三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「現場へ! 強制労働の足跡をたどる:3  アジア人への冷たさ、根深く」

2020年12月13日 | 国民国家日本の侵略犯罪
https://www.asahi.com/articles/photo/AS20201209001374.html
「朝日新聞デジタル」 2020年12月9日 16時30分
『朝日新聞』夕刊 2020年12月9日
■現場へ! 強制労働の足跡をたどる:3  アジア人への冷たさ、根深く

【写真】朝鮮人追悼碑で慰霊祭。献花した金靜美(前列右から2人目)ら=いずれも三重県熊野市紀和町板屋
【写真】市民団体による朝鮮人追悼碑 
【写真】朝鮮人犠牲者の名前を書いた石。姓などが欠けている石が混ざっている 
【写真】紀州鉱山で死亡した英国人捕虜を顕彰する「外人墓地」 

 三重県熊野市の山中に、高さ75メートルの巨大な遺構が残る。紀州鉱山の選鉱場跡だ。戦時中、東洋一の規模とうたわれたこの鉱山で、1300人余りの朝鮮人労働者が、採掘やトンネル掘削などの強制労働に就いていた。
 その朝鮮人の追悼碑が、旧紀和町役場に近い国道沿いにある。
 2010年3月、市民団体「紀州鉱山の真実を明らかにする会」が建てた。…………
          阿久沢悦子
 

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/668554/
「西日本新聞」 北九州版  2020/11/29 6:02
■「今も残るのは珍しい」北九州市の山中に、旧制中学の射撃練習場跡

【写真】若松区小石の山中で見つかった構造物
【写真】旧制若松中(現若松高)の卒業アルバムに残る射撃訓練の写真

 北九州市若松区小石の石峰山中で、旧制若松中学(現在の若松高)の射撃練習場跡とみられる構造物が見つかった。同区出身の神奈川大名誉教授、田上繁さん(日本近世経済史)が石峰山の周辺を調べるなか、戦前に射撃場があったという住民の証言を聞き、9月中旬の調査で確認した。戦争遺跡に詳しい研究者によると、市内で学校の軍事教練の跡が確認されるのは珍しいという。
 場所は菖蒲(しょうぶ)谷池自然公園(同区小石)の上流で、現在はやぶにおおわれている。構造物はコンクリートや石積みなどでできていて、横幅約10メートル、奥行き約2メートル、高さ約1・8メートル。池だった場所に向かって地面が下る所をくりぬくように設けてあり、柱には「十六回卒業記念」と読める彫った跡がある。
 田上さんの連絡を受け、郷土史家で旧古河鉱業若松ビル(同区)の若宮幸一館長が調べたところ、若松高校の同窓会報や卒業アルバムに戦前の軍事教練に関する記事や写真がみつかり、1938年のアルバムには菖蒲谷とみられる実弾射撃を写した写真もあることが分かった。
 戦前、各地の学校では軍事教練があり、教官として陸軍の将校が配置されていた。同年卒業したのが第16回卒業生だった。
 その後、訓練を見た記憶があるという別の証言も得られた。構造物は池の対岸側から発砲する方向にあり、発砲時はその空間に身を隠したとみられる。
 北九州地区に残る戦争遺跡の調査や保存活動に当たる「北九州市の文化財を守る会」の前薗広幸理事長は「戦前は、軍以外にも学校や地元の団体が訓練する場所は各地にあったが、跡が今も残るのは珍しい」と指摘する。
 石峰山には、旧陸軍が設置した陣地の遺構も残っている。田上さんや若宮さんは「今後は、射撃場ができた時期や活動の内容なども調べたい」と話している。
         古瀬哲裕


https://mainichi.jp/articles/20201127/ddl/k27/040/350000c
「毎日新聞」 2020年11月27日 地方版
■「吹田の戦争遺跡をめぐる」発行記念 歴史学び、当事者性持って 執筆者・塚崎さん講師に学習会 /大阪

【写真】「吹田の戦争遺跡をめぐる」完成学習会で講演する塚崎昌之さん=吹田市山田西4の夢つながり未来館で2020年10月25日午後2時51分、亀田早苗撮影

 大阪府吹田市の市民団体「世代をこえて考える戦争と平和展実行委員会」は小冊子「吹田の戦争遺跡をめぐる」を発行した。その完成を記念する学習会が、同市内で執筆者の塚崎昌之さんを講師に迎えて開かれた。
 「吹田の戦争遺跡をめぐる」は、吹田市制80周年の市民提案事業として発行。市立平和祈念資料館(同市津雲台1)の前身、平和祈念資料室が出していた通信の
連80~2008年)を基に、現在の写真なども入れてまとめた。市内の学校に配布する予定。
 現在は関西大、立命館大で非常勤講師を務める塚崎さんは、府立山田高校の教師だった1993年、朝鮮文化研究会の生徒が「海軍山田地下弾薬庫」を調査し、文化祭で発表したのが地元の戦跡研究のきっかけだったと話した。弾薬庫があった場所には現在、パナソニックスタジアム吹田(同市千里万博公園)がある。
 塚崎さんは、吹田に多くの軍事施設がある理由について、戦前・戦中の大阪がどんな都市だったかから解説。大阪には東洋最大の兵器工場「大阪砲兵工廠(こうしょう)」があり、36年、軍拡が始まって軍需景気のため大阪市内の工場が手狭になった。東洋一といわれた吹田操車場は29年に城東貨物線(現おおさか東線)で砲兵工廠と結ばれていた。大砲や戦車は吹田操車場から各地の陸軍部隊へ。また中国戦線に出兵する兵士たちも吹田操車場から大阪市内の築港へ向かった。
 戦況が悪化すると軍事工場の疎開や、軍の地下貯蔵庫が造られた。朝鮮人労働者が劣悪な環境で働かされたという。
 塚崎さんは、生徒の家族にも戦争体験者が減った90年代、授業で広島や長崎、沖縄、中国・南京の話をしても「当時生まれてなくてよかった」といった反応が多くなったと話し、「戦争が起これば無関係ではいられない。歴史を勉強して、当事者性を持ってもらいたい」と述べた。
 小冊子は戦時中に吹田市内でもケシが栽培されて軍事利用されたなど、意外な事実も紹介。A4判50ページ。300円で販売も。問い合わせは同実行委(090・3714・7324)。
          亀田早苗
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