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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究 7

2007年02月18日 | 海南島史研究
 アジア太平洋戦争開始の前後、1941年11月25日から1942年1月25日までの2か月間、海南島で日本軍は「Y5作戦」をおこないました。
 1941年11月10日付けで海南部隊指揮官谷本馬太郎が出した「海南部隊命令」では、「Y5作戦」の目的を「対南方作戦基地タル本島ノ治安ヲ急速ニ確立」することだとしていました。
 その前日に出した「1941年海南島緊急米穀対策要綱」(原文は‘元号’使用)で、海南部隊指揮官谷本馬太郎は、「南方国防基地」として重要な海南島で、日本軍はコメを自給しなければならないとし、つぎのような「実施要領」を示しています。
   「一、匪賊地帯  部隊ノ米討伐ヲ主体トシ開発会社及治安維持会ヲ指導ノ下ニ米ノ強制集得ヲ為スモノトス。 1、予メ当該地域ニ於ケル産米情報ノ募集ニ努ム。 2、軍需民間ノ‘トラック’ヲ動員シ開発会社、治安維持会ヲ併セ特務隊ヲ組織ス。本特務隊ハ予メ包装用袋ヲ準備スルモノトス。 3、産米情報ヲ得タル後11月中旬以後米ノ出廻場所ニ対シ作戦行動ヲ実施ス。
    二、帰順地区  本地区ニ在リテハ部隊ガ中心トナリ開発会社及治安維持会保甲ヲ指導ノ下ニ米ノ強制収買ヲ実施スルモノトス。 ………… 2、人口ニ対シ最小限度ノ米所要量ヲ残シ強制買上ヲ実施ス。3、本地区ニ在リテモ逃避或ハ米ノ隠匿者ニ対シテハ必スシモ買上ノ要ナク押収モ妨ゲズ。4、買上資金ハ特務部ニ於テ法幣(要スレバ軍票)ヲ用意………… 5、前号資金ト併セテ一部宣撫物資ヲ以テ支払ニ充当ス。本宣撫物資ハ三井物産ヨリ各開発会社ニ特別配給ヲナス…………」。

 日本軍のコメの自給とは、侵入地域の民衆からコメを奪うことでした。海南島に侵入していた日本軍は、抗日反日闘争の強固な地域(「匪賊地帯」)の民衆からは、まったく無償で強奪しました。あきれることには、海南島侵略日本軍の最高司令官は、強奪したコメを運ぶトラックだけでなく、コメをいれる袋までをあらかじめ準備しておくことまで指示していました。
 抗日反日闘争が強固ではない地域(「帰順地区」)では、小額の軍票を渡して「最小限度ノ米所要量ヲ残シ強制買上」をするように海南島侵略日本軍の最高司令官は指示していましたが、村民が避難して一時的に人がいなくなった村(「逃避」)の無人の家からはコメを盗むように指示していました。
 海南島民衆からの日本軍のコメ略奪には、三井物産が荷担していました。

 「1941年海南島緊急米穀対策要綱」は、防衛研究所図書館にある『Y五作戦戦闘詳報(海南警備府機密第27号ノ6)』に含まれています。海南島民衆からのコメの強奪もまた、「Y五作戦」の一環でした。「Y五作戦」開始後まもなく、海南島三亜港から日本軍を乗せた船団が出港し、12月8日にアジア太平洋戦争が開始されました。
                                佐藤正人
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日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究 6

2007年02月17日 | 海南島史研究
 王子製紙は、アイヌモシリ(「北海道」・「カラフト」)、朝鮮、中国東北部、海南島に侵入し、大量に樹木を奪い、原始林を破壊しつづけました。王子製紙は、樹木伐採・輸送などのために軽便鉄道をつくり、原木を確保するとともに安価な電気を確保し販売するためにダム建設をおこないました。
 「北海道」北部の雨龍ダム建設のとき、強制連行されてきた朝鮮人をふくむおおくの労働者が、酷使され、いのちを奪われました。その雨龍ダム建設をおこなった雨龍電力株式会社は王子製紙の子会社でした。
 海南島尖峰嶺地域の樹木を奪い輸送するために、王子製紙が、嶺頭駅(石碌鉱山―三亜間鉄道の駅)から尖峰嶺山麓の土崙までの軽便鉄道の建設を始めたのは、雨龍ダム発電開始半年後の1944年2月でした(1945年3月完成)。軽便機関車は苫小牧から運んできたようです。

 2006年3月末から4月初めにかけて、わたしたちは、尖峰嶺地域の村々を訪ね、王子製紙がおこなった企業犯罪を調査しました。楽東黎族自治県尖峰鎮紅湖村に、王子製紙の軽便鉄道の跡が残っていました。
 紅湖村は、王子製紙の軽便鉄道の起点(終点)である嶺頭駅から東に4キロほどのところにあります。嶺頭駅から東北に4キロほどいくと黒眉村が、8キロほどいくと高園村があります。日本占領期には嶺頭駅の南側には日本軍守備隊の兵舎があったといいます。
 紅湖村の村人に案内されて、裏畑を抜けると、細い一直線の道に出ました。鉄道の敷石に使われていたと思われる小さな石がたくさんありました。村人は、その道が軽便鉄道の線路の跡だと教えてくれました。尖峰嶺の方向(東方)に1キロほど歩くと、水路にかかるコンクリートの小さな橋がありました。その橋はむかしは木橋で、そのうえを軽便鉄道が通っていたとのことでした。

 紅湖村で、李玉球さん(1930年生)は、つぎのように話しました。
     「昔、鉄道を作った。10歳あまりのときだった。‘輪戸’だった。10数人行って、戻ったら、また次の10数人が行った。自分の意思ではなく、順番があったから、行かなければならなかった。
   建設がはじまってからできあがるま、1年くらい働いた。毎日70人~80人が働いていた。女性もいた。
   朝6時から夜9時ころまで働かされた。土を運んだ。100メートルくらい離れたところから、土を運ぶ。監督がいたら、なるべくいっぱい土を入れたが、いなかったら、少し入れる。監督は恐かった。
   当時住んでいたのはこの近くの老李落村だった。
   共産党員が村に隠れているといって、日本軍は、2回か3回、村に入ってきた。日本軍が村に来ると、全部焼いたから、食べ物も服も家もなくなってしまった。この近くの村も、全部やられた。祖母は歩けなかったので、両手両足に大やけどした。
   わたしが羊追いに出ようとしたとき日本軍が入ってきたことがあった。羊は機関銃で殺された」。

 紅湖新村で周文華さん(1930年生)は、こう話しました。
    「日本軍が村に来て、機関銃で生きているものをみんな殺した。日本軍は何回も来た。この村と黒眉村には共産党の人間がいるといって。
   そのころわたしは、食べるものもなく服もなく、下ばきしか身に付けていなかった。
   森林鉄道の工事をさせられた。小石を拾って、コンクリートに混ぜた。夜は家に帰った。監督は台湾人で、朝しか来なかった。日本兵は、銃を持って監視した。台湾人は白い服。日本兵は軍服を着ていた。 
   台湾人が、まじめに仕事をしなくて、日本兵に殴られたのを見たことがある。日本兵が火をつけて台湾人を殺したこともあった。
   逃げようと思ったが、小さかったから、逃げる道を知らなかった。賃金はなかった。食べ物は塩漬けの魚とつけもの。軍票ももらっていない。
   当時、家は農業をしていた。父も鉄道工事をした。日本軍が村に共産党を探しに来たとき、父は知らないと言って殴られた」。

 尖峰鎮尖峰村(水馬田村)で、符亜秋さん(1923年生)は、つぎのように話しました。
    「昔は山に住んでいたが、日本軍につかまった。5、6年間、仕事をさせられた。殴られなかったが、食べ物は少ししかくれなかった。仕事は、朝から晩まで。逃げようと思ったが、逃げられなかった。抗日戦争に参加したかったが、家には子どもはわたししかいなかったので、できなかった。
   王子製紙の森林鉄道工事をやらされた。鉄道は、15キロ作った。働きに行かなかったら殴られた。逃げた人がいた。何人逃げたかはわからない。つかまったら、殺された」。
                                      佐藤正人
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日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究 5

2007年02月16日 | 海南島史研究
 海南島南西の尖峰嶺地域は、抗日反日部隊の根拠地であり活動地域でした。
 その地域にある東方市板橋鎮高園村(旧感恩県高園村)は黎族の村です。村人たちは、くりかえし襲撃してくる日本軍と戦いつづけました。

 日本海軍海南警備府横須賀鎮守府第4特別陸戦隊が、1945年6月5日に出した「横鎮四特戦闘詳報第8号(横四特陸機密第26号ノ8) 感恩県高園村附近討伐戦戦闘詳報」によると、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊第1大隊迫撃砲中隊第1小隊長太田良知ら43人は、1945年5月22日に、4分隊に分かれて高園村を襲撃し、5人を射殺し、家に放火し、30戸をすべて焼いています。
 その20日まえ、5月2日には、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊所属部隊が海南島東部の万寧市月塘村で住民虐殺をおこなっていました。
 「感恩県高園村附近討伐戦戦闘詳報」には、
     「共産党挺身大隊長張應垣ハ約180名ノ部下ヲ擁シ田頭嶺山麓一帯ヲ共産化シ高園村(嶺頭33度、約8・5粁)附近一帯ニ蟠踞シ……嶺頭ヨリ高園村ニ通ズル討伐道路側ノハ殆ド共産化サレ高園村附近一帯ノ治安ハ悪化シ嶺頭分遣隊ノ如キハ討伐ノ途中度々射撃ヲ受ケタルコトアリ……」
と書かれています。

 2006年3月末、わたしたちは、高園村を訪ねました。
 周亜華さん(1921年生)は、自宅でこう話しました。
     「日本軍は家を壊して、火をつけた。にわとりや豚や牛を奪い、女性を強姦した。村びとに軍用道路をつくらせた。道路工事に行きたくないといったら、殴った。石碌鉱山に送られた人もいた。
    共産党の張應煥が、よくこの村に来て泊まった。もし共産党の組織がなければどうなるか、といって、共産党に入るように誘った。仕事を積極的にする人、秘密を守れる人は、地下組織に入ることができるといった。張應煥は、30歳代だった。わたしは、志願して地下党員になった。
    嶺頭などで日本軍と戦った。武器は火薬銃だった。村の人はほとんど持っていた。火縄銃がなかったら、弓で戦った。弓は、いのししを捕まえたりするのにみんな持っていた。
    共産党に入ったら、党費を納めなくてはいけない。金がなくて、マッチを党費として納めた。
    張應煥は、非常に勇気がある人だった。戦場では勇ましかったが、部下にはやさしかった。やせていて、片方の目がよくなかった」。
 
 話してる途中、周亜華さんは家の奥にはいって、弓矢と火縄銃の銃身を持ってきました。その弓をつがえる85歳の周亜華さんの目は、輝いていました。

 周亜華さんに案内されて、近くの林秋華さんの家を訪ねました。林秋華さんは、こう話しました。
     「1943年に、瓊崖従隊に入った。妻は村の民兵だった。
    日本軍が来たとき、女が2人、男が4人殺された。家も燃やされた。この村は50戸だった。羊、牛、豚、とりは全部奪われた。
みんな山に逃げた。子どもを背負って逃げた。日本軍が引き上げたら、村に戻った。
    日本軍とも国民党とも戦った。攻撃されたから戦ったのだ。感城での戦闘がいちばん激しかった。わたしたちは、300人。こっちが勝った。日本軍は30人。日本軍から機関銃を奪った」。

 王子製紙社史編纂室編『王子製紙南方事業史』(王子製紙株式会社、1964年)には、つぎのようなことが書かれています。
   “王子製紙は、日本海軍の要請に応じて、「軍へ供出造材製材を目的として」、1943年2月に、尖峰嶺地域の森林を調査する調査隊を海南島に送り、9月に、王子製紙樺太鉱業倉庫係長前田秀雄を所長とする海南島事業所を開設した。その後、下請けもふくめて、日本人(職員、技師、工員、医師など)数百人を海南島に侵入させ、尖峰嶺地域の原始林を伐採した。伐採した材木を運び出すために、西松組に一部を請け負わせて森林鉄道を建設した。森林伐採や軽便鉄道建設工事には、「中華苦力と現地土人」のほか、「軍特務部に申請して」、海南島各地から集めさせた人たちを働かせた”。
 抗日反日部隊の根拠地である尖峰嶺地域の森林破壊は、軍事的な意味をもっていました。
 王子製紙は、日本軍の援助によって海南島民衆から森林資源を奪い、抗日反日部隊の根拠地を荒らすことによって日本軍の軍事行動に積極的に荷担していました。
                                       佐藤正人
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日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究 4

2007年02月15日 | 海南島史研究
  日本外務省外交史料館に、海軍省軍務局が作製した「海南島進出会社名簿」(1945年9月15日調)があります。また、「海南島民間関係資産被接収ニ関スル資料」と題された、海南海軍特務部の手書きの文書があります。これは、1946年5月15日付けで海南海軍特務部総監小河正儀から外務次官宛てに出されたものです。
  これらの文書を見ると、日本占領下の海南島に侵入していた日本企業は、日本窒素、石原産業、三菱鉱業、明治製糖、日本油脂、台湾銀行、台湾拓殖、横浜正金銀行、三井物産、三井農林、三井倉庫、王子製紙、西松組、日本製鉄、浅野セメント、トヨタ自動車、島田合資、大阪商船、東亜海運、大阪商船、三越、大丸、資生堂、武田薬品、塩野義製薬、東亜塩業、大阪窯業、木村珈琲、明治屋、勝間田商行などであったことが分かります。
  これらの日本企業のほとんどは、いまも事業を継続していますが、海南島でおこなった侵略犯罪を具体的に、みずから明らかにすべきだしょう。
 
 1998年6月に、わたしたちは、石原産業が資源略奪をおこなっていた田独鉱山と日本窒素が資源略奪をおこなっていた石碌鉱山にいきました。
 田独鉱山には酷使され殺された労働者が埋められた「万人坑」があり追悼碑(「日冠時期受迫害死亡工友紀念碑」)が建てられてありました(1958年建立)。石碌鉱山では酷使され死んだ労働者は、川原に放置されたといいます。その川原の近くの高台に、追悼碑(「石碌鉄鉱死難鉱工紀念碑」)が建てられてありました(1964年建立)。
  石碌鉱山の鉄鉱石は40キロほど離れた八所港から日本に積み出されました。八所港を急造するためにホンコンや広州からおおくの人が連れてこられ、日本窒素や西松組(現、西松建設)に酷使され、死亡しました。旧八所港跡にも「万人坑」があり、追悼碑(「日軍侵瓊八所死難労工紀念碑」)が建てられてありました(1965年建立)。

 防衛研究所図書館に、1942年11月19日付けで海南警備府参謀長と海南海軍特務部総監が連名で海軍省軍務局長などに出した文書(「海南警備府機密第40号ノ236」)があります。それに海南警備府が作製した「石碌鉱山開発状況調査書」(1942年11月)が添付されていますが、そこには、つぎのような記述があります。
     「開発開始以来十一月始迄ニ死亡セル者職員三十一名人夫実ニ四〇七六名ヲ算スルノ惨状ヲ呈シ十一月一日ニ於ケル総員数一四五四二名ニ対シ休業入院者四〇九八名ニ達シ居ルヲ見レバ広義ノ労務管理ガ如何ナル状況ニ在リシヤヲ窺知シ得ベク……」、
     「従来漫然ト一西松組ノミニ請負ハシメ而モ確固タル契約ヲ締結スルコトナク只西松組ノナスガ儘ニ放任シアリタリ」。

 ここで海南警備府は、「開発開始」から1942年11月初めまでに死亡した労働者は、4076人であったと報告しています。
 上海から多くの労働者が工事現場につれてこられて、実質的に「開発開始」がおこなわれたのは1942年9月でした。わずか2か月たらずの間に、4000人以上の人が「石碌鉱山開発」の現場で死亡しました。
 当時日本窒素海南興業総務部にいた河野司は、のちに、
      「約2年間(1941年7月―43年末)に入島した大陸労務者の死亡者の数は自から明確である。死亡でなく逃亡者の数も可なりに上ったが、いずれにしても、死亡逃亡を合わせて約一万余名が四年間に失われていることは隠しようがない」
と書いています(河野司編著『海南島石碌鉄山開発誌』石碌鉄山開発誌刊行会、1974年、352頁)。                               佐藤正人
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日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究 3

2007年02月14日 | 海南島史研究
 1939年2月に海南島に奇襲上陸した日本軍は、沿岸地域占領後、1939年11月に海南島根拠地隊を編成するとともに、それまで海南島軍政を担当していた日本海軍第5艦隊情報部の規模拡大して海南島海軍特務部と改称しました。1940年4月に海南島根拠地隊は再編されて海南警備府となり、司令部を三亜におきました。

 防衛研究所図書館で、海南警備府の文書の一部が公開されています。
 そのなかに、『海南警備府戦時日誌』と『海南警備府戦闘詳報』(計30冊)があります。
  『戦時日誌』は1941年12月~1943年11月、1944年3月~7月の分のみ、「戦闘詳報」は『Y五作戦戦闘詳報』(1941.11.25.~1943.4.19.)、『Y六作戦海軍部隊戦闘詳報』(1942.6.8.~6.25.)、『Y七作戦第一期』(1942.11.1.~1943.1.31. )、『Y七作戦第二期』(1943.4.20.~6.4.)、 『Y七作戦第三期』(1943.6.5.~6.24.)のみであり、それ以外は公開されていません。また、海南島根拠地隊の文書はほとんど公開されていません。
 したがって、1939年2月から1941年11月までと、1943年12月から1944年2月までと、1944年8月から1945年8月までの間に、日本軍が海南島でおこなった侵略犯罪を個別に日本軍文書によって知ることは難しくなっています。
 「Y一作戦」(1939年2月~11月)のさいにおこなわれた后石村住民虐殺(1939年4月)、1945年におこなわれた九曲江住民虐殺(1945年4月12日)、月塘村住民虐殺(1945年5月2日)、秀田村住民虐殺(1945年7月30日)などにかかわる記録を、これまでわたしたちは、日本軍関係文書のなかでは発見していません。

 防衛研究所図書館で公開されている日本軍海南島侵略にかんするすべての文書(総計約2万頁)を、わたしたちは、1998年夏から2000年夏までに点検しました。
 その後、これまでわたしたちは、その文書の必要部分の複写を持って、海南島「現地調査」を重ねてきました。しかし、わたしたちのような小さな民衆組織が、8年半の海南島での日本政府・日本軍・日本企業の侵略犯罪の実態を解明するのは容易ではありません。

 2003年春、「大量破壊兵器がある」という虚偽を口実にしてUSA軍・英軍を主力とする侵略軍が大量の破壊兵器を使ってイラクに侵入し、日本軍がその侵略軍の補給を担当しであらたな戦争犯罪を実行し、おおくのイラク民衆が殺され傷つけられているさなか、わたしたちは、60年前の日本の侵略犯罪を「調査」するために海南島にいきました。
 海南島東北部の文昌市秀田村で、日本軍が住民虐殺をおこなったのは、1945年7月30日(農暦6月22日)でした。
 秀田村でわたしたちは、陳貽僑さん(1925年生)、陳明宏さん(1928年生)、陳貽芳さん(1933年生)から話を聞かせていただいた。3人の方がたにとって、両親や妻、子、兄弟が殺されたのは、きのうのことのようだった。祖母、母、妻、そして4か月の子を焼き殺された陳貽僑さんは、話をしている間、ずっと泣いていました。
 当時17歳だった陳明宏さんは、
     「たくさんの焼け焦げた遺体が散在していた。遺体は炭となっていて、あるものは水桶の中に、あるものは塀をつかんでいて、逃げようとする姿勢だった」
と、話しました。当時12歳だった陳貽芳さんは、
     「父母、兄、嫂、姉、弟、甥の7人が殺された。わたしと陳貽宏は稲藁を積み上げているところに隠れて見ていた。八か月のおいが日本兵にゆりかごから連れ去られて、火の燃えている中へ投げ入れられた。あのころは日本人をすごくうらんだ。家を破壊してだれもいなくしてしまった。わたしは、このようなことをやった日本兵を殺せなかったことがくやしかった」
と、話しました。陳貽僑さんは、
    「この事件のことを日本人民に知らせなければならない。日本政府に、賠償をさせなければならない。ただただ日本の軍国主義を恨む」
と語りました。
 話を聞かせてもらったあと、陳貽僑さんらに村内や犠牲者の墓地を案内してもらいました。日本軍に住民がおしこまれれ焼き殺された家の跡が、当時のまま残されていました。村はずれの大きな墳墓のまえの碑に刻まれた「秀田村惨案記略」には、つぎのように書かれていました。
    「1945年6月22日明け方、舗前基地から出動してきた日本軍は、52戸、男女老少200人ほどのわたしたちの村を襲い、農作業にでていた者を除く村人全員を2軒の民家に閉じ込め、ガソリンをかけ、生きたまま焼き殺した。140人が殺された。老人47人、青壮年24人、児童53人、妊婦9人、よその村から来ていた者7人であった。日本軍敗北の前夜であった。
    生きのこった者が骨灰を集め村の西の野に埋めてから40年あまりが過ぎた。
    海外の親族などが資金を、このたび墓園を重建した。 1989年12月10日」。

 陳貽僑さんは、秀田村虐殺52年後、1997年農歴6月22日付けで「文昌市羅豆農場秀田村歴史惨案記実」を書いていました(『海南陳氏譜』第二巻 秀田村分冊、1999年)。その要旨は、つぎのとおりです。
    “秀田村の幸逃者は、わずか56人だった。1945年農歴6月22日早朝、日本軍部隊は、16人づつの2隊に分かれて村に侵入した。
     この日午後4時過ぎ、日本軍がいなくなってから、村にもどった。村のなかの家はまだ燃えていた。人影はなかった。父母や子どもに呼びかけたが、答える声は返ってこなかった。村の西に行くと2軒の家に、焼き殺された遺体があった。どの遺体も、誰なのか見分けることができなかった。
     苦しみ嘆き、ものを食べることも眠ることもできなかった。3日後、140人の遺骨を集め、ふたつの穴に埋めた”。

 2004年12月、わたしたちは、秀田村虐殺をおこなった日本軍部隊が「駐屯」していたという舗前に行き、その部隊の痕跡を調査しましたが、舗前守備隊本部があった場所以外は、確認できませんでした。 
 舗前守備隊は、日本海軍海南警備府第15警備隊所属部隊でした。
                                佐藤正人
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『日本が占領した海南島で』名張上映会

2007年02月13日 | 上映会
ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』上映会のお知らせです。

と き 2007年2月25日(日) 午後1時開場 1時半上映開始
ところ 名張市武道交流館いきいき 第1会議室   電話 0595-62-4141
                                三重県名張市蔵持町里2928
参加費  1200円
     冊子『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』を含む
     高校生・中学生300円。小学生以下は無料です。

主催 『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』上映三重実行委員会
     『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』上映名張実行委員会
                       連絡先 090-8860-9961(竹本昇)
後援 紀州鉱山の真実を明らかにする会
    http://members.at.infoseek.co.jp/kisyukouzan/

上映会のあと、交流会をひらきます。それにも参加してください。

■「ビデオと過ごす」(『週刊金曜日』2005年6月24日号)より
 三重・和歌山両県の境にある石原産業が経営した紀州鉱山と、中国・海南島。 この離れた二つの場所は、「朝鮮人強制連行」で60年近い歳月を超え、一つに結ばれる。
 「朝鮮村」――。朝鮮人が一人も住んでいないにも拘わらず、こう呼ばれる「村」が海南島にあった。植民地下朝鮮の刑務所から連行された朝鮮人が鉱山などでの強制労働の末、虐殺・遺棄された場所なのだ。侵略の縮図だったこの島は第二次大戦中、飛行場や「慰安所」までも建設された。
 威圧感を今に残す多数のトーチカの跡。虐殺の様子を昨日のことのように嘆き、語る人々。侵略は文字上の歴史でなく、血の通う実感として息づいていた。このビデオは、地域における日本のアジア侵略の検証と責任追及に取り組んできた人々の16年にわたる「旅」の終着点であり、日本とアジアの今と未来に向け、多くの人々を誘う新たな「旅」への道案内でもある。

■足立正生「『日本が占領した海南島で』を観て」より
 日本が占領した海南島で」を観ていると、どくどくどくと鼓動が弾み始め、映像を焼き付けた脳裏が独りでに蠢動を始め、全身が映像の中に吸い込まれて行く。
 この、紺碧の空と濃緑に囲まれた美しい海南島の郷土で、強制連行され強制労働で痛めつけられた「朝鮮村」の人々が、何を恨んで死んで行ったかを感じ取ろうとする。
 今はただただ荒野の滑走路跡にどれほどの血と魂が吸い込まれているのか。その島を占領した日本の軍隊と国策企業が強行した戦争犯罪の史実の実態を記憶しようとする。
 生き残った現地の人々の語りが聞こえる。日本語のナレーションが語る。
 26年間、私が生活を共にしていたパレスチナの人々も、家族を虐殺され村を焼かれて追われた難民生活の中で、自分に降りかかった厄災の数々を語った。しかし、迸り出る言葉さえもどかしくなり、自然と伸びた両手が故郷の村の姿を描き始め、瞳はその村の光景を見つめて虐殺の現場にたどり着く。全身が一瞬凝固して、やがて、全てを飲み込んで胸をかき抱き、オリーブの木が、母が、父が、兄弟姉妹が、子供たちが、と瞑目したまま動かなくなる。それを今、新たに海南島の人々の語りに共鳴させて聞いているのだ。
 今、『日本が占領した海南島で』の中で人々が語るのは、風化しようにも風化できない事実なのである。

■松田政男「“こころして墓標を残す” 『日本が占領した海南島で』を見て」より 
 会の前身が発足してからでも15年以上を閲し、紀州鉱山―韓国―海南島へ足跡が伸長し行く「現地調査」を始めてからも10年近くが経過した。はじめ韓国のTV各局への協力から始まった映像記録の体験も、やがて自力による短篇制作を経つつ2年有余に及ぶ。
 南端の「朝鮮村」から始まって、日本民俗学の「聞き書き」にも由来する「聞き撮り」の手法を文字通り貫徹させつつカメラが北上し行く時、ただ一ヵ所で往年の収容所跡からも遠望されたとコメントされる高い塔を除いては、以降ランドマークは現れることはない。何故にか? 遠景ならぬ近景としてのランドマークが海南島の村々に、文字通り無数無名の碑として田園に山間に街頭に出現し、記録され行くからだ。
 強制連行された朝鮮人であれ海南島の現地人であれ、これまた文字通り無告無名の碑銘が刻まれた碑の群れは、言うまでもなく日本帝国主義の軍隊の蛮行への無告無言の告発である。
 海南島に遺された墓標の群列はまさしく「こころして残された」血債の記録だ。日本の観客はまさにこころして、対面しなければならない。
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事務局会議報告

2007年02月12日 | 会議
 きょう、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会の合同事務局会議を開きました。
 主要議題は、つぎのとおりでした。

■三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会
Ⅰ、2007年追悼集会にむけて
Ⅱ、『熊野市史』問題決着の展望
Ⅲ、『会報』45号(2007年3月10日発行)。
Ⅳ、新冊子準備
Ⅴ、ホームページ 朝鮮語ページ、漢語ページ新設
Ⅵ、財政

■紀州鉱山の真実を明らかにする会
Ⅰ、紀州鉱山で命を失った朝鮮人を追悼する集会。 2007年秋に。
  追悼碑建立の道程。   民衆運動としての追悼碑建立。
Ⅱ、「朝鮮村試掘」報告書(日本語版、朝鮮語版、漢語版)。
  ①、「試掘」にいたる過程(1998年~2006年)。
  ②、2006年5月の「試掘」目的。
  ③、「試掘」報告。
  ④、「朝鮮村発掘」の意味。
  ⑤、「朝鮮村虐殺」の歴史学的報告。
     継続的な海南島住民虐殺は、国民国家日本の侵略犯罪の一環。
  資料:朝鮮人が埋められている場所の平面図・写真。
     :「試掘」現場の時系列的平面図・写真。
Ⅲ、「朝鮮村試掘」:今後の展望・方針。
Ⅳ、民衆レベルでの、日本が海南島でおこなった犯罪の総合的確認と責任追求。
    2009年2月10日(日本の海南島侵略開始後70年)までに具体的に何を!
  海南島で   共同調査、共同研究、共同出版。
  中国、韓国で   共同調査・共同研究。
  日本で
    共同調査・共同研究、ハイナンネットと「海南島戦時性暴力被害裁判」支援。
    月塘村追悼碑建立基金(2008年5月2日建立)、后石村追悼碑建立基金。
   日本政府にたいして
     1、旧日本軍の海南島での住民虐殺、資源略奪、人権侵害にかんして。  
        海南島侵略日本軍の名簿公開要求→責任者処罰。
     2、「朝鮮報国隊」にかんして。
      ①、厚生労働省に「朝鮮報国隊」の名簿全面開示要求。
      ②、法務省・厚生労働省に、「朝鮮報国隊」の「隊員」の所在確認要求。
      ③、個人の委任を受けて、個人記録提出を日本政府に要求する。
      ④、旧内務省の責任追及。
         2004年9月につづき、公文書公開法にもとづき、政府に2回目の要求書。
Ⅴ、調査・聞きとり・資料収集
  日本で
   1、旧軍人・行刑関係者などからの聞きとり。
   2、内閣文書、外交文書、旧日本軍文書、行刑文書などの詳細再点検。
   3、アジア歴史資料センターの海南島関係資料すべての分析。 
   4、当時の新聞・雑誌の再点検。
   5、未見資料の入手・閲覧。
  韓国で
   1、「朝鮮報国隊」名簿探索。韓国の各刑務所の記録閲覧。
       韓国政府記録保存所の名簿にある人の消息を各地域の役所に問い合わせる。
   2、さらなる聞き取り・「現地調査」。 『海南島被徴用者名簿』。
  海南島、台湾、中国、USAで  
     各档案館の資料閲覧・複写。広東裁判関係文書など、探索。
Ⅵ、12回目の海南島「現地調査」の報告・総括  2006年12月28日~2007年1月25日
Ⅶ、海南島近現代史研究会
Ⅷ、今後の海南島行き
   ●13回目の海南島行き(2007年3月25日から)。
      月塘村・美良村・妙山村・「朝鮮村」再訪。五指山地域で聞きとりなど。
   ●14回目の海南島行き(2007年秋)。    
Ⅸ、出版
 1、写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』。
    A全カラープリント版(A4、110頁+4頁)。2006年12月28日完成。
     2007年1月19日、海南大学図書館と漢語版の共同編集・共同発行確認。
    B白黒版(表紙はカラー、A4、132頁+4頁)。2007年2月10日発行。1500円。
    C全カラープリント版(A4、132頁+4頁)。2007年秋までに漢語版発行。
 2、『海南島現代史 抗日戦争期(1939年~1945年)』
      A5判、約500頁(資料目録、年表、地図、写真をふくむ)。
 3、冊子『“朝鮮報国隊”』( 「朝鮮村試掘」総括→「朝鮮村発掘」の具体化作業の一環)。
      内容:「朝鮮村」での証言。「朝鮮報国隊」の軌跡。『“朝鮮報国隊”』全シナリオ。
    「朝鮮村試掘」にいたる過程報告(『「朝鮮村試掘」報告書』の主要部分再録)。
   地図、写真、資料目録、年表。 B6、200頁。
 4、えほん『にほんがせんりょうした海南島で』。B5判、30頁ほど。2007年夏発行。
       実験的に、ウェブ絵本、ウェブブックレットを作れないか! 
 5、『パトローネ』への連載→『海南島で日本は何をしたのか Ⅱ』発行。2007年中に。
 6、海南島文庫(ブックレット)連続発行。
      A5版、50~80頁、写真・カット多数、500円~700円。
   1日本は海南島で何をしたか、2海南島における抗日反日闘争、3秀田村虐殺、
   4「朝鮮村」、5林亜金さん、6朴来順さん、7田独鉱山・紀州鉱山、8興南・水俣・石碌、
   9回新村の歴史、10后石村で、11六郷村、12高福男さんと柳済敬さん、
   13日本軍用洞窟・飛行場・鉄道、14月塘村虐殺、15特攻艇「震洋」海南島基地、
   16「朝鮮報国隊」・「台湾報国隊」・「図南報国隊」。
 7、証言集。
Ⅹ、ドキュメンタリー    海南島人、中国人、朝鮮人、日本人……の共同作業。
 1、『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』 2007年夏までに英語版制作。
 2、『“朝鮮報国隊”』2007年夏までに完成。
 3、『抗日闘争期海南島民衆史 日本が占領した海南島でⅡ』2007年末までに完成。
ⅩⅠ、パネル展・企画展・上映会・シンポジウム・証言集会……
 1、上映会のときに、小規模パネル展、中規模パネル展、大規模パネル展を同時開催。
 2、世界各地での継続的上映運動・集会・パネル展。
  ▼海南島(秀田村……)、中国(上海、広州、北京……)、台湾で企画展、上映会。
  ▼韓国各地で、企画展、上映会。 
  ▼アイヌモシリ、ウルマネシア、日本各地で。
    ●大阪、東京などで:シンポジウム。
      「朝鮮報国隊」に入れられ海南島で働かされた高福男さんを囲む証言集会。
 3、大阪人権博物館での企画展『日本は海南島で何をしたか』再延期問題
       2004年延期問題と2006年延期問題とは、質が違う。
       企画展実現のための方針確認。
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2月11日

2007年02月11日 | 海南島
 ヒロヒト、日本政府、日本軍が、海南島奇襲上陸を、2月10日に設定したのは、2月11日に、海南島の首都海口を占領するためでした。2月11日は、1872年に設定された「紀元節」の日でした。
 中華民国政府軍(国民党軍)がほとんど反撃しなかったので、日本軍は天尾海岸に上陸した2月10日に、予定より1日早く、海口に侵入しました。
 1939年2月11日の『大阪朝日新聞』朝刊1面には、「けふ輝く紀元節」、「海口へ一番乗り 全市街忽ち日の丸の波 皇軍砂丘を縫ひ堂々入城」、「海口、瓊山完全占領」などという見出しの記事が掲載されています。
 
 1937年12月の日本軍の南京占領を、おおくの日本の民衆は、喜び支持しました。その1年2か月後の日本軍の海南島侵略を、おおくの日本民衆は、喜び支持しました。
 他国他地域に侵入し、その地を占領し、その地のモノを奪い、抵抗する民衆を殺傷することは、犯罪です。それが犯罪であることを、当時の日本民衆のほとんどは、自覚できなかったのでしょうか。
 社会生活においてあたりまえのモラルを、どうして、当時の日本民衆は、国民的規模で喪失していたのでしょうか。そのモラルを、現在の日本民衆は、国民的規模で、回復しているのでしょうか。
 最悪の戦犯・侵略犯罪者ヒロヒトを天皇としつづけ、いまなお「紀元節」やヒロヒトの誕生日を日本国民の祝日としている日本国民は、侵略犯罪を侵略犯罪であるとするモラルを、確立できていないのではないでしょうか。
 たしかに、1945年以前の日本のマスメディアは、悪質でした。しかし、日本政府やマスメディアの煽動を批判し、国民国家日本の他国他地域侵略に反対する論理と倫理を確立できなかった歴史的原因を、日本政府やマスメディアによる天皇制イデオロギー攻勢や日本政府の思想弾圧などに限定することはできないのではないでしょうか。
 国民国家日本の国民(1947年5月3日までは「臣民」)は、アイヌモシリ植民地化を支持し、ウルマネシア植民地化を支持し、台湾植民地化を支持し、朝鮮植民地化を支持し、「南洋群島」植民地化を支持し、中国東北部・モンゴル東南部植民地化を支持し、中国全土軍事侵略を支持し、海南島侵略を支持しました。
 他国他地域侵略を肯定する日本国民の論理と倫理は、非論理であり反倫理なのですが、なぜそのような非論理・反倫理が、国民的規模で19世紀後半以後、国民国家日本内部で通用し続けてきたのでしょうか。

 1937年7月から1945年8月までの「戦没者」310万人を対象として、1963年8月15日に、はじめて日本政府主催で「全国戦没者追悼式」が行われ、ヒロヒトが出席しました。
 1965年8月「15日の3回目の「全国戦没者追悼式」では「キミガヨ」演奏後に、ヒロヒトが、「さきの大戦において、戦陣に死し、職域に殉じ、非命にたおれた人々とその遺族を思い、今もなお、胸の痛むのを覚える…………」という文書を朗読しました。この日から、毎年8月15日正午に日本の市町村役場などが、サイレンをならすようになりました。
 「紀元節」が復活したのは、その半年後でした。
 1999年8月13日に、他国他地域侵略の旗「ヒノマル」と天皇賛歌「キミガヨ」が、国民国家日本の法律で、はじめて「国旗」・「国歌」とされました。

 国民国家日本の植民地や占領地において、「ヒノマル」・「キミガヨ」・神社は、植民地や占領地の民衆を思想的に抑圧する暴力の手段でした。海南島でも、「ヒノマル」を掲げて侵入した日本軍は占領直後から「ヒノマル」を海南島の民衆に強制しました。占領の全期間に、日本政府・日本軍は、学校などで「キミガヨ」を強制しました。
 日本軍侵入後、海南島民衆の生活は、激変しました。侵略による被害は、回復されことが不可能な被害です。失われたいのちも時間も、もどりません。
 
 どうして、日本国民のほとんどが、日本政府・日本軍の海南島侵略を支持したのでしょうか。
 どうして、民衆が平和にくらしている島に突然侵入して、その島を占領するという犯罪を、日本国民のほとんどが、肯定できたのでしょうか。

 パレスチナやレバノンにおけるシオニストの暴虐を、日本国民のおおくは黙認しつづけています。1948年5月にパレスチナを軍事占領したシオニストは、パレスチナ民衆の大地を奪い、いのちを奪い、されに占領地を拡大しています。その非論理・反倫理は、他国他地域侵略を継続している日本国民の非論理・反倫理と同質です。

 その非論理・反倫理をうちくだいていくインターナショナルな関係を築いていきたいと思います。
                            佐藤正人
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1939年2月10日

2007年02月10日 | 海南島
 68年前、1939年2月10日、日本政府・日本軍は、海南島侵略を開始しました。

 1939年2月9日(農暦1938年12月21日)夜9時過ぎ、海南島北部の天尾沖に、日本軍の艦船が侵入し、10日未明から、日本陸軍部隊が、天尾海岸に上陸し始めました。
 明るくなってから、村びとが海を見ると、日本の軍艦47隻が沖に停泊し、数えきれないほどの上陸用艇が海岸と沖合いの軍艦の間を往復していたといいます。はじめ兵士が上陸し、つづいて武器、弾薬、馬、食料が陸揚げされました。
 その24日前、1月17日に、天皇ヒロヒト、総理大臣、海軍大臣、陸軍大臣らは、海南島侵略を最終決定し、その日に、大本営陸軍部と海軍部は、「二月上中旬ノ頃」海南島北部を共同で占領するという「北部海南島作戦陸海軍中央協定」を結んでいました。日本陸海軍合同の海南島奇襲攻撃は、ヒロヒトの「裁可」を前提にして計画的に実行されました。

 2003年3月31日に、わたしたちは、海南島侵略日本軍が最初に上陸した地点である天尾村(現、海口市秀英区新海村)に行きました。天尾海岸には、対岸の広東省雷州半島の徐聞との間の列車を載せたフェリーが発着する新しい大きな埠頭がつくられていました。3月2日に、海南島三亜と広東省広州との間の粤海鉄道の正式運行が始まったばかりでした。
 新埠頭から東に1キロほど、海岸線から百数十メートルほど離れたところに、天尾村の旧街区がありました。そこで、わたしたちは、当時のことを知っている人たちから話を聞かせていただきました。
 村の入口の小さな広場に座り込んでいた女性(名前を聞きとれなかった。文字は書けないという)は、
   「日本軍が来た時32歳。このあたりで物を売っていた。今は94歳。去年までならまだしっかり話せただろう。
  子どもをおなかに抱えていたとき、日本軍が来た。とても恐ろしい思いをした。魚を天秤棒で担いでいたのだが、日本軍が敬礼をしろと言って、できなかった。そしたら、ひざまづかされて、おなかを棒で殴られた」
と話しました。そのそばで、王乃深さん(1911年生)は、
    「日本軍が来たとき、山の中に逃げ込んだ。日本軍は敬礼をしないと殴った。日本軍は天尾村の人たちに娘を出せと言った。娘たちにひどいことをした」
と話しました。
 林克良さん(1918年生)は、天尾村の自宅で、つぎのように話しました。
    「日本軍が上陸する前、2~3日に1回、飛行機が海面すれすれに飛んでいた。船もきて、測量していた。天尾の海は浅いから、上陸地点を探していたのだろう。日本軍が上陸してくると、みんな山の中に逃げ込んだ。馬も一緒に来た。国民党軍が30~40人ほどいたが、日本軍が来ると逃げてしまった。
   日本軍は、子どもも年よりも殺した。わたしは、父が殺されるところを見た。後ろから3発撃たれた(左肩あたりを指す)。父は牛を飼っていた。村びとがたくさん死んだ。日本軍は女性を強姦した」。

 天尾海岸に上陸した日本軍は、3路に分かれて首都海口に向かいました。これとは別に海軍陸戦隊が、海口東部を河口とする大河、南渡江をさかのぼって海口に侵入しました。日本で1939年2月10日午後に撒かれた『大阪毎日新聞』号外には、
    「直ちに猛進撃を開始/宛ら無人の野を征く/陸海の精鋭、緊密協同/敵の砲台を血祭り/戦史に輝く無血上陸/未開発の無限宝庫/常夏、大密林の海南島/奇しくも日露宣戦布告記念日」
と書かれており、1939年2月11日の『大阪朝日新聞』には、
    「大本営海軍報道部公表(十日午後九時)……わが陸上部隊は正午ごろ本島の最大の都市海口に侵入……、海軍船艇の一部は……午後一時三十分ごろ海口に到達」
と書かれています。
 その後、日本の新聞は、連日、日本軍が海南島占領地域を拡大していく状況を煽動的に報道しています。
 「軍報道員として、此の度の光輝ある海南島攻略に参加致しました」と自称する火野葦平(1907年生)は、2月10日未明に天尾海岸に上陸し、途中戦車に乗って、その日のうちに海口に侵入しました。火野は、海南島の民衆を「土民達」と呼び、海口で、日本軍の宣伝ビラを街角に張って回っていました(火野葦平『海南島記』改造社、1939年)。

 日本のマスメディアや火野のような日本軍宣伝員が、全面的に肯定的に報道しているとき、海南島侵略に怒りを感じた日本民衆、あるいは疑問を感じた日本民衆は、どのくらいいたでしょうか。

 国民国家日本の他国他地域侵略史において、2・10(海南島奇襲上陸開始:アジア太平洋全域侵略開始)は、9・18(「柳条湖事件」:中国東北部・モンゴル東南部侵略開始)、および7・7(「盧溝橋事件」:中国全土軍事侵略開始)と同質の日付だと思います。
                                           佐藤正人
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日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究 2

2007年02月09日 | 海南島史研究
 1938年9月、台湾総督府は、海南島を中心として、その南方の「新南群島」などに対し「強力なる支配権を確立」し、台湾・「南洋群島」を統合し、「帝国南方政策の前進拠点」とするという「海南島処理方針」を作成しました。
 そこでは、台湾総督府は、海南島軍事占領を前提とし、
    「住民に対する方策は皇民化を以て本旨とす」、
    「大体十年を以て現在の台湾と同程度の統治成績を収むるを以て目標とす」、
    「住民の日本国籍取得は申請に依る許可制度とす」、
    「徹底せる国語普及政策を行ふ」、
    「黎人に対しては台湾に於ける‘アミ族’に対する理蕃方針に準じて之を撫育し山地資源の開発を促進す」
などとしていました。
 また同じ1938年9月に、台湾総督府は、「海南島に海南庁を置き東沙島西沙島及新南群島を附属せしむ」という「南方外地統治組織拡充強化方策」をだしていました。
 1938年12月23日に、日本政府は、ベトナム東南方・ボルネオ島北方・フィリピンのパラワン島西方にある「新南群島」を日本領土に編入すると、閣議で決定し、ヒロヒトは、12月28日にそれを承認しました。
 1939年1月17日に、ヒロヒト、日本政府、日本軍は、海南島占領を決定し、2月10日に、日本陸海軍が、海南島奇襲上陸を開始しました。
 1939年3月30日付で、日本政府は、「新南群島」を、台湾総督府令で高雄市の管轄としました。海南島占領と「新南群島」の領土化は結びついていました。                            
 1940年7月26日、日本政府は閣議で、日本を中心として「大東亜の新秩序」を建設することを国家の基本方針とするという「基本国策要綱」を決定しました。
 続いて、同年9月4日に、日本政府の首相、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣が、合同会議で、「日満支を根幹とし旧独領委任統治諸島、仏領印度及同太平洋島嶼、泰国、英領馬来、英領‘ボルネオ’、蘭領東印度、‘ビルマ’、濠洲、新西蘭竝に印度等」を日本の「大東亜新秩序建設ノ為ノ生存圏」とする方針を出し、9月19日にヒロヒトらを含む会議で決定しました。
 その4日後、フランスがドイツに降伏した翌日、9月23日、日本軍は、ベトナム北部に侵入しました。
 1941年2月3日に、大本営政府連絡会議は、「対独伊‘ソ’交渉案要綱」を決定し、そこで、世界を「大東亜圏、欧州圏(「アフリカ」を含む)、米州圏、‘ソ’聯圏(印度‘イラン’を含む)の四大圏」に分割し、日本は「大東亜共栄圏地帯に対し政治的指導者の地位を占め秩序維持の責任を負う」としました。
 1941年6月6日、大本営陸海軍部は、「対南方施策要綱」を決定し、「対南方施策の目的」(すなわち「南方」侵略の目的)は、日本の「総合国防力」を拡大することであるとしました。この目的達成のために、この年7月28日に、日本陸軍第25軍約4万人が海南島三亜から「仏領印度」南部(ベトナム南部・カンボジア)に侵入しました。
 その3週間前、7月2日に、ヒロヒトらは、「南方進出」にあたっては「対英米戦を辞せず」と決定していました。
続いてヒロヒトらは、同年9月6日に、
   「帝国は自存自衛を全うする為対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す」
とする「帝国国策遂行要領」を決定しました。
 同年11月5日に、ヒロヒトらは、ふたたび「帝国国策遂行要領」を決定し、開戦時を12月上旬に設定しました。
 その半月後の11月20日、大本営政府連絡会議は、アジア太平洋戦争開戦を前提として、「治安の恢復、重要国防資源の急速獲得及作戦軍の自活確保」を目的として、占領地に軍政を実施することを決定しました。11月25日に、大本営陸軍部は、軍政実施の具体方針を決め、フィリピン、マラヤ、「蘭領印度」、ボルネオから掠奪する「重要資源」の地域別リストを作成しました。
 1941年12月1日に、ヒロヒトと日本政府・日本軍の「指導者」らは、11月5日の「帝国国策遂行要領」に基づいて、アメリカ合州国、イギリス、オランダと戦争することを最終決定しました。
 アジア太平洋戦争は、1941年12月8日、日本陸軍がイギリスの植民地マラヤのコタバルを奇襲した時に開始されました。その1時間半後、日本海軍が、アメリカ合州国の植民地ハワイのオアフ島パールハーバを爆撃しました。
 コタバルに奇襲上陸した第5師団と第18師団は、1941年12月2日までに海南島三亜に集結し、その輸送船団は、12月4日に海南島を出発していました
  アジア太平洋戦争は、日本軍が海南島に奇襲上陸した1939年2月10日に開始されたともいえます。
 1939年2月12日に、蒋介石は重慶で、
     「海南島攻略は1931年9月18日の奉天攻略と対をなすものと考へられる、換言すれば日本は海南島を攻撃することによつて太平洋に第二の奉天をつくり出したのだ。奉天は満洲事変の発端であつた、海南島は太平洋事変の発端であらう」
と発言していたといいます(『大阪朝日新聞』1939年2月13日)。           佐藤正人
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