三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

11月2日 文昌市蓬莱鎮高金村、南陽鎮金花村で

2014年11月02日 | 海南島史研究
 きょう(11月2日)、午前9時40分に文昌市蓬莱鎮高金村に着きました。文昌テレビ(文昌市广播电视台)の韓勇記者が文昌市内から同行しました。
 高金村の自宅で張運茂さんが、つぎのように話してくれました。
   「日本軍が村に入ってきたときは22歳ころで、結婚していた。この村で9人が殺された。
    何年のことだったかはわからないが、正月6日だった。国民党の文昌県の県長だった陳毓献が2、3人の兵を連
   れてこの村に来た。隣の村(早春園村)に泊まっていたが、正月6日にこの村に来て泊まった。
    日本軍がどうしてそのことを知ったかわからないが、翌日の朝、国民党の兵が朝食を作っていたとき、日本軍
   が村を攻めてきた。国民党は持っていた機関銃をそのまま置いて逃げたので日本軍に奪われた。県長らが泊まっ
   たところと、機関銃を置いたところは別で、機関銃を置いたまま逃げた。
    県長、兵、ほとんどの村人は逃げることができたが、9人が殺された。
    張夢豊夫妻2人。張夢徳夫妻2人。張運英の妻。張太康。林詩章。この人は親せきを訪ねてこの村に来ていた。
   張夢普の妻。張夢普の婶(shen父の弟の妻)。
    日本軍は、2軒の家を焼いた。張夢仁の家と張太康の家。張夢仁は保長か甲長だった。県長は、張夢仁の家に
   泊まっていた。県長は40から50歳くらいだった。県長がどこの村の人かは知らない。県長の家族のことも知ら
   ない。
    文昌県の国民党と日本軍は戦ったことがある。
    日本軍が来たとき、わたしの家族は全員が村にいたが、みんな隠れて助かった。当時の家の場所は、ここだ。
    当時の家には中2階があって物置にしていたが、わたしはそこに置いてあった木や家具の陰に隠れた。妻を
   別の部屋に隠した。日本軍は1階だけ探して出ていった、日本軍が来たのはこのときだけだった。
    日本軍は重興にいた。
    重興の日本軍が石壁鎮の松田村に基地を建設するためにトラックで来たとき、国民党蓬莱中隊中隊長林天機
   の部隊ともう一つの部隊が合流して松田村でトラックを襲撃した。日本軍の運転手一人が生き残り、みんな死
   んだ。この直後に日本軍が降参した。
    トラックは1台か2台かわからない。運転手が重興に逃げかえって報告するのを、しごとをしていた中国人が
   聞いた。
    わたしは行かなかったが、ほかの村人たちは日本軍のしごとをしたことがある。
    当時のこの村のことで、記録されたものはない」。

 張運茂さんは、国民党の文昌県の県長について話していますが、日本占領下の海南島の一部には、一時期、日本の傀儡政府の県長と国民党政府の県長と人民政府の県長が併存しており、二重権力状態(あるいは、三重権力状態)であったようです。
 1941年7月に日本海軍海南島警備府司令部が作成した『海南島敵匪情况』(軍極秘 機密海南部隊命令第七号別冊)の「敵匪主要人物一覧表」には、「偽文昌県々長」、「偽定安県々長」、「偽澄邁県々長」、「偽白沙県々長」、「偽琼山県々長」、「偽崖県々長」、「偽儋県々長」、「偽瓊東県々長」、「偽楽會県々長」、「偽邁寧県々長」、「偽陵水県々長」、「偽保亭県々長」の氏名と経歴が記載されており、「文昌県共産組織一覧」には、「県人民政府 県長朱協堯」と書かれています。この日本軍文書は、1941年7月の時点で、文昌県に、傀儡政府の県長、国民党政府の県長、人民政府の県長が併存していたことを示しています。

 張運茂さんに話を聞かせてもらったあと、周英さん(95歳)の家に向かいました。その途中で出会った張泰傳さん(86歳)は、つぎのように話しました。
   「ここに、張夢仁の家があった。
    3人がここで殺された。そのときは生きていたが、何日かして死んだ。
    この家に県長の兵士が寝ていた。兵士が手洗いに出て、女性が日本軍を見つけて声を出した。国民党の兵士
   が気が付いてピストルで撃ったが、日本軍は機関銃で撃ち返したので、国民党の兵士はここに機関銃を置いて
   逃げた。日本軍は、家を焼いた。
    あのとき、わたしは13歳~15歳くらいだった。日本軍は村人ふたりを捕まえて、重興まで連れていって電気
   を通して殺した」。

 周英さん(95歳)は、つぎのように話しました。
   「18歳で結婚してこの村に来た。23歳のとき、日本軍が来た。
    水桶、コメを入れるかめ、ナベ、茶碗、箸……みんな持っていかれた。
    持ち出せなかったものは、全部こわされるか、焼かれた。服も燃やされた。
    フトンや耳飾りなどの装飾品など、価値あるものは奪われた。
    (夫の)父(張夢豊)は殴り殺された。(夫の)母は銃剣で刺し殺された。
    日本軍が来た時、わたしは実家に行っていて助かった。夫(張泰林)は家の裏山に逃げた。
    父は逃げなかった。日本軍は父に装飾品、コメ、フトンなど、使えるものを運ばせた。
    父は、重くて運ぶことができず、殴り殺された。父は“良民証”を持っていて、日本軍が来たとき見せたと、
   村の人から聞いた。
    着ているものしか服はなくて、冬は寒くて大変だった。
    わたしは実家に行っていて、朝帰ろうとしていたが、うわさを聞いて、戻るなと言われ、午後になって戻った。
    父はもう死んでいたが、母はまだ息があったが、1週間くらいして亡くなった。父はかんたんに埋めた。みんな
   逃げていなかったので、手伝ってくれる人がいなくて、かんたんに埋めるしかなかった。母は,埋めてレンガで
   囲むことができた。
    日本軍のしごとはしたことがない。夫もしていない。
    昔、飛行機の音を聞いた。こわかった。みんな山の方に隠れた。
    行商しているとき、機関銃を発砲されたことがあった。わたしの命もここで終わりと思った」。

 午後、南陽鎮に行きました。
 2003年3月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会が南陽鎮の老王村を訊ねたとき、村の近くで「南陽人民英雄纪念碑」(1989年秋に文昌県人民政府が建立)をみました。このとき、この碑は修築中でした。
 こんど11月2日に11年半ぶりに再訪しました。碑の裏面には、南陽地区で倒れた「革命烈士和人民英雄」の名が刻まれています。ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年前は昨日のこと』の最後に、この銘板を映し出しました。このときには246人の名が刻まれていましたが、修築後の碑には330人あまりの名が刻まれていました。
 「第一・第二次国内革命戦争時期(1937年7月6日以前)犠牲的烈士」、「抗日戦争時期(1937年7月7日至1945年9月2日)犠牲的烈士」、「解放戦争時期(1945年9月3日至1949年9月30日)犠牲的烈士」、「社会主義革命和社会主義建設時期(1949年10月10日以後)犠牲的烈士」の名前が刻まれており、「抗日戦争時期犠牲的烈士」は、243人で、うち63人が女性でした。

 「南陽人民英雄纪念碑」を離れ、午後4半に、1942年11月~1943年4月に日本海軍第15警備隊部隊が襲撃し住民を多数虐殺した金花村を訪ねました。、
 龍碧玉さん(83歳)に話を聞かせてもらうことができました。龍碧玉さんは、つぎのように話しました。
   「1948年に瓊山県中税市福昌村からここに嫁に来た。家は貧農だった。ふたりの兄が革命死した。
    国民党との大水戦闘のとき、国民党に囲まれて犠牲になった。兄の名は、龍レンム、2番目の兄。
    龍コタッ(哥仨)、3番目の兄。革命に参加してすぐだった。1番上の兄は革命に参加しなかった。
    日本軍が来たとき、みんな山のほうに逃げたが、食べ物がなくてたいへんだった。
    福昌村に日本軍が来たとき、父母は炊事道具を田んぼの泥の中にかくした。昼は山に隠れていた。
    日本軍がいなくなると、山から下りてきて、道具を出してかんたんに食事をつくって食べて、またかくして山
   に隠れた。家は焼かれてなかった。
    日本軍は、鉄の帽子、長い靴をはいて、福昌村を何回も通ったが、はじめは何もしなかった。
    奸漢が案内してきて、人を見つけたら殺すようになった。
    山に逃げた。山に逃げたときは、妹もいっしょだった。数えられないくらい、何回も逃げた。1か月か2か月間、
   逃げていたと思うがはっきり覚えていない。山の中で高い木に登って見張りをした。日本軍の顔を見たら、太鼓
   をたたいてみんなに知らせた。
    山では穴を掘って、上に草とか木をかぶせた。雨に降られたとき、冬は、たいへんだった。
    福昌村は共産党の根拠地で、瓊山大坡クイツクア(地名)は国民党の根拠地だった。
    結婚後のことだが、国民党は三光政策を実施した。南陽のほうで。
    国民党は日本軍と同じく牛や鶏を盗っていった。日本軍のときも山に逃げたが、国民党のときも山に逃げた。
    実家は文昌県と瓊山県の境界にあって、山を越えれば遠くはない。3歳ころ、婚約した。赤い紙に、男の子と
   女の子の名前、生年月日を書いて占い、婚姻を決める。定婚。“紅紙合命”という。
    金花村では、日帝時代に40人くらい殺された。生き残ったのは、村の半分くらいだったという」。

 龍碧玉さんに別れてから近くに住む符之居さん(78歳)に話を聞かせてもらうことができました。符之居さんは、つぎのように話しました。
   「6歳のころ、日本軍が来たので山に逃げた。山から下りてきたら家は焼かれていた。
    住むところがなくなったので、草でかんたんな家を作った。
    1家族、3世帯で暮らしていたが、2世帯は全滅して、生き残ったのは、じぶんの家族だけだった。
    わたしの家族は父母とじぶん。全滅した2世帯は6人。符国根、符樹紳。
    山に逃げていたとき、日本軍がこの村に駐屯していた。半年間くらい。人数はかなり多かった。日本軍と国民
   党はなかよくしていた。日本軍は出て行くとき、共産党が泊まれないように村を焼いた。
    40人は、同じ日、同じ場所で殺された。父は革命に参加していなかった。
   母は、母の母、じぶんと妹を連れて逃げ、白石渓の洞くつに隠れた。中税の洞窟に母たちと隠れていたとき、日
   本軍がすぐそばを通った。母が声を出さないように、わたしの喉を押さえた。
    日本軍が村のどの辺に泊まっていたか知らない」。

 符之居さんに話を聞かせてもらっていると、符之椿さん(88歳。符之居さんのいとこの兄)が来て、つぎのように話してくれました。
   「日本軍はこの村に泊まっていた。3か月か4か月間くらい。
    わたしは、1942年か1943年に革命に参加した。いくつの時だったか覚えていない。同じ金花村の李福海が共産
   党の支隊長だったので、参加した。李福海は第7中隊の支隊長だった。年は覚えていない。
    東閣で戦ったとき、死者がかなり出た。見張りが、日本軍はトラック1台で来るといって攻撃したが、日本兵が
   田んぼから攻撃しながら出てきて、共産党の兵士が撃たれて死んだ。かなりの犠牲が出た。大隊長の李政明が負
   傷した。ヤンチョウイ(楊昭儀?)、黄有文、王世仕が死んだ。
    わたしはこの戦闘には参加していない。銃を持って戦ったことはない。わたしは戦闘員ではなかった。幹部の
   世話をした。掃除とか、食事の世話だ。部隊は移動した。日本軍が敗けたときは、どこにいたか覚えていない」。

 金花村を離れてから近くの老王村を訪ねようとしたのですが、暗くなり、道がわからなくなったので再訪をあきらめました。2003年3月の老王村訪問のことは、紀州鉱山の真実を明らかにする会編『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』(2005年5月発行)24頁をみてください。

                                               佐藤正人
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