三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

10月29日 文昌市抱羅鎮石馬村で

2014年10月29日 | 海南島史研究
 きょう(10月29日)、朝8時半から海口の南海出版公司で霍宝珍薫事長、张愛国副総経理、呉雪さん、魏霊玲さん、黄志勇さん(「日寇在琼屠戮史证坛」のデザイン方案の責任者)と今後の共同作業について話し合い、午後 1942年3月2日(農歴1月16日)に日本海軍第15警備隊部隊が襲撃し住民172人を虐殺した文昌市抱罗镇の幸存者谢春梅さんに抱罗華僑医院の裏の自宅でに話を聞かせてもらいました。刘笑非海南日报记者が同行しました。
 海南島近現代史研究会創立前、2003年3月に紀州鉱山の真実を明らかにする会は谢春梅さんを訪ねたことがあります(紀州鉱山の真実を明らかにする会編『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』2005年5月、24~25頁をみてください)。
 谢春梅さんに話を聞かせてもらったあと孫の潘浩さんの案内で石马村に向かいました。
 石马村では、潘孝勇さんとその弟の潘孝赴さんに迎えられました。
 祠堂の近くの墓地に、「公元一九四二年農歴元日十六日被日本無辜殉逝」と刻まれた石碑が建てられていました。1984年春に建てられたものでした。
 幸存者の潘正川さんの息子さんの家に案内してもらいました。
 午後4時過ぎから潘正川さん(1931年生)に話を聞かせてもらうことができました。
 潘正川さんは、
   「この村は共産党の根拠地だった。共産党の組織が村で活動していた。
    日本軍の兵隊は、抗日組織の遊撃隊に撃たれてけがをした。それでこの村を襲って焼いた。
    1月17日の朝、172人が殺され、22日に22人が殺された。
    自分の家は、大きな部屋2つ、小さな部屋3つ焼かれた。
    当時、家は大小合わせて300軒くらい。人口はわからない」
と話しました。その場に来てくれた石馬村の初代共産党書記長の王録雰さん(1927年生)は、
   「殺された人が多くて、すぐにみんなを埋葬できなかったので、犬やブタなどに食べられないように、遺体を木の上
   にあげた」
と話しました。
 潘家泰さん(77歳)は、
    「母が台所にかくまって助かった。祖父が殺された。祖父は目が見えなかった。それまで日本軍は何回も来たが
    家の中で座っている祖父には何もしなかったので、1月16日にも座っていたが、殺された。祖父の名前は、潘先桂。
    台所に9人が隠れていたがみんな助かった。小さいとき母は亡くなったので、このことは母かにら聞いたのではな
    い。同じところに隠れて助かった人から聞いた」
と話しました。
 午後6時過ぎに暗くなりかけた石馬村を離れ、文昌市内に向かいました。
 別れ際に、潘孝勇さんは、殺された人たちのなまえは全力を尽くして探す、と言いました。潘孝勇さんによれば、石馬村は、トウガラシ、カボチャ、イネ、ラッカセイの産地だが、交通が不便で道路が悪く、経済は遅れているとのことでした。

                                       佐藤正人
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