき、わたしたちは、次のことをはっきりさせることができた。
   ①、「朝鮮村」という村名は、日本敗戦後、そこに移住してきた黎族の人たちによってつけ
    られた。
   ②、1945年夏、日本軍兵士によって、朝鮮人が「朝鮮村」(当時は、南丁村)につれてこら
    れ、道路工事や洞窟掘りをさせられた。みな同じ青色の服を着ており、宿舎は鉄
    条網で囲まれ、日本人が監視していた。
   ③、その朝鮮人のなかには、「朝鮮報国隊員」として朝鮮総督府刑務官によって朝群の
    監獄から海南島に強制連行され、日本敗戦直前まで陵水県の三才鎮后石村や英州鎮
    大坡村で飛行場建設をさせられていた人びともいたと思われる。
   ④、朝鮮人が焼かれた場所に、今もたくさんの遺骨が地表ちかくに埋まっている。
   ⑤、朝鮮人が掘らされた洞窟がすくなくとも3本、残っている。
 2001年1月12日から、海南島で農園を経営していた韓国人実業家と韓国MBCが、「朝鮮村」での「発掘」をおこなった。紀州鉱山の真実を明らかにする会は、このとき、MBCの海南島での取材に協力した。協力を約束するとき、わたしたちは、遺体の「発掘」を科学的におこない、遺骨を遺族に届ける努力をすることを求めた。MBCは、それを実現するように努力すると答えたが、じっさいには虐殺を明らかにする科学的鑑定はおこなわれず遺族をさがす努力がなされないまま発掘された遺骨のほとんどは砕かれてしまった。
 2001年3月1日に、MBCは、3・1独立運動記念特別ドキュメンタリー『海南島の大虐殺』を放映した。
 2001年10月24日に、上海の同済大学で開催された「アジア諸国の歴史教科書に表現された抗日運動」を主題とする第10次国際歴史教科書学術会議で、佐藤正人は、「日本占領下の海南島における朝鮮人虐殺  アジア民衆共同の東アジア近現代史認識をめざして」と題する報告をした。
 2003年9月6日夜、韓国KBSは、土曜定例ドキュメンタリー番組“追跡60分”で、「朝鮮報国隊」の人びとの軌跡を追跡するとともに、日本が海南島でなにをやったのかを明らかにする『海南島の大虐殺  "祖国はかれらを二度見捨てた"』を放映した。このドキュメンタリー制作のためにKBS取材班は、7月下旬から8月上旬にかけて、日本関西で4日間、海南島で10日間取材した。紀州鉱山の真実を明らかにする会は、この取材全行程を起案し、同行した。
                                           佐藤正人
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