7月17日と20日に、韓国仁川で、呂且鳳さんから話を聞かせてもらいました。
呂且鳳さんは、1913年生まれで、まもなく94歳になりますが、しっかりとした力強い口調で話してくれました。2日間、4時間あまりにわたる呂且鳳さんの証言は、つぎのとおりです。
「わたしは、光州刑務所に入れられていた。3年の刑期がまもなく終わるころ、突然、朝鮮を出てどこかに働きに行けと言われた。
わたしは、もうすぐ出獄できるのだから行きたくないと言って監房をでようとせず、食事を拒否して抵抗したが、むりやり行かされた。はじめはどこに行かされるのか分からなかったが、朝鮮人看守がそっと行き先は海南島だと教えてくれた。だが、海南島がどこにあるのか、どんなところなのかは、わからなかった。
第7次「朝鮮報国隊」だった。第7次というのははっきり覚えている。光州刑務所からソウルの刑務所に移され、そこから釜山に行かされた。1944年だったと思うが、よく覚えていない。季節は夏ではなかった。履物はチカタビだった。
釜山からコクラ刑務所につれていかれ、ヤハタから船にのせられて海南島に向かった」。
第7次「朝鮮報国隊」の中隊長であった衣笠一氏の『海南島派遣の朝鮮報国隊始末記』や『自分史』には、第7次「朝鮮報国隊」が編成されたのは、1943年11月であったと書かれています。
佐藤正人
呂且鳳さんは、1913年生まれで、まもなく94歳になりますが、しっかりとした力強い口調で話してくれました。2日間、4時間あまりにわたる呂且鳳さんの証言は、つぎのとおりです。
「わたしは、光州刑務所に入れられていた。3年の刑期がまもなく終わるころ、突然、朝鮮を出てどこかに働きに行けと言われた。
わたしは、もうすぐ出獄できるのだから行きたくないと言って監房をでようとせず、食事を拒否して抵抗したが、むりやり行かされた。はじめはどこに行かされるのか分からなかったが、朝鮮人看守がそっと行き先は海南島だと教えてくれた。だが、海南島がどこにあるのか、どんなところなのかは、わからなかった。
第7次「朝鮮報国隊」だった。第7次というのははっきり覚えている。光州刑務所からソウルの刑務所に移され、そこから釜山に行かされた。1944年だったと思うが、よく覚えていない。季節は夏ではなかった。履物はチカタビだった。
釜山からコクラ刑務所につれていかれ、ヤハタから船にのせられて海南島に向かった」。
第7次「朝鮮報国隊」の中隊長であった衣笠一氏の『海南島派遣の朝鮮報国隊始末記』や『自分史』には、第7次「朝鮮報国隊」が編成されたのは、1943年11月であったと書かれています。
佐藤正人
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