三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島における非軍人日本人の侵略犯罪 5

2012年03月02日 | 海南島史研究

■「戦犯作家」・「文化功労者」・「文化勲章」
 円地文子も、日本から侵入してきて大地と海を占領しようとする侵略者と戦う海南島の抗日反日戦士たちを、「奥地の山岳地帯に蟠踞している匪賊」と、火野葦平と同じコトバで表現しつつ、「私達の同胞の流した血と汗」を語り、海南島民衆殺戮を肯定・煽動していた。
 1941年12月8日、日本政府・日本軍は、アジア太平洋戦争を開始した。この日、ヒロヒトは、
    「皇祖皇宗ノ神霊上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亜永遠
    ノ平和ヲ確立シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス」
という文書をだした。
 その2年半後、円地文子は、「サイパン落つの悲報いたる。……言葉なくつつしみて英霊を弔いまつる。しかしこうした日のあることは開戦の大詔を拝した時から覚悟していたことである」と述べた。
 その2年半の間においても、日本軍は、海南島をふくむアジア太平洋の各地で多くの民衆を虐殺していた。
 円地文子が、「この討伐に尊い汗を――否、血を流した国民が、或いはその子孫が今から何年かの後……沿道に日本人の施設した文化が美しく華咲くのを見たなら、どのような感慨にうたれるであろう」という文章を公表してから4年半後、日本はアジア太平洋戦争に敗北した。日本の海南島占領は終わった。
 日本軍が海南島の民衆の生活を破壊し、海南島民衆からおおくのものを奪い、「討伐」と称して、民衆虐殺をくりかえしているさなかに、円地文子は海南島に侵入した。日本軍に護衛されて「海南島の討伐道路」を通り、「私達の同胞の流した血と汗」や「匪賊の討伐に従事する将士の労苦」を語った。
 そして、日本敗戦後、円地文子は、日本軍の「討伐」を全的に肯定・支持した過去を自伝から消し去った。
 円地文子は、海南島民衆にたいする「従順な、しかし極めて民度の低い民」というたぐいの発言を、死ぬときまで取り消すことがなかった。
 「ナチスの宣伝映画『最後の一兵まで』に見る文化的水準の高さ」を語っていた円地文子は、1979年に日本の「文化功労者」となりった。天皇ヒロヒトは、1985年に、円地文子に、「文化勲章」を「授与」した。『うそ・まこと七十余年』出版の翌年だった。
 円地文子のような人物は、日本ではめずらしくない。国民国家日本の他地域・他国侵略を肯定し、日本民衆を侵略戦争に煽動した日本の「文学者」で、じぶんの過去を自己批判した者はほとんどいない。
 日本国民を侵略戦争に煽動しなかった日本の「文学者」は、ほとんどいなかったが、火野葦平は、「戦犯作家」として1948年から1950年まで、「公職に関する就職禁止、退官、退職等に関する勅令」によって公職追放になった。
 火野葦平が公職追放処分になる前年に、ヒロヒトは、「日本国の象徴」・「日本国民統合の象徴」となっていた。
 最悪の侵略犯罪者ヒロヒトを「日本国の象徴」とし、ヒロヒトの誕生日を生前も死後も「国民の祝日」とし、天皇制を維持している日本の「文化」の本質を、円地文子は、いくらかわかりやすく示している。
                                                         佐藤正人

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