三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

10月30日 文昌市東閣鎮鳌頭村で

2014年10月30日 | 海南島史研究
 きょう(10月30日)、日本政府に謝罪させ賠償させる訴訟を準備している邢锋さんに案内されて、1943年4月10日(農歴3月6日)に日本海軍第15警備隊部隊が襲撃し住民43人を虐殺しその後一か月間にさらに30人を殺害した東閣镇新群村委会鳌头村を訪ねました。
 幸存者杨必森さん、楊昭栄さん、杨愛蘭さんに話を聞かせてもらうことができました。
 楊必森さん(1922年生)は、
   「3月6日の朝、日本軍が村の入り口を封鎖した。
    このころはサツマイモの収穫時期で、母はその日の朝、サツマイモを薄く切ったものを乾燥させるために村の外に行
   こうとしていた。日本軍と出会った。日本兵は母の腹を突き刺した。母は銃剣を両手でつかんで手も切られその場で死
   んだ。母は、邢氏。
    わたしは兄といっしょに、穴に隠れた。日本軍は家に誰もいないのを見て火をつけた。わたしと兄は、煙がひどくて
   隠れていられず穴を出てつかまった。えりくびをつかまれ、火のなかに放り込まれた。兄は足をやけどし、わたしは火
   の中で手をついたので、両手を火傷した。兄はやけどがひどくて、1948年に死んだ。兄の名は、楊必雄、4歳年上だ
   った」
と話しました。楊必森さんの両手の指は、ねじまがっていました。
 わたしたちが楊必森さんに自宅で話を聞かせてもらっているときに訪ねてきた隣家の楊昭栄さん(1929年生)さんは、
   「家族4人が殺された。あのとき、家族は父と母、姉、わたし、妹、弟3人の8人だった。
    母は午前中、楊応庄の家で閉じ込められてほかの人たちといっしょに焼き殺された。一番下の弟は、外にいて、銃剣
   で刺されたが、気が付いてのどが渇いて家に戻ってきたところをまたつかまって蹴られて死んだ。当時、4歳か5歳。名
   は楊昭瑞。
    父は、翁田村のほうに、鉄のしごとのことで出かけていて助かった。
    母の父母が、同じ日、隣村で殺された。母の父は、教師をしていて、名は範会瓊。母の母は、符氏。
    姉はもう一人の弟を負ぶって逃げ、洞くつに隠れていた。じぶんと妹、もう一人の弟は文教のほうに牛追いに行って
   いて助かった」
と話しました。楊愛蘭さん(1929年生)は、
   「南文村に嫁いだが夫は、東南アジアに行ったので、実家に戻った。ここは生まれた村。
    13歳のとき、父が殺された。楊必育。36歳だった。14歳のとき、家が焼かれた。
    楊応庄の家に21人か22人が集められた。年寄りと子どもだけ。出口はひもでしばって閉じ込められた。日本軍がやし
   の枝を運んで入り口に積んでいたので危ないと思って、家の中にあった刀で、内側からひもを切って逃げた。
    逃げることができたのはふたりだけだった。あとの人たちは逃げる間がなく全部殺された」
と話しました。
                                     佐藤正人
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする