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海南島からの朝鮮人帰還について 2

2007年04月28日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■1、日本軍の海南島侵略と朝鮮人 1
 1939年1月17日、日本天皇ヒロヒとは、海南島軍事侵略を許可した(2)。
 その3週間後、2月10日、日本政府・軍は、海南島侵略を開始した。短期間に海南島の主要部を占領した日本政府・軍は、海南島の軍政を、日本海軍省、日本陸軍省、日本外務省の「三省連絡会議」の合議決定を前提として、日本海軍第5艦隊情報部に行なわせた(3)。
 日本政府は、日本軍海南島奇襲上陸の4日前、2月6日に、広東領事館の領事松平ら4人を「在海口総領事館竝ニ同警察署創設準備先発要員」として広東を出発させ、5月10日付けで、在海口日本総領事館と領事館警察署を開設した(4)。
 日本軍は、侵略目的を「建設新中国復興大東亜」、「建設反共親日之楽土」などと宣伝した(5)。当時、日本のマスメディアは、奇襲上陸にはじまる日本軍の海南島侵略を称賛し、日本民衆のほとんどが侵略地域の拡大を支持した(6)。上陸直後から、日本軍は、「海南島派遣陸海軍司令官」の名で「軍票」使用にかんする「布告」(7)をだし、「軍票」を使って海南島民衆から物資や労働力を奪った(8)。

註2 防衛庁防衛研修所戦史室『中国方面海軍作戦〈2〉――1938年4月以降――』朝雲新聞社、
  1975年、91~92頁。
註3 海南警備府「海南島政務処理ノ現状(1943年1月)」(日本防衛研究所図書館所蔵)、
  および、前掲『中国方面海軍作戦〈2〉』494頁、参照。
註4 『外務省警察史 支那ノ部 在海口総領事館』(日本外務省外交資料館蔵)。
   日本外務省外交資料館が公開している在海口総領事館関係文書は、これのみであり、
  記述は1940年末で終っている。
註 5 火野葦平『海南島記』改造社、1939年5月、50~51頁。
註 6 アジア太平洋戦争敗戦後も海南島侵略を肯定する日本人が少なくない。
   海南島侵略に関する日本人の論文は多くないが、そのほとんどがフラフラした視点で日
  本の海南島侵略をなかば肯定している。長岡新次郎は、「日中戦争における海南島の占領」
  (『南方文化』5、天理南方文化研究会、1978年)で、「太平洋戦争の勃発に際しての同島
  の役割は十分に評価されてよい」などと言っており(61頁)、太田弘毅は長岡のこの発言
  を「至言である」と肯定している(太田弘毅「海軍の海南島統治について」、『史滴』
  4、早稲田大学東洋史研究室、1983年、51頁)。吉田昭彦は、海南島奇襲占領について
  「この作戦計画は全く完璧なものであったといい得る」と言っている(吉田昭彦「海南島
  攻略作戦と海軍の南進意図」、軍事史学会編『軍事史学』錦正社、1992年3月、27頁)。
  ただし、相沢淳は、長岡、太田、吉田らのようには日本の海南島侵略を肯定していない
  (相沢淳「海軍良識派と南進 海南島進出問題を中心にして」、『軍事史学』、
  1990年3月。同「太平洋上の「満州事変」?――日本海軍による海南島占領・統治」、
  『防衛研究所紀要』1999年6月)。
註 7 前掲『海南島記』59、111頁。
註8 「軍報道員」として海南島に上陸した火野葦平は、翌日海口市内に侵入し、そのときか
  ら直ちに市場や食堂などで「軍票」を使っている(前掲『海南島記』25~26頁)。同じこ
  ろ海南島に侵入した宮地嘉六も、「二月二十二日に海口市では早くも治安維持会発会式が
  挙行されるといふ」、「日本人が軍票を使って支払いをしている」と報告している(宮地
  嘉六「海南島の印象」、『海』92号、大阪商船、1939年5月、24頁)。
   日本の敗戦後、日本軍が占領した各地で使った大量の「軍票」はすべて紙クズになった。
  日本政府は、いまなお、その賠償をまったくしていない。
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