三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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日本海軍佐世保鎮守府 2

2007年02月27日 | 海南島
 1941年5月13日と5月19日に、海南島瓊海市(旧、楽会県)九曲江郷北方の波鰲村、上嶺園村、上辺嶺村を襲って住民を虐殺したのは、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊所属部隊であった。
 1941年6月11日(農暦5月17日)に、海南島瓊海市参古郷上坡村に侵入して住民を銃撃し車に積んできた石油をかけて焼き殺したのは、日本海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に所属する部隊であった。
 いま犠牲者を追悼する「五百人碑」が建てられている海南島瓊海市(旧、楽会県)北岸郷の村落を1941年6月24日(農暦5月30日)に襲撃したのは、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊所属部隊であった。波鰲・上嶺園・上辺嶺三村の犠牲者の墓碑には、犠牲者129人すべての名が刻まれている。
 1941年6月28日(農歴6月4日)に、海南島瓊海市烟塘鎮大溝村(旧、大石溝村)を襲って村人を殺害したのは、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に所属する烟塘守備隊の日本兵であった。いま大溝村の入り口に建てられている“大溝懐寃紀念碑”には、犠牲者38人すべての名前が刻まれている。
 1941年8月25日(農暦7月3日)、海南島定安県黄竹鎮の大河村、后田村、牛耕坡村、周公村の4村を襲撃し、母親に背負われた幼児をふくむ住民を殺戮したのは、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊所属部隊であった(大河村で79人、后田村で23人、牛耕坡村で3人、周公村で4人)。“黄竹四村公墓”の墓碑には「一百零九」という文字が刻まれている。
 日本敗戦4か月まえ、1945年4月12日(農暦3月1日)に、瓊海市九曲江郷(旧、楽会県互助郷)坡村、長仙村、三古村、南橋村、雅昌村、佳文村、風嶺村、吉嶺村、官園村の9村を襲撃し、おおくの村民を殺害したのは、佐世保鎮鎮守府第8特別陸戦隊に所属する中原守備隊、橋園守備隊、陽江守備隊であった。
 日本敗戦3か月半まえ、1945年5月2日(農歴3月21日)に、万寧市石城鎮月塘村で住民を虐殺したのは、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊所属部隊であった。

 わたしたちは、まだ佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の隊員の所在をつかんでいない。
 第16警備隊(呉鎮守府所属の特別陸戦隊)の朝鮮人兵士にはソウルで話をきかせてもらったが、「朝鮮村虐殺」にかかわった第16警備隊の日本人隊員にはまだ会えていない。田川氏の1946年付け「給与通牒」の発行者は、第16警備隊主計長であった。
 旧日本海軍は、横須賀、佐世保、呉、舞鶴の4か所に鎮守府をおいていた。
 「海上自衛隊」という名の現在の日本海軍は、横須賀、佐世保、呉、舞鶴、大湊の5か所に「地方本部」をおいている。
                                  佐藤正人
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