三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

瓊海市長坡鎮南宝村で

2011年11月22日 | 海南島史研究
 10月30日午後3時に、瓊海市長坡鎮南宝村を訪ねました。
 村の入口の三叉路に着いて、右側の細い道を入っていくと、村人の林斯陽さんに出会いました。林斯陽さん(1960年生)は、
   ”父の林道彬は1930年生れで、長坡鎭の政府に勤めていたが、退職して家にいる。
    足が弱っていて寝たきりで、耳がとおくなっているが、話は聞くことができる。
    父は、昔のことをよく知っている”
と話しました。
 わたしたちは、林道彬さんに会う前に、林斯陽さんに、犠牲者の墓に案内してもらうことにしました。来た道を三叉路にもどるとき、林斯陽さんは、左側のゴムの樹の林を指差して、
   “このあたりが、むかしの村の中心だった。
    家がたくさんあったが、日本軍に焼かれてしまったそうだ。
    わたしが子どものときから、ずってここには家は建てられていない”
と話しました。
 墓地は三叉路のすぐ近くでした。
 墓には、焼き殺された犠牲者の遺骨が埋められているそうです。
 高さ2メートルほどの墓碑の中央に、「紀念南福老蘇村「四二七二」惨案七星墳」と刻まれており、その右には、
   殉難者 林明日青抗会委員民運隊長
       林道虎青抗会委員甲長
       林李氏道虎母 林李氏道漢母 林黄氏道江母 林黄氏資茂2伯母 ○(女+不)鳳道虎次女
と刻まれていました。
 「四二七二」(農暦1942年7月2日。普通暦1942年8月13日)に日本軍に殺された「七星」(7人)の「南福老蘇村」の村人の墓で、「老蘇」とは、老(古くからの)蘇(ソビエト:革命根拠地)という意味です。
 墓碑の左には、「公元一九九三年清明 立」と刻まれていました。
 墓碑の裏面には、つぎの墓誌が刻まれていました。
 
    南掘村『四二・七・二』惨案殉難者義家『七星墓』墓誌
      曁南大学栞授生・中国書画家林斯炳譔竝書於癸酉年孟春
  南掘村亦曰南福村、抗日戦争時期、本村人民在中国共産党的領導之下、成立了着抗会、婦救会、民運交通站抗日組織、堅持抗戦、不屈不撓。村中常駐党的交通站、県区、郷人民政府及武装部隊、乃為抗戦之堡壘。
  一九四一年春、王京瓊崖蘇維埃政府主席符明経、東定県民運部長符昌文等率部進駐本村領導抗日闘争。於此、倭寇加緊対南掘村大肆囲剿、実行『三光政策』、於け一九四二年七月二日晨、日軍大隊進村、殺死無辜民衆六名、焼毀民房三十四間、史称南掘村『四二・七・二』惨案。
  此外日寇及国民党反動派還殺害本村青抗会委員、民運隊長林明日:開槍打傷偵本村察排長黄順月婦救会員王春香。
  在長期革命戦争中南堀村人民不惜犠牲、做出了重大的貢献、気節悲壮、可歌可泣、人民政府追認為抗日根拠地老区村荘。
  為悼念罹難同胞之英魂特樹碑緬懁先烈以永誌
  革命精神永垂不朽!
                          本村民衆 立

 墓碑に書かれている殉難者の1人、林明日青抗会委員民運隊長は、林斯陽さんの叔父だとのことでした。林斯陽さんは、
   “父は3人兄弟の長男で、林明日は二男だ。
    父のいちばん下の弟はマレーシアに行ったまま戻っていない。行方不明だ。
    父は、弟の明日が共産党の活動をしているのは知っていたが、どんな仕事をしていたかははっきり知らなかったようだ。
    (碑文に)書かれていることとは少しちがう。民運は、米とか塩とか。組織で使うものを調達する組織だ。
    父は、母がいるので、このとき、組織に入れなかったようだ”。
と話しました。

 墓地を離れ、林斯陽さんの家に行きました。林道彬さんが寝たままわたしたちを迎えてくれましたが、ほとんど話をすることができないようすでした。
 父の林道彬さんから聞いたことだと言って、そばで、林斯陽さんがつぎのように話してくれました。
   “林道虎が町で塩や薬を買ったとき、漢奸が後をつけてきた。
    日本軍が来たとき、遊撃隊は撤退していたが、日本軍は林道虎の家を捜索した。塩や肉が発見された。
    量が多かったので、共産党に渡そうとしていたものだろうと思われた。
    日本軍が来たとき、多くの人は山の方に逃げることができたが、逃げられなかった7人が捕まって、一つの部屋に入れられて、焼き殺された。
    家は、甲長の家以外は、残らず焼かれた。甲長もみんなといっしょに逃げた。甲長の姉は日本人と関係のいい人と結婚していた。
    墓誌に書かれている○(女+不)鳳道虎次女は、銃剣で刺し殺され、火の中に放り込まれた。
    家畜などもいっしょに焼かれた。
    山に逃げた人は、山で自然にできたさつまいもや葉っぱを食べた。
    根拠地だから山にも米とか食料は、隠していたので、それを食べた。
    田んぼが少しあったので耕したり、親せきに助けてもらったりして暮らした。
    日本軍のスパイがいて、日本軍に誰か共産党の活動をしていると教えた。
    日本軍が来たとき共産党員はいなかったが、銃の筒を掃除する鉄棒が見つかった。日本軍はさらにくわしく捜索して、大量の塩や肉を発見した。その間に村民のほとんどは逃げたが、7人が逃げられず、捕まった。山にいったん逃げて、2、3歳の子どもがいたので、戻って見つかり、捕まって殺された人もいた。
    日本軍に襲われ家を焼かれた直後は、また襲われるかもしれないし、村人が殺されたところにいたくないし、メシを用意したらすぐにまた山に戻った。田畑のしごとをしに来ても、すぐにまた山に戻った。
    この村は、当時は、11家族で、人口は46人くらいだった。
    この辺は山が深く、大人2、3人でも抱えきれないほど太い荔枝の樹もあった。川もすぐ近くにあって、水には困らなかった。だからこの辺の村は、抗日軍の根拠地になった”。
 
 南宝村は、日本軍に襲撃されたあとは、南掘村と改名したそうです。南福村とも呼ばれています。この村には、共産党の瓊海県根拠地が置かれていたそうです。

 瓊海市政協文史資料研究委員会編『瓊海文史』第6輯(日軍暴行録専輯、1995年9月)に掲載されている林斯炳整理「瓊海市政協文史資料研究委員会編『瓊海文史』第6輯(日軍暴行録専輯、1995年9月)に掲載されている林斯炳整理「長坡墟南宝村“七・二”惨案」には、つぎのように書かれています。林斯炳さんは、墓誌を書いたひとです。

   「一九四二年月七月二日晨、駐(沙老)大橋炮楼的日軍小阿部進入長坡墟南宝村掃蕩、発現該村林道虎家有食塩、認為該村蔵共抗日、先用刺刀刺林道虎全家、用辣椒冲水灌村婦王春香、強迫供認村中蔵共、王春香不認、日寇又把所有在村的男女老幼(当時不在村内的一些群衆幸免外)共十二人抓起来(其中一名女孩僅八歳)押到林明日、林道虎家関起来、揚言如不認就焼死。被押群衆寧死不供、接着日寇就搬来柴草、燃起熊熊大火把這些村民活活焼死、竝継続焼毀民房三十余間、十多戸人家満門遭惨殺、成為南宝村“四二・七・二”大惨案。僅存六戸(其中三戸当時選已逃往南洋)人家十五個人。村庄三日火焚不滅、村民流離失所、目不忍睹、被毀壊的残墻断壁至一九六二年尚何見到。南宝村遭日寇摧残后改名為南掘村」。
                                         佐藤正人      
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