三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

海南島「現地調査」報告 2015年11月18日~24日 (1)

2015年12月13日 | 海南島近現代史研究会
 11月18日から11月29日まで、海南島近現代史研究会は海南島で15回目の「現地調査」を行いました(紀州鉱山の真実を明らかにする会としては28回目です)。
 わたしは11月18日から11月24日まで参加しました。その7日間のことを4回にわけて報告します。
                                斉藤日出治

■11月18日(水)
 午前は、南海出版公司の『真相』を編集した6名の編集部のメンバーと出版の反響や今後の共同行動について話し合いました。
 そのあと、海口を出発して、高速道路を西に走り、13;00ころ白沙黎族自治県栄邦郷岒尾村を訪問しました。300家族1000人ほどの村です。村の入り口に近い村民委員会の前で、文字係をしている劉俊清さん(1968年生、男性)に出会いました。劉さんの母親の李愛さんは1932年生まれで村の婦人部長をしていたが、2014年に亡くなったそうです。
 劉俊清さんに案内されて村の中に入り、呉雄英さん(1937年生、女性)から話を伺いました。当時はまだ赤ん坊だったので、あとで大人から聞いたということを含めて次のようにして話してくれました。
   「自分が生まれたころに日本軍がこの村に攻めてきた。この村が共産党の根拠地だと
   疑われて襲われた。日本軍は村を焼いた。そのとき、わたしはゆりかごに乗せられて
   いたが、日本兵がその紐を軍刀で切ったのでわたしはゆりかごから落ちたそうだ。
    わたしが小さい頃に、日本軍は飛行機で爆弾も落とした。その爆弾の破片でおなか
   にけがをした人がいた。この目で見た。村に入ってきた日本兵が私の頭を指で押した
   感覚をいまでも覚えている。日本軍が鶏の卵を割って食べているのを見た。家を焼か
   れたときに村人は逃げたが、村の家畜はすべて日本軍に盗まれた。
    ここには、望日岒村、甘日岒村、そしてもう一つ、3つの村があり、日本軍は順番に
   これらの村を襲った。私たちは望日岒村で家を焼かれたので甘日岒村に引っ越した。 
    今はこれらの村が岒尾村というひとつの村になった。
    ほかに90歳になる人が生きているが、もう話をすることができない」。

 岒尾村から南に進み、15:45ころに、同じ栄邦郷の光村を訪問しました。この村は、日本占領時には炳邦村と呼ばれていました。村の人民政府の建物の前で、洪明光さんが、
   「村から2キロほど離れたところに望楼があった。いまもそのあとが残っている。日本
   軍は川のそばに望楼を建て、川の水を何回も濾過して使っていた。
    以前にも、栄邦郷政府の役人が光村村に調べに来たことがある」
と話してくれました。
そのあと、村の中で韋怕南さん(86歳)に話を伺いました。
   「わたしが16歳のとき日本軍がこの村にやって来た。日本軍が来た時に作った橋が今
   でもある。橋の近くにトーチカのような丸い石と土でできた建物がある。この建物は
   村人に作らせた。日本兵は何人もいた。司令官は特に怖かった。みんな鉄兜をかぶっ
   ていた。司令官はときどき杖で人を殴った。豚や鶏を盗んだ。銃剣で豚を刺して殺し
   た。帽子を投げられて殴られたことがある。
    16歳のときに那大から人が来て、村長の命令で石碌で働かされたことがある。石碌
   には村から必ず一人が行かなければならなかった。石碌まで行くには一日かかった。
    村から牙叉鎮まで歩いて、そこから石碌までは1台のトラックで運ばれた。トラック
   は道に豚がいても人がいても平気でひいて走った。仕事は山から石や土を運び出す仕
   事だった。日本軍はコメを馬のえさに使っていた。食事の時はご飯を少しだけ、それも
   焦げ臭いご飯をもらった。茶碗がないので自分の帽子でご飯を受け取った。
    石碌で、病気のひとが焼き殺されるのを見たことがある。木の板に火をつけてその
   板の上に病気の人を乗せて焼き殺した。逃げようとするとその人を火の中に投げ込ん
   で押し戻した。
    石碌では3日間働いて、夜中に隣村のもうひとりの人といっしょに走って逃げ出して
   村に戻ってきた。村に戻ると日本軍が来て、16歳だから逃げたのはやむを得ないがそ
   の代りコメを出せ、と言って親にコメを出させた。
    日本軍が来た時にはここに住んでいた。そのとき母はすでにいなかった」。

 そのあと、村の韋正飛さんに望楼の跡に案内していただきました。望楼跡に向かう舗装道路の途中に舗装されていない横道があり、そこを少し歩いて行くと石橋がありました。その橋は日本軍によってつくられたものでした。この石橋は軍用トラックも通ることができたといいます。石橋から1キロほど離れた小高い丘に日本軍の望楼の跡がありました。韋正飛さんはつぎのように説明しました。
   「この丘の上に石と土でつくった望楼が建てられていた。望楼の基礎にはサンゴが使わ
   れた。サンゴのかけらがあちこちに落ちている。サンゴは海頭の浜から運んできた。硬
   くて軽いので望楼の基礎として使うには最適だった。丘の周囲には戦溝の跡もある。丘
   からは周囲が一望できる」。

 この望楼とその近くの兵舎は、海頭と石碌との中間地点に建設されていた日本海軍海南警備府横須賀鎮守府第4特別陸戦隊守備隊の司令部のものですが、1943年当時の海南警備府の地図には記載されていません(海頭は、ことし3月30日に訪ねました。このブログの2015年6月20日の「2015年春海南島「現地調査」記録3」をみてください)。

                                 邦渓鎮 泊

■11月19日(木)
 朝8時ころ、白砂黎族自治県邦渓鎮南北溝村を訪問しました。
 村の入り口で符文偉さん(1972年生、男性)に出会い、昔のことを知っている人の家に案内していただきました。
 陸色開さん(85歳、女性)は、当時のことを次のように話しました。
   「私は1960年にこの村に嫁いできた。出身の村は干村で、日本軍はその村で村人を並ば
   せて木の棒で殴った。酸梅樹の樹に人をつるして殺したこともあった、日本軍はむりや
   り働かせ、仕事に出ない人をつかまえて、穴を掘らせ、その人を殺してその穴に埋めた。
    わたしは馬にやる草を刈る仕事をさせられた。私の父も母も日本軍の仕事をさせられ
   た。つらい仕事だった。仕事が終わると並ばせて人数を確認した。並ぶのが遅いと殴ら
   れた。村の近くに望楼があった。望楼は農場を作る前まではそのまま残っていたが、農
   場を作るときに壊した。日本兵が何人いたかは分からない。日本兵は豚や鶏を盗んだ。女
   性を強姦した。日本軍は怖い。日本兵の髭が痛かったのを覚えている」。

 続いて、陸色片さんの夫の潭亜徳さん(85歳)から話を伺いました。
   「日本軍は言うことを聞かない人を穴に埋めたり、木につるしたりして殺した。
    日本軍にさせられた仕事は道路工事や草刈りなどで、仕事が遅かったり話が通じない
   ときには怒って殴られた。何回も殴られた。食べ物はもらえなかった。
    日本軍は中国大陸から来た労働者を銃殺したり軍刀で首を切って殺した。仕事をして
   いるときにこの目で3回見たことがある。死体はまとめて埋めた。埋めた場所はわかるが、
   今もそのままになっている。日本軍は仕事をするか、豚や鶏を供出するか、どちらかを
   選ばせた。
    わたしは石碌でも働かされた。村から必ず一人はいかなければならなかった。村から
   数人いったこともあった。誰の命令によるものかはわからない。わたしの両親も石碌に
   いったことがあった。ここから石碌までは13キロほどで、歩いていった。行かないとひ
   どい目にあうので行くほかなかった。仕事は大人と子供のグループに分けておこなった、
   石碌では食事が出たが、魚や肉はなく、コメと野菜ばかりだった。村の仕事のときよりも
   石碌での虐待ははるかにひどかった。
    日本軍の仕事をさせられていたが、やがて村から逃げ出して10キロほど離れた山の中
   で草の家を建てて暮らした。村からコメをもっていったり山で作物を栽培して暮らした。
    こうして村人はだんだん少なくなり、日本が負けた時には日本軍の仕事をする村人は
   ほとんどいなくなった。この村だけでなく、周りの村の村人もみんなそのようにして逃
   げ出した。日本軍は逃げた村人を探して、見つけた村人を殺した。よその村の人でその
   ようにして殺された人がいた。わたしは3年くらい逃亡生活を送った。父母と弟の4人で
   暮らした。暮らした場所はだいたいわかるが、今は開拓されて変わったので正確には分
   からない。解放後1951年になって村に戻った」。

 話を伺った後、符文偉さんに、日本軍に殺された人が埋められているところや望楼のあった場所に案内していただきました。そこでつぎのような話を伺いました。
   「このあたりは最初はユーカリの木、ついでゴムの木を植林し、いまは麻を栽培してい
   る。日本軍時代はこのあたりは密林だった。日本軍に殺された人が埋められている場所
   は、いまでも植林をしないでそのままの状態にしている。
    少し高くなっている望楼のあった場所の周りには戦溝があった。子供の頃には望楼の煉
   瓦がたくさんころがっていた。いまもすこし残っている。戦溝も部分的に残っている」。

 南北溝村を離れ、12:00ころ白沙黎族自治県七坊鎮高石村を訪ねました。わたしたちは、2012年3月25日に高石村を訪問したことがあります。
 はじめに村の門を入って突き当りのところにある周陳定さん(1944年生)の家を3年半ぶりに訪ねました。
周陳定さんは、つぎのように話しました。
   「私は学校の教師をしていたころ白沙地区の各地区の聞き取りをして、8-9つの村で80
   歳以上の高齢者の10-20人の話を記録した。
    聞き取りをした村は、英湿、南洋、高石、英歌、金波などだ。英歌村では若いころ革命
   組織に参加し後に共産党の幹部になった87-88歳の人からも聞き取りをしたが、この人
   はもう亡くなった。
    この聞き取りは政府から頼まれてやったのではなく、自分が元気なうちに村の記録を残
   したいと思い、自費でやった。その記録をもとに、「銘記歴史―高石村」、「七坊、光雅
   人民抗日救国指部的成立」、「抗日戦争時期高石交通站」などを書いた。「抗日戦争時期
   高石交通站」はことし5月に白沙黎族自治県庁に送った」

 続いて、陳さんのすぐ近くに住む孫佛さんのお宅を訪問しました。
 3年半前に訪問したとき、孫さんが教員を退職後に『電影文学劇本 高石村風雲録』を書きすすめていることを知り、今回再訪した際にどの程度作業が進んでいるか尋ねたのですが、その後あまり執筆作業は進んでない、上手く書けない、との返事でした。
 『電影文学劇本 高石村風雲録』の原稿は、上巻が原稿用紙で227頁、下巻が235頁あります。原稿のなかには、石碌鉱山で働いていた労働者が逃げ出して金波郷の村にたどりついたところで日本軍に捕まり処刑されたことについても書かれていました。孫佛さんは金波郷で1987-1994年の8年間教師をしていたとのことでした。

 そのあと、南に進み、南洋村を通って英歌村を訪問しました。日本軍はこの村を共産党軍の根拠地とみなし、頻繁に襲ったそうです。当時のことを知っている高亜皮さん(88歳、男性)から話を伺いました。
   「当時、この村に共産党の幹部が滞在して、村人に遊撃隊への参加を呼び掛けていた。わ
   たしの父は共産党の食糧隊長になりコメを集める仕事をした。
    村の遊撃隊長は麦亜丁という人だった。日本軍の基地は近くの白打にあって、毎日のよ
   うにやってきた。1日に2回来たこともある。そのとき村人は山に逃げた。自分は村にいた
   時も、山に逃げた時もあった。
    わたしの叔父(父の弟)の高亜并はつかまって、日本軍の基地で殺された。穴を掘らさ
   れて軍刀で首を切り落とされた。50歳くらいだった。革命運動に参加していたことが理由
   だった。遺体は埋められて分からなくなったが、あとで骨を拾って村に持ち帰った。しか
   し、いまは骨を埋めた場所がどこかわからなくなってしまった。叔父といっしょに8人が
   捕まったが、ほかの人達は釈放された。
    日本軍は村の近くに仮設の橋を作ったが、共産党がその橋を壊した。
    わたしは石碌鉱山に仕事に行かされた。13歳の頃だった。村から日本軍の基地にゆき、
   そこからはトラックで石碌まで行った。15日くらい働いた。仕事は山のジャングルの草
   木を切る仕事だった。大人が大きな木を伐り、子どもは小さい木を切り、草を刈った。
   怠けると鞭で打たれた。私も一度殴られたことがあった。私と同じ13歳くらいの子ども
   も50人くらいいた。作業をしたのは地元の人ばかりだった。監督をしていたのは軍服を
   着た日本兵だった。一つの村から2名が行かされた。夜は大人たちが作った草の長屋で寝
   た。逃げたひとはいなかった。逃げて見つかったら殺される。暑かったのでふんどしだ
   けで仕事をした」。

 5時すぎに英歌村を離れて石碌ダムの北側の山道を通って石碌に抜けました。6時過ぎに陽が落ち、石碌鎮に着く前に暗くなっていました。石碌から東方市にいきました。着いたら8時になっていました。

                                   東方市泊
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