三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究 22

2007年04月24日 | 海南島史研究
■海南島侵略に直接加担した日本の「文学者」の思想・感性・行動・発言 4

 1939年2月、日本軍が奇襲上陸し、国民国家日本は、海南島占領を開始した。
 このとき、それを行動や発言で反対した日本国民(「臣民」)はいなかった。
 具体的に行動や発言で反対できないとしても、もし、数十パーセントの日本国民が、思想的・感性的・倫理的に反対していれば、日本政府・日本軍は、海南島侵略を継続できなかっただろう。
 1937年7月、「盧溝橋事件」後、日本政府は、大量の正規軍を中国に侵入させた。
 このとき、それを行動や発言で反対した日本国民(「臣民」)は、ほとんどいなかった。
 具体的に行動や発言で反対できないとしても、もし、数十パーセントの日本国民が、思想的・感性的・倫理的に反対していれば、日本政府・日本軍は、中国侵略を継続できず、上海・南京……で数多くの住民が虐殺されることはなかっただろう。

 円地文子がいう「奥地の山岳地帯に蟠踞している匪賊」とは、日本の侵略を阻止しようとして戦う抗日反日戦士たちのことであった。
 じぶんたちの大地と海を占領しようとする侵略者と戦うのは当然のことである。
 円地文子は、その人たちを「匪賊」とよび、侵略者の「流した血と汗」を語り、海南島民衆殺戮を肯定・煽動した。
 円地文子は、日本軍が、他地域・他国に侵入することをどうして肯定できたのだろうか。

 海南島への侵入を命令された日本兵が、海南島侵略を行動や発言で反対することは難しかっただろう。しかし、そのうちの数十パーセントが、思想的・感性的・倫理的に反対していれば、日本政府・日本軍は、海南島侵略を継続できなかっただろう。
 日本政府・日本軍が海南島侵略を開始する以前に、日本国民のほとんどが、他地域・他国侵略に反対する思想・感性・倫理を喪失していた。

 1941年12月8日、日本政府・日本軍は、アジア太平洋戦争を開始した。この日、ヒロヒトは、
   「皇祖皇宗ノ神霊上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ
  芟除シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス」
という文書をだした。
 この時点では、戦争目的を「東亜永遠ノ平和」の「確立」だとするヒロヒトの妄言を、行動や発言で批判できないとしても、思想的・感性的・倫理的に反対する「臣民」はほとんどいなくなっていた。
 その2年半後、敗北が近づいた時点で、円地文子は、「サイパン落つの悲報いたる。…………言葉なくつつしみて英霊を弔いまつる。しかしこうした日のあることは開戦の大詔を拝した時から覚悟していたことである」と述べた。
 その2年半の間においても、日本軍は、海南島をふくむアジア太平洋の各地で多くの民衆を虐殺していた。
                                           佐藤正人
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