三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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樹徳村と大昌園村で

2008年10月20日 | 海南島
 1995年10月に発行された海南省瓊山市政協文史資料委員会編『侵略与反抗』(紀念抗日戦争勝利50周年専輯、『瓊山文史』8)に、李常青「血泪的回憶――日軍在樹徳郷的暴行」が掲載されています。10月17日、樹徳村に行きました。
 海口南ターミナルからバスに1時間ほどのって三門坡に着いて、三輪車で樹徳村に向かおうとしたのですが、雨が続いたため、大きく20キロ近く回り道をしなくてはならないというので、大坡までバスで行き、そこから三輪車に乗ることにしました。
 大坡から、三輪車に30分以上乗って、樹徳村に着きました。途中の道はぬかるんでいましたが、胡椒畑やゴム樹林をぬけてくる風に香りがあり涼しかったです。
樹徳村には当時のことを知っている人はいませんでしたが、1959年生まれの莫書恰さんが、日本軍の望楼跡と井戸跡まで案内してくれました。
 莫書恰さんが子どものころには、望楼はなくなっていましたが、年寄りから当時の話しを聞いていたと言います。
 望楼跡の敷地には、30メートルほどの方形の壕が掘られてあり、部分的にいまも残っていました。望楼のそばに監獄として使われた建物があったそうです。
 日本軍がつくったという井戸跡は、望楼から700~800メートルほど離れていました。井戸から望楼までの道は50メートルほど急な上り坂になっていました。日本軍はこの井戸から望楼まで、村人に水を運ばせたといいます。
 莫書恰さんは、となりの大昌園村にむかしのことを知っている人がいるといってつれていってくれました。
 その人は、符祥豊(90歳)さんでした。
 符祥豊さんは、すこし耳が聞こえにくくなっているようでしたが、しっかりした口調でつぎのように話してくれました。

 「日本軍は、わたしの隣村の樹徳に望楼をつくったが、そのとき、近くの村の家を壊して、その材料をつかった。望楼の材料は、ぜんぶ、そうだ。日本軍はわたしの村や近くの村に入ってきて、家をたくさん焼いた。家はレンガでつくられていたので、家が焼かれても、レンガは残る。そのレンガを使って日本軍は望楼をつくったのだ。
 わたしは、日本軍が来たときにはすぐに逃げたので望楼はつくらされなかたが、村に戻ってきてから、望楼周辺の樹の伐採や、望楼に住む日本兵のための水汲みななどをさせられた。
 日本軍は、わたしの村の美勝を殺した。
 日本軍は、隣の福田村に、人を殺して埋める穴を掘った。
 日本軍は、鶏や鴨や豚などを見つけると、奪った。コメも奪った。
 日本軍は、たくさんの女性を強姦した。
 父親は日本軍が来る前に亡くなっていた。父が死んでから母は再婚した。そのあとは、わたしは、ひとりで暮らしをたてていた。日本軍が海南島に入って来たときには、わたしは結婚していた。
 わたしと妻は、“順民証”をもらったあと、日本軍のために働かされた。
 当時、井戸から望楼まで1回水を運ぶと竹の棒を1本もらった。それが水を運んだ証明になった。1日に10回以上、水を運ばされた。井戸から望楼までは、水汲みはたいへんな仕事だった。そうして、わたしたちが苦心して運んだ水で、望楼の日本兵は、水浴びをした。
 日本軍ために働いても、日本軍はカネも食べるものもよこさなかった。日本軍のためにずっと働かされていたので、自分の家の水田や畑には草が生い茂っていた。
 望楼には20~30人ほどの日本兵がいた。日本人はわずか数人で、あとはほとんど福建人だった。
 日本軍が負けそうになったとき、望楼にいた日本兵と村人は、4層あった望楼の上の部分を壊した。
 福建人のなかにはトコヤの仕事をしている人もいた。わたしも、その人に髪を刈ってもらったことがあった。
 望楼が壊されているのを見たわたしは、その福建人に、理由を聞いた。その人は、「日本にアメリカの原子弾が落とされた。日本はまもなく降伏する」と言った。
 日本軍は、望楼が高すぎると飛行機から爆弾を落とされると思ったのだ。
 日本人は悪かった。日本兵が来たと言うとみんな怖がった。
 日本軍は放火し人を殺した。残忍だった。
 日本軍がいるときには、みんなびくびくして暮らしていた。
 日本軍が投降したあと、安心して農業することができるようになった」。

 李常青「血泪的回憶――日軍在樹徳郷的暴行」の記述と、符祥豊さんの証言とは大きく違っていました。樹徳郷にもこれから何回も行って、できるだけ事実を明らかにしなければならないと思いました。莫書恰さんは、「むかし上坡湖村という村があったが、日本軍に村人がほとんど殺されていまは胡椒畑になっている。生き残った上坡湖村の人たちの子孫が近くの塔昌村に住んでいる」と話していました。
 符祥豊さんの証言にある「福建人」というのは、台湾兵のことだと思います。

                                     佐藤正人
コメント
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